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第6話
「はい! すいません! はい! あーそれは多分右ですねぇ。右です。いや右かな? 右だと思います! え? 責任? はー取れないですけどー八十パーセントくらいの確率で多分右です! なんなら公共の施設に行けばネット環境がー……あっ、切れた!」
静かにハンドルを握っていた私は、キョトンとした顔で携帯を眺める青年に苦笑した。
「……急用だったか?」
対するノルは、いつも通りのあっけらかんとした表情で勢いよく首を振る。
「あ、いやー、急用と言えば急用ですけど。戻る程じゃないです大丈夫なんでそのまま突っ走っちゃってください!」
今日の彼は髪の毛を綺麗にまとめ、キャップの下に隠していた。帽子のつばが白い肌に影を落とし、少々強めの車内のエアコンが睫毛を揺らす。
「アニントン教授が道に迷っちゃったみたいで。とりあえず適当に英語で話しかけまくればもしかしたら通じる人もいるかもしれないですよって言ってみたんですけど、怒られちゃいました。GPS使えばいいのに。アニントン教授、天文学だから機械に弱いのかなぁ、そんなことないと思うけど。いやでもたぶん右です! 右にいけばドバイ・モールだと思いますよ!」
「彼が今何処に居るのか私にはわからないから、選ぶべきは右かどうかはわからないが……休日の通訳と道案内まで君は担う契約か?」
「いえ、僕の仕事は教授が宇宙センターにいる間のサポートです。専門用語って中々、翻訳が大変ですから。日常生活になにか不便があれば、とアラブ人の通訳の方を紹介していただいたみたいですが、どうも教授はえーと、柔らかい言葉で言うと人見知りというかー」
「ストレートに表現するなら差別的ということか。まあ、観光ではなく仕事で来ているのだから、そういう人間が入国することもあるだろうな」
他民族からの差別的な感情は、決して気持ちのいいものではない。
何故だかわからないが肌の白い人々の中には時折、より肌の白い方が知的な生物だと思っている人間がいる。勿論その逆の思想も存在するだろうが、私にとって人種そのもので優劣を決めつける行為は、非常に理解できないものだ。
何と言っても私の有能な秘書は、私とは違う肌の色をしている。彼の有能さは人種によるものではなく、単に個人の能力であるということを知っている。
ミスター・アニントンの差別的感情はさて置き、ノルが彼に手を貸すために帰路につく心配はしなくて良い、と私は判断した。
もしどうしてもと彼が願い出れば、私はすぐに車をUターンさせる気持ちでいた。私の運転する車は、今は砂漠のど真ん中の道を走っている最中だ。
視界の端で時計を確認し、まだしばらくはドライブが続くだろう、とノルに伝える。
携帯電話を仕舞った青年は、一時間前と同じ輝くような眼差しで、一面の砂漠とまっすぐな道を眺めていた。
私は故郷が好きだ。一面の砂漠も情緒がある美しい風景だと思っている。私はそう思っているが、砂しかない風景など普通の人間ならば十分で飽きてしまうだろう。
そう思い、着いたら起こすから寝ていていい、と声をかけた私に対し、目を輝かせたノルは勢いよく首を横に振ったものだ。その顔は先ほどアブダビ市内のショッピングモールで、大量の本を抱えていた時と同じように輝いていた。
オリヴァー・グレイの誕生日を祝うための週末は、ショッピングモールから始まった。
私とノルはまず、観光客が行きたがるマリーナ・モールではなく、街中のアル・ワーダ・モールへと赴いた。ノルがどこでもいいから人が少なくゆっくりと見て回れる書店に行きたい、と言ったからだ。
前日まではイーハも同行する予定だったのだが、急な仕事が入ったというから置いてきた。これについては嘘か本当かわからない。
私は細かくイーハの仕事をチェックしていないし、休日まで主に縛られるのは嫌だと思った可能性もあるし、単に気を使っただけかもしれない。
