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第8話

「明日の日程は以上です。特別私がご同行しなければならない要件はありませんので、本日と同じく別行動でよいかと思われます。何かあればいつでもお呼び出しください」 「ああ……あちらは携帯電話の使用は問題ないのか」 「機密事項に関する書類にはチェックと署名をさせられましたが、エントランスでの外部との通話は可能ですね。どうやらかなりオープンな研究のようですよ……兵器を作っているわけではありませんから。ああ、そういえばあちらでムハンマド氏にお会いしましたよ」 「どのムハンマド……いや、あれか、あのムハンマド氏か」 「そのムハンマド氏ですよ。ムハンマド・アル=ハーリド氏。この度の共同研究の資金の一部は、ムハンマド氏が出所のようですね」  そういえば氏は、やたらと火星移住計画に熱心だったことを思い出す。相変わらず私は宇宙関連事業には疎いが、今は興味がない、とも言い切れない。  思い返せば随分前に、ムハンマド氏から食事の誘いが来ていた。共にテーブルを囲んだ記憶は無いのでおそらく私は断ったわけだが、どのような言い訳を連ねて断ったものか、まったく思い出せない。後で過去のメールと日記を漁ることにして、私は手元の電子メモを閉じた。 「了解したよイーハ。今日は慣れない仕事を頼んですまなかった。週末どこか食事にでも行くか?」 「外食は好かないタイプですよ、私は。そもそも貴方と二人で歩くとただの外国人カップルにしか見えないので嫌です。もしどうしても食事に出かけたいのならば、貴方の膝の上の猫も招待してください。三人ならば友人同士の旅行に見えないこともないでしょう」 「…………猫にしてはでかいな」 「今の彼の戦闘力は猫以下でしょうけどね。随分と懐かれたものです。砂漠のホテルでマタタビでも撒いたんですか貴方は」  閉じたタブレットの代わりに伏せていた本を持ち直した私は、あえて気にしないように努めていた膝の上の重みに、ちらりと目をやる。  一時間前にやっと寝入った青年は、今は夢の中だ。  ふらりと私の寝室を訪れたノルは、とにかくひどい顔色をしていた。朝から具合が芳しくなく、仕事を休んで自室で寝ていたはずだった。  腹が減ったのか喉が乾いたのか薬が必要なのか、尋ねる私に彼は『さみしい』と答えて、私が読書をしていたカウチに乗り込んでいた。  ベッドを勧めたものの、そのままカウチに横たわり私の膝の上にクッションを置き、なんとそこを枕にした。これが数時間前の出来事で、私はそれから無心で彼の枕役に徹していた。  具合の悪い猫は、イーハが外出から戻っても寝入ったままで、結局私は枕役に徹する様を見事に目撃されてしまった。わざわざ今日の報告と明日の仕事の確認をしに来たイーハのマメさを呪うべきではない。彼は今日、とてもよく働いた。  今日のイーハは私の秘書ではなかった。朝から体調不良を訴えるノルと通話していたアニントン教授がゴネて黙らなかったので、ノルの代わりの通訳としてイーハを派遣したのだ。  イーハは英語圏の生まれだが、物心ついた頃にUAEに移住し、以来アラビア語を使って生きて来た。しかし彼は器用で博識だ。書くのは苦手だと本人は言うが、英語の通訳くらいならばわけなくこなす。  一仕事終えた後のイーハは、呆れ顔を隠さない。年上の友人の微妙な視線に耐えきれなくなり腰を浮かそうかと迷ったが、寝息を立てるノルを起こすのはやはり、躊躇われた。 「週末にあれこれ連れ回したせいで、随分と疲れさせてしまったのかもしれない」  私はそう恐縮したが、イーハはノルと同じ様に『安心したからだ』と言い張る。 「そりゃ疲れは溜まるものでしょうが、張りつめていた気持ちが緩んだのならば悪いことではないでしょう。