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第26話

 現実のジョアンはまだ眠ったままだ。  ダンは少しでも水分を摂らせようと、果実で香りを付けた水に浸した布で、うっすらと開かれたままの唇をそっと濡らした。  反応したのは清涼な匂いか水の感触にか、ジョアンの唇が動いた。んっ、と鼻から息が抜けて顔が顰められる。  ダンの心臓がドクンと跳ねた。視界の中のジョアンの輪郭がやけにくっきりと際立ち、下瞼に影を落とすまつ毛が震えているのが見える。抱き起こしたいのを我慢して帰ってくるのを待っていると、目をぎゅっと閉じて眩しさに小さな顎が引かれた。  何度か深い呼吸をしてから、日の光を取り入れようと瞼が動いて細い隙間を作り、そのまま明るさに慣れるのを待つように動きは止まった。規則正しい寝息のような音に合わせて上下していた身体が目を覚ましてゆく。  あの柔らかい声が鼓膜を震わせるのを、小柄ながらに均整の取れた身体が起き上がってすらりとした背中を見せてくれるのを待っていた。目は開いているのに、ジョアンは寝転んだまま壁の一点を凝視している。瞳孔が開ききっているわけではないけれど、焦点が合っているのか分からない。ダンは肉厚な手でうつろな視線を遮ってみた。  視線が動いた、見えているのだ。 「ジョアン?」  恐る恐る名前を呼ぶと、目の前にかざされた大きな手に向かいジョアンがゆっくりと指を伸ばした。  指先が当たり、それから掌の大きさを確かめるように撫でてゆく。  ジョアンが自分から触れてきたのは初めてだった。触れた個所から体温が伝わり、くすぐったい感触にダンの喉の奥が熱くなる。 「......触れても大丈夫なのか?」  ダンの問いに反応してジョアンの唇は動いたのに、乾いた息が喉を通る音しか聞こえない。あれは夢じゃなかったのか?  声を出そうとして何度か息を吐いていたジョアンが咳き込んだ。ダンが慌てて水を口元に持ってゆく。起こしてもよいのか戸惑っていると頭だけ上げて数口飲み、またぱたりと脱力してため息をついた。 「もしかして声が出ないのか?」  眉をひそめて少し考えていたジョアンが何度か喉を上下させて試すように、あ、あ、と声にならない音を出す。唇を舐め、息を吸う。掠れた声が出てきた。 「で、る。」  言いながら頭を横に振ると床と天井が近づいては捻れて世界が回った。ジョアンは眉間にしわを寄せて頭を抱えた。  揺れる視界の中で、ジョアンはさっき答えられなかった問への答えを考えていた。ダンと触れあった感触がもたらす感覚を何と例えればいいのだろう。温かく包まれる気持ちが嫌悪感を凌いでゆく動的な変化をどう伝えれば分かってもらえるのだろうか。 「気持ちが悪いのか?」 「あ、うぅ……まだ少し眩暈がする……けど。触れると、気持ち悪いのとそうじゃないのがおしよせて、くる......あ……あ、あと少しでひっくり返りそう。」  ひっくり返る? 薬のせいか? ダンには何を言っているのかよく分からなかった。  はぁ、と息を吐きごろりと仰向けになったジョアンの額に汗でしっとりした髪が貼りついていた。ダンは無意識にその一束を摘んで後ろに撫でつけ、そのままゆっくりと髪を(くしけず)っていった。  往復する指先が生え際に触れる。痺れるような感覚が身体に浸み込んでゆく。そこから受け取った心地よさをしかるべき心の抽斗(ひきだし)にしまいながら、ジョアンは少しずつ現実に戻っていった。  他人に触れられる気持ち悪さは遠のき、新しい感覚の気配があった。心が擽られ、身体の深いところを呼びさまされる。歓喜の訪れがすぐそこに来ているのが分かる。  乾いた唇が微かに開き、小さく吐息を漏らした。そこに、微かな安堵の響きが混じっていた。  髪の流れに遊ぶ指にジョアンはおずおずと自分の手を重ね合わせた。見なくても感じる、力強く自分を抱きとめてあの町から連れ出してくれた手だ。目を閉じて自分の内なる感覚に耳を傾けた。大丈夫だ。これまでの反応が嘘だったかのように恐怖も嫌悪もない。  だから、その掌にそっと頬を摺り寄せた。

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