とにかく私は久しぶりに自家用車に乗り込み、多少心を落ち着かせるように経典を呟きながらモールに乗り込み、ノルが求めるだけの本を買い与えた。
最初は私の贈り物について申し訳ないからいらない、と辞退の言葉を連ねていたノルも、最終的には根気負けしたようだ。
後悔しても知りませんからね、と口を尖らせた青年は、私の書斎の本棚が埋まりそうな程の書籍を次から次へとカウンターに積んだ。彼のせいで書店の宇宙関連の専門書棚は、ほとんど空になった。
専門書に関しては英文で書かれたものの方が詳しく、量も多いのではないか。そんな疑問を口にする私に対し、アラビア語の本を積み上げて満足そうに中身を確認する青年は、にっこりと笑った。
「内容というよりも言葉の勉強の為って感じです。専門用語って、翻訳するの大変なんです。普通に辞書で調べても載ってなかったりするし、変な造語とかあるし。だから英文で僕が読んだことある本を中心に、そのアラビア語翻訳の本を集めました。あと普通におもしろそうなのも。ええと、物理とか天文学とか数学とか……あと、千夜一夜物語」
かの有名な寝物語を、ノルは読んだことがないと言う。
「千夜一夜物語なら私が持っている。随分と古い版だが……それでもよければ寝室にある。勝手に読んでいい」
「え。本当です? 本当に? いいの? 実は、ラティーフの本棚、おもしろそうだなーって目をつけていたんです!」
「……私が寝ている間じゃなければ、いつでも君の入室を許可するよ」
「やったー!」
本当に嬉しそうな彼の横顔を眺めながら、私はひそかに自室の書籍たちに感謝をした。普段私は、ノルに話しかける機会がない。ノルは毎日遅くまで自室で勉強している。私の我儘で彼の自習時間を削るわけにはいかない。
これで少しは、彼と言葉を交わす機会が増えるかもしれない。
同時に己の信仰心を試す試練も増えた訳だが、最近の私はあまり後ろ向きに考えずに、親しい友人としての地位を得たらいいのではないか、と思うようになってきた。
そうでなければ彼を連れて、砂漠のど真ん中で一泊などできない。
私は彼に触れない。私は彼に親密な言葉をかけない。己の罪を認めた上でそう誓ってしまえば、あとは誓いを守る事だけに集中できる。
大量の本をまずは私の自宅に送り、そこからイーハに頼みイギリスに送る事になった。この荷物はすべてリトル・ヒューストンのチャールズ・ヘンストリッジへ宛てられた。誰宛でも荷物は届くが、チャックは絶対に外出しないので確実に受け取ってくれる、とノルは言う。
チャックという名前は、メールでも特に登場頻度が高い。私はまだ彼の顔を見て自己紹介をする機会を得ていないが、もしその時が来たらまた経典を暗唱しながら精神を統一しなくてはいけないかもしれない。
とても単純な感情だが、私はチャックが羨ましい。これは単に、ノルと親しいという理由だけで沸く感情だ。どう考えても私が勝手に羨んでいるだけなので、勿論飲み込むしかない。
表に出さずとも、言葉にせずとも感情は湧きあがる。そしてそれは、形も持たずに積み重なる。飲み込んだつもりの感情は時に消化されず、ビンに溜まる砂のように蓄積する事もある。
凪いだ海のような静かな人間でいたいものだ。そう思う故に、私はノルと彼の周辺の人々に対する単なる嫉妬を積み上げないように、気を付けて飲み込んだ。
久しぶりの運転というものは、そういう意味ではあまり無駄な事を考える暇がなくて良い。
ショッピングモールで軽い昼食を済ませた私達は、自宅ではなく砂漠へと車を走らせた。勿論、砂漠で星を見るためだ。
観光客向けのキャンプも調べてみたが、どうもそちらは私には向いていないように思う。ノルの体調も相変わらず万全ではなく、できることならば寝袋ではなくベッドの上に寝かせてやりたい。
その思いを叶えてくれる場所が、我が国にはある。