貴方の隣は安心できる、と彼の体が判断したのではないですかね。微熱っぽいですが感染症や食あたりではないとの診断ですから、今日明日ゆっくり休養すればまた健康な猫に戻るはずです」 「そうだったらいいけれど……、イーハ、もう行くのか?」 「お邪魔する気はないですからね。というのは建前で、私はこれから寝る間を惜しんで宇宙と物理と化学と環境用語の辞書をめくるんですよ。あの鼻高々で大変憎らしい教授殿に明日は『そんなこともわからないの?』と言われないためにね!」  なんとなく懸念はしていたが、やはりイーハとアニントン教授の相性は悪かったようだ。  それでもアブダビ側の通訳は信用ならない、と突き返されなかったのはイーハの見た目が白人だったからかもしれない。世の中にはそのような差別を当たり前のように押し出している人間もいる。  イーハも私も、その手の人間がとても苦手だ。 「というわけでオリヴァーに教科書をお借りしようかと思ったのですが、彼の睡眠を邪魔したくはありません。後で聞いておいていただけると大変ありがたいです」 「ああ。いいよ、教授の通訳に役立ちそうな本だな。彼が目を覚ましたら聞いておく」 「助かります。貴方が寛大な友人でありがたい。……寛大ついでに、少々不躾な質問をしても?」  イーハが不躾ではなかった事などあったか、と思ったが口には出さないでおく。  どうぞと尊大に促せば、特に迷う様子も気遣う様子もなく、ずばりと彼は言葉を吐いた。 「その現在の状態は、あれですか。甘美なものです? それとも苦行?」 「………………お前、本当に不躾な事を聞くな」 「デリカシーの無さはチリ嬢には劣りますが、私は無駄に度胸がありますので。後は貴方に嫌われない自信も有り余っております」 「嫌な友人だな。……お前の問いかけには、どちらも存分に、と答えておくよ」 「なるほど。多少でも苦しみ以外のものを得ているなら、結構です」 「……イーハ、私は」 「旧友故の老婆心です。貴方の冷えた人生が少しでも満たされるのならば、貴方自身の苦痛などどうにか飲み込んでおけ、と私は思っていますので」 「それは、あー……お前は私にどうしてほしいんだ。……応援しているのか、それとも諦めてほしいのか」 「どちらでも。貴方が不幸ではない選択をしてくだされば、それでいいですよ」  では、と美しく腰を折り、年上の友人は颯爽と寝室から出て行った。  私はため息を長く吐き出し、手元の本に目を落とし、そしてぼんやりとイーハの言葉を思い返す。  貴方の冷えた人生が少しでも満たされるならば。  確かに、私の人生には熱がない。熱狂的に愛するものも、のめり込む趣味もない。  冷たい私の人生は、宇宙の端で延々と回るだけの小さな星のようだ。ただ、ただ、慣性で動いている。蹴飛ばされた石が冷たい宇宙で止まれずに延々と飛んでいくように。ただ、ただ、静かに生をこなす。  そんな私と比べると、ノルはとてもアクティブで、そして熱を持つ人だ。  やりたい事で溢れている青年は、とても冷静なのに夢を持っている。口からあふれ出す情報はどれもこれも熱を帯びていて、私には少し熱すぎる程だ。けれど彼の熱意は心地よい。彼の目が、暗い夜空を見つめる様がとても好きだと思う。  砂漠の夜空の下で、私は宇宙の話を聞いた。  それはとんでもない統計や数学の話であり、初めて知る物理や法則の話であり、惑星と衛星の話であり、恒星と銀河の話だった。  私はノルの話を聞くまで、宇宙が寒いということすら失念していた。私の宇宙に関する知識は曖昧で、長じてから見たハリウッドのSF映画のイメージがせいぜいだったからだ。  手元の本に目を落とせば、赤い大地とうすぼんやりとした赤茶色の空の写真が目に入る。字よりも写真とイラストが多い本は、ノルが購入したものの一部だ。  火星の本を、という私のリクエストに、彼は五冊程の新品の本を積んでくれた。