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第11話

*  夏の盛りを過ぎたあたりからダンがプリモスの館に出入りすることが増えていた。人気のある香木が昨年の天候不順で価格高騰し、どの店も量を確保するために必死で伝手を辿っていたのだ。  壮麗な石造りの建物が夏の太陽を反射して輝いている。窓の少ない屋内はひんやりとした空気を閉じ込めていた。  香木の希少性が高まるにつれ通される応接室は屋敷の奥になり、部屋の調度品も分かりやすく高価なものになっていった。その上小さな茶会に招かれたりすることもあったが、そこでジョアンと会うことはなかった。  今日は調達状況を報告した後ご丁寧に前庭でお茶でも飲んで行けと言われたので、ダンは木陰を選びながら屋根のある所までのんびりと散策を楽しんでいた。  ふと、微かな音が耳をくすぐった。人間の耳では到底拾いきれないような音量だがダンにははっきりと聞こえた。否、聞こえたのは聴覚のおかげなのか、甘く響く低く掠れた声の持ち主のせいなのか。  ところどころ歌詞を迷いながら危なっかしく歌は続く。たった一度聞いただけの歌をジョアンは覚えていたのだ。ダンの指にすがりつく代わりに覚えたのだった。  紡ぎ出される調べに合わせていつしかダンも歌っていた。ジョアンの歌うキーの下で低く響かせる。人の可聴域ぎりぎりの音で。  一瞬ジョアンの歌が途切れかけたが、ダンが続けると再び音を乗せてきた。    音の波は重なって心が震え合う。人ではないダンと獣人ではないジョアン。ましてや番でもない二人の間を繋ぐのは、口を閉じれば途切れてしまう歌の調べしかなかった。      ともに(いこ)いて 夢に(ふけ)らん        夢に耽らん 夢に  最後のところでジョアンの声は微かに湿り気を帯びていた。 「ダン、いるのか?」  顔が見えない分感情を隠す必要がないのだろうか。ジョアンの声は昼に鳥たちを呼び寄せる花のような匂いがあった。  ここにはない、縋り付こうとしていた指先を思い出して、ダンは手を握りしめた。 「小さな声で話していい、聞こえるから。俺の歌で覚えたのか。」 「何しに来た?」 「囚われの身の哀れなΩを慰めに。」 「ふふ、見つかったけど見つけてないな。どこにいる?」 「お茶を飲めと言われてくそ暑い庭にいるよ。」 「ああ、ならそこを見下ろせる涼しい部屋に移動しよう。」 「暑い庭の哀れな獣人を笑うがいいさ。」  お互いの姿が見えないことで気持ちは綻んで素直になる。以前店で話した時とは比べものにならないほど心は剥き出しになってゆく。雨季の始まりと共にできる川のように、語りたいことは幾らでも流れ出してきた。      ふと、ジョアンが聞いた。 「南はるかなる国っていうけど、南に行ったら何があるんだ?」  幼いころからすでに将来の美しさを期待されていたジョアンは、後見が決まる前から出来るだけ外を歩かないようにして守られていたため学校も卒業していなかった。世間など知らない方がいい、Ωとして手に入れられる幸せを見つけなさいと。 「この歌が作られた国から見たらここが南はるかなる国なのだろうな。さらに南に行くとどんどん涼しくなる。南の端、地終わる海岸では海に氷が浮かんでいる。」 「お前は獣人だけどαで、遠い土地にも行けるんだな。俺はこの町から出たことがないし、死ぬまで出ることもない。」  それだけ言った後黙りこくったジョアンは何かをじっと考えているようだった。  風が運ぶわずかな涼、陽光を透かすことのない肉厚の葉が足元に落とす影。昼の静かな語らいは、気が狂いそうなほど優しく穏やかで、悲しかった。  羽虫の羽音すら聞こえそうな静寂の後、ダンの耳でもようやく聞き取れるほどの囁き声がした。 「泥に足を取られて、そこで咲くしかない花もあるんだ。」  二人の会話は穏やかな冷たい声で遮られた。 「部屋にいないと思ったら、こんなところで何をしている?」 「……部屋だと息がつまるから庭が見たくて。」  窓の外をのぞいたプリモスはダンの姿を認めると鼻で笑い、ジョアンの腕を掴んで部屋の奥に歩いて行った。  プリモスだけがジョアンに触れることができる。そんな事実を今更ながら目の前につきつけられた。  遠ざかる二人の話声は小さくなっていったが、鋭敏な聴覚を持つダンの耳はまだ音を拾っていた。 「間もなく発情期だな。孕むこともできないお前でもαを見ると落ち着かないのか? 私という番がいる癖に他のαを呼び寄せるとは思わんが、獣人などに匂いをふりまいても何にもならないぞ。どうせ他人に触れられれば泣きわめく羽目になるのだから、大人しく部屋で私を待っていなさい。」  それから暫くして、プリモスが新しいΩの後見権を競り落としたという話がダンの元にも届いた。かの男は一度に一人のΩしか囲わないことで有名だった。それはつまり、プリモスがジョアンの後見を辞めることを意味していた。  ジョアンはどうなる? ダンには何も分からない。急いでセトに連絡を取ると、あきれた声で説明してくれた。 「まだあのΩにご執心なの? やめときな、悲しくなるだけだよ。後見審議で次の主が決まったら二度目の番解消治療を受けるらしいから、心も身体もまともではいられないと思うよ。」

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