アブダビから車を走らせる事二時間と少し。砂漠の真ん中にぽつんと存在するリゾートホテルだ。
また申し訳ないと言われそうなので、値段やホテルの内容は伝えていない。まあ、どうせ、門が見えてしまえばホテルの規模はバレてしまうだろう。
単調な道に車を走らせる私の隣から、妙に浮ついた明るい声が届く。
「本当にずーっと何もないですね。すごい。本当にすごい。砂と、大気しかない。これってつまり地面と空気しかないってことで、こんな環境、地球上にはそうないですよね、たぶん。厳密には生物も植物も多少は生息しているでしょうが……あ、でも高山とかもそうかな。高山は平べったくはないけれど」
「まあ、確かに……。不毛の大地というやつかな。南極や北極も不毛の大地じゃないか?」
「うーんアレはカウントしていいんですかねー氷じゃないですか。南極は氷の下に地面ありますけど、でもやっぱり砂とか土じゃないですよね。岩でもない。水と地面ってやっぱり明確に違うものじゃないかなーと僕は思いますけど、水って大気がないと存在できないものですし。って言っても僕も地球環境についてはあんまり詳しくもないので……」
「君の専門は、宇宙生物研究?」
「はい。宇宙生物学、アストロバイオロジーってやつです。ええとこれ、大まかに二つの部門があって、結構別の研究です。宇宙生物学って言って大概の人が思い浮かべるのは多分地球外の生命に関する問題――あ! えっと、すみません! 僕つい好きな話始めるとそのまま突っ走っちゃって……ええと南極の話でしたっけ? それとも砂漠?」
「いや、君の話を続けていい。そういえば私はよく、君の話をイーハから聞くが、あまり専門的な事は知らないんだ」
これは正直な言葉だった。
彼のメールは本当に刺繍を施した生地のようにびっしりとした文章で構築されていて、いくら本人を好ましく思っていようとも中々読むには気力がいる。私は専門用語もあまり知らない。要するに専門的な話に関しては少々読み飛ばしていた場所もある。
「えー……いいんです? 僕本当に煩いって言われますけど……」
不安げに首を竦める様子が伺える。私は少し息を吐いて、構わないから続けていいと再度意思を示した。
「それじゃ、ええと、喜んで説明します。えーと、……アストロバイオロジー。宇宙と生物の研究です。これには二つの方向性があります。一つは『地球以外の場所の生命に関する問題』、要するに地球外生命体の調査です。宇宙人はいるのか? ってやつですね。そしてもう一つは、『地球上の生物が宇宙に出た際の問題』。これは重力や宇宙線の影響の研究です。でっかーく言うと、他の星への移住計画などにも関わる問題ですね。大気があって水があって空気があって、っていう環境はこのあたりだと勿論地球だけですから、重力や宇宙線の問題は月や火星への移住への問題にも通じます」
「なるほど。……私はまた、宇宙生物学とは、すべて未確認生命体の探索かと思っていた」
「そっちの方がSFっぽいしインパクトありますからねー。実際に注目されているのは後者の方ですね。やっぱり無重力の影響ってやつはフィールドワークしてみないとわかりませんし。まー僕が研究しているのは、宇宙人の方なんですけどね!」
「君は、宇宙人に会いたいのか?」
「はい。会いたいです。……うん、そうだ、僕は宇宙人に会いたい!」
きっぱりと言い切った彼の眼は、恐らく輝いていた事だろう。
息を吸う。息を吐く。酸素というものを、初めて明確に意識する。
そうかこの気体は、この星にしかない貴重なものなのかと、不思議に思う。
「それでは、マーズワン計画に応募は?」
何食わぬ顔で最近調べた他国の火星移住計画の名前を出せば、この分野では勿論博識のノルは、わははと声を上げて笑った。
「あれ、すごいですよねぇ! 火星への片道切符! ええと、二〇二五年に二十四人が火星に行くんですっけ? UAE、これに応募するなって声明だしてませんでした?」