最初の一冊にざっと目を通した私は、かの星には二つの衛星が捕らわれている事を知った。  衛星フォボスとダイモス。直径二十六キロと十六キロの小さな衛星は、火星の引力に引きずられてその軌道に捕らわれ、そして蹴られた石のようにただひたすら真空の空間を回り続けている。  フォボスは火星に捕らわれているだけでは飽き足らず、最期は火星に衝突する運命にある。一日に三度も火星の空に浮かびながら、フォボスは徐々に、あの赤い星へと落ちているのだ。  それは熱烈な恋に似ているのかもしれない。フォボスは火星に捕らわれ、そして落ちてゆく。そんな詩人のような言葉が浮かんだが、あまりにも気障だったので誰にも言わずに飲み込み、私はただ静かに本のページをめくった。  どのくらい時間が過ぎたのか。  足のしびれも気にならなくなった頃、ふとノルが身じろいだ。私がかけたブランケットがずり落ちそうになり、慌てて手を添えてやる。  まだ本調子ではないらしい。星空を見上げる時の生気に満ちたノルとは別人のようなぐったりとした顔で、ごそごそと身体を起こす。 「……どうしたんだ。寒いか? 冷房を弱めようか」  冬が過ぎればすぐに夏が来るような土地だ。初夏とはいえど冷房がなければ倒れてしまいそうな暑さになる。  しかし冷房に慣れていない地域の人間には、逆にこの涼やかな魔法の風が害になる事もあるらしい。  ノルは絞り出すような声で大丈夫ですと言う。どう見ても大丈夫ではないのだから、私ははらはらと見守る事しかできない。 「ほんと、だいじょうぶ……ちょっと、随分楽になりました、本当です……でも、もうちょっとだけ、あなたのお膝を借りたいです……」 「それは別に、構わないが。だったら横になっていたらいいだろう」 「……だって、もうすぐ、お祈りの時間でしょ……」  確かに、時計はもうすぐ祈りの時間を示そうとしている。日に五回ある祈りの時間には、公共放送から祈りの文言が流れる。その調べに合わせ、私達はメッカの方向に向けて祈る。  どちらかと言えば敬虔な、という枕詞を付けられる私は、祈りの時間の前に水で己を清める。多分、それを知っているからノルは退いたのだろう。  そんなことはいいから私の上で横になっていろ、とは言えない。ノルが寝ていたままだったならば、祈りの時間になっても私は枕となったまま動かなかったかもしれないが。私は彼の気遣いに感謝し、ありがたく席を立つ事にした。  礼拝の際は決められた方法で身を清める。冷たい水でいつものように手を濡らし足を濡らし、決められた個所をくまなく水で清めてから、私は書斎に戻る。  街が一瞬だけ息を飲むように静かになる。  そして礼拝の時間を知らせる大人たちの声の代わりに、耳に馴染んだアザーンが流れ出す。幾度となく繰り返して来た祈りの言葉は、今や呼吸のように自然と口から流れ出る。  すべての祈りを恙無く終え、絨毯から立ち上がり寝室に戻ると、カウチに胡坐をかいたノルが天井を見上げたまま目を閉じていた。 「……大丈夫か、本当に」  特に迷いもなく、空いている隣のスペースに腰掛ける。目を閉じたままのノルは、曖昧な唸り声の後にとても小さな声で、祈っていました、と言った。 「祈りを? ……君が? アッラーにか?」 「んー……違う、かもしれません。僕は、神様とか宗教とか、あんまり身近じゃなくてよくわからないから。よくわからないから祈るって感覚がわからなかったんですけど、なんとなく最近は、ちょっとだけ、祈るって事がわかって来たような気がして。なんていうか……感謝と尊敬と憧れ、みたいな……あ、これ僕の、僕だけの祈りの感覚なんですけど……」 「勿論理解している。私は君にまでアッラーへの信仰を強制したりはしないけれど、何かに祈るという行為自体は個人的に歓迎している。