「我が国の宗教に反するからな。帰りの便がない宇宙旅行など、それは自殺だと国が表明した。我々の神は自殺を禁じている。移住を計画する事と、好奇心で命を捨てる事は別物だ。選ばれた二十四人は、学者ではなく冒険家ということになるのだろう?」
「そうですね。たぶん。僕は応募していないので詳しくは知りませんが……あれ、民間の企画ですし。うーん、宇宙に行くなら勿論火星の調査はしたいですけど、そこに移住したいとは思いません。ていうか本当は宇宙も行きたくないですけど、地球で待ってるだけだとただ歳を取って終わりそうなんで、やっぱり色々もっと勉強して宇宙行かないと駄目なのかなーって思っているところです。勿論、宇宙旅行でも移住でもなく、学者として。あーいえ、宇宙旅行とか移住が悪いとかそういう話じゃないんですけどね! たぶん、ちょっと目的が違うから」
「君は、宇宙に行きたいわけじゃなくて、調査がしたいだけということだな」
「そう。そうです。僕は調べたい。僕は研究したい。そして死ぬまでにどうにか間に合ったら宇宙人に会いたいです。なんかちょっと無理そうなんですけど希望捨てたら夢終わっちゃうんで。そういう意味では日本の火星衛星調査と、UAEの有人火星探査機には期待……………なにあれ、門?」
しまった。そのまま黙々と言葉を連ねていてくれたら誤魔化せたかもしれないというのに、悠々と聳え立つ門はノルの目に留まってしまったようだ。門を越えて暫く経つと、明らかに豪勢な事がわかるホテルの佇まいが見えてくる。
アナンタラ・カスル・アル・サラブ・デザート・リゾート。すべての客室にテラスが付き、全ての客室から一面の砂漠が見渡せる、砂の中のオアシスだ。
「…………砂漠で、星?」
「寝袋は嫌だろう。私もあまり好まない。それにこれは君の誕生祝いだ」
「え、いやいや。いやいやいやさっき山ほど本買ってもらいました! え、あれ、物足りない贈り物でした!? 僕結構容赦なく選んじゃいましたけど!?」
「いや、相当な量で私も贈り甲斐があったよ。一泊で家が買える程の大金を捨てる程じゃない。……イーハに、英語の講師をしてくれた礼だ。あいつは生まれてからほとんどUAEに居るから、英語の文章が苦手らしい。君の丁寧な添削は随分と役立ったようだから」
「そんな、だって、僕だってアラビア語をたくさん教わったのに。こんな、もう、何をお返ししたらいいのか、わからなくなる……」
「これから先も英語と宇宙の講師をしてくれたらいい。君が宇宙に出て行くまでは、頼りにさせてくれ。先ほどの話は面白かった。続きはぜひ本物の星を見ながらお願いしたい」
ホテルのエントランス前では、ベルボーイが迎えてくれる。
すっかり口が空きっぱなしのノルの横に立ち首を竦めると、ノルは視線を落として唸った。どうやら嫌がられている訳ではなく、感激しているようだ。たぶん、だが。
「…………あー……うあー……どうしよう。僕こんな盛大に、祝われた事、あんまりないからどうしたらいいのか、よくわかんなくてごめんなさい……」
「まあ、確かに、私もあまりない。友人は多くはないし、誰にとっても私は変人だからな」
「変な人ですよ、本当にもう。僕なんかに、こんな、砂漠……星……こんなの素敵に決まってるのに……もったいない……絶対チリコに恨まれる……」
「土産話が一つ増えたな、くらいの気持ちで寛いでほしいんだが……ダメか?」
流石に少々不安が過ぎて、内心が顔に出たかもしれない。私の情けない顔を見たノルは、珍しく目を細めてこちらを窺う。
「…………それ、わざとじゃないんですよね……?」
「うん?」
「いいですなんでもないです後でイーハに八つ当たりします大丈夫ですすごく嬉しいです。ありがとう。……星を見ながら、宇宙の話しましょう」
それは楽しみだ、と。心から素直に言葉にできた事が、本当に嬉しかった。
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