そうだな、祈る対象がなければ、一番興味深いものに祈るといいんじゃないか」 「うーん、そうすると宇宙……宇宙はちょっとでかすぎるかなぁ……火星かなー。火星ってなんのカミサマの名前がついてるんでしたっけ……マーズ? 軍神アレス? 戦いのカミサマ……? 戦いかー戦いはあんまり興味ないけど、地球上の戦いが綺麗になくなってその分の軍事費とかが宇宙開発とかに回ったらハッピーだなーと思うからうん、そうですね、火星の戦いのカミサマに祈ります明日から……」 「そうすると良――、待て、ベッドに横になった方が絶対に身体にはいいだろう、五歩くらい歩けないか」 「嫌です……だってベッドに行ったら、ラティーフ、隣に寝てくれないでしょう知ってるんですからね……」  確かに、そこに行ってしまえば私は同伴などしない。絶対にしない。これは私の決めた、私のノルに対する厳格なルールだ。  私は私の感情を否定はしない。だが、行動は制限する。  みだりに触れない。言葉で惑わさない。決して彼を求めない。  これを守っている限り、私の罪の意識はまだマシな程度に保たれる。  すとん、と先ほどと同じようにカウチに寝転がってしまったノルの頭は、やはり私の腿の上にある。間にクッションが挟まっているとはいえ、やはり気が気ではない。  気もそぞろな私は結局読書で心を落ち着かせるしかなく、もう一度火星の本を開こうとした。 「……ラティーフ、なにか、お話してください。朗読でもいいけれど」  だから腹の下からそんな声が聞こえた時、私はさらにどうしていいかわからなくなった。  私には兄弟がいるが兄ばかりで、年の離れた子供の世話をしたことがない。友人も思えば年上のイーハだけだ。つまり寝物語をねだられた事などない。 「面白い話のストックなどないよ。君のように、星の数や位置を暗記してすらすらと口から零す事もできない」 「でもいつも、すらすらお祈りの文言唱えてるじゃないですか。あれ、すごく気持ちいい声だなって、いつも思ってるんです……なんだか、異世界の呪文みたいで、気持ちいい。エイリアンの歌みたい」 「…………それは君にとっての最高の誉め言葉だとわかっているが、なんというか、褒められているんだよな……?」 「褒めてますよーすごく好きなんです、あなたの声ー。だから、なにか……あ、千夜一夜物語。千夜一夜物語がいいです……僕、まだ読んでない……」 「それは別に構わないが。流石に暗記はしていない。本を取りに行くには腰を浮かせないといけないし、そのためには君が頭を浮かせないといけない。生憎私の手元には火星の本とタブレットしかない」 「えー。Kindleで売ってないんですか……?」 「君はノスタルジックなのかリアリストなのかどっちなんだ」  自然と笑いのような息が零れる。それにつられるようにノルは笑い、じゃあ火星の本でもいいですと生意気な事を言った。  仕方がない。彼のリクエストを、私が無下にできる筈もない。さてどの本ならば私は読み間違えをせずにすらすらと、学者ぶった朗読ができるのだろうか。論文の集まりのような文章がみっしりと詰まった本は論外として、やはり最初に読破した初心者向けの星の本にするべきか。  些細な事で迷いつつ手に取った本を開くと、また腹の下から『あ』と声がかかる。 「今度は何だ」 「……宇宙関係の翻訳に便利な本なら、僕の机の上にある背表紙が青い辞書がおススメだから勝手に持って行っていい、って、イーハに伝えておいてください」 「ああ、なんだその件か。わかっ…………ノル、起きていた、のか?」 「……ひみつ」  ふふ、と笑う声が腹を擽る。私はあの時、イーハに何を言っただろうか。旧友との会話を思い出し蒼白になる私の膝の上で、火星の信者は楽しそうに笑った。

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