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第9話

 健康って素晴らしいなぁって、体調崩した後にはいつも思う。  二日寝込んでさっぱりと回復した僕は、素晴らしいなぁ健康最高だなぁと思いながらリビングで本の束に囲まれていた。  今日の僕は午後休で、イーハと一緒に先日買ったばかりの本の山の仕分けをしていた。全部一気に送っちゃえば速いんだけど、やっぱり今読みたいものとか今使いたいものとかイーハに貸したいものとかもある。チャック行きの段ボールの中に放り込む本を選びながら、そういやお土産も考えてなかったなぁなんて思っていたところに、物騒な言葉が飛んできた。 「彼の息の根を止めて差し上げるにはどうしたらいいでしょうかね」  背後から投げられた物騒な響きは勿論、イーハのものだ。広いリビングには今、僕とイーハの二人しかいない。  ラティーフは夕方から会食があるとかで、珍しくきっちりとカンドゥーラを身に着けて、すごく嫌そうにつるつるの顎を摩りながら出て行った。 「なんですかその物騒な話。一体誰の息を……あ、そっちの本はチャック行きでお願いします。その下は、うーん……ラティーフ読むと思います?」 「ご本人に聞いてください私は主人の本棚の管理までしていませんよ。私が久しぶりに憤慨するということを思い出した相手は、おそらく言わずとも察していただける筈ですが勿論ミスター・アニントンです」 「わぁーその話とっても頭が痛い予感がします! いいんですか、敬虔なムスリムだらけの国で、そんな不遜な言葉吐いちゃって」 「この家には主人と貴方くらいしかいませんので問題などありませんよ。私の友人は口が堅い柔軟で冗談が通じる」  そんな風にさらっと言われてしまうと、ちょっと照れる。  一緒に暮らしていると似てくるってのは俗説だったか学説だったか忘れたけれど、ラティーフとイーハの優しさや甘さは、やっぱりちょっと似ていると思う。  二人ともわかりやすく笑って冗談を言ったり、声を上げて機嫌をとったりする人たちじゃない。けれど彼らはとても優しく一歩引いた場所から寛大に見守り、時にはやりすぎなくらいに手を貸してくれた。僕がこの国を好きになれたのは、イーハとラティーフのおかげだと思う。 「アニントン教授はもう性格が凝り固まっちゃってる人なのでどうしようもないですよー。彼の息を止めるには物理的に口を塞ぐしかないですね。こちらが刑務所に入る覚悟がないとダメなやつですよねぇ」 「貴方は、よくあの侮辱の嵐を飲みこめるものです。三度ほど言葉を失い二度ほど反論を飲み込めず一度はため息が漏れました。失態です。私のせいでオリヴァーの評価が下がるような事がないといいのですが」 「あーそれは大丈夫じゃないかなーと思いますよ。教授、すごく性格に難がありますけど、他人に対して意図的に攻撃してきたりはしないですよ。嫌味なのはアレ、素ですから。学問の中で生きてる人だから、現実世界でなにを口走ったかなんて覚えてないですたぶん。来週くらいにはイーハの顔も忘れてると思います!」 「……それはそれで、何かこう、癪ではありますが。教授には弱点などないということ?」 「んー。どうかな。学者はみんなだいたい変人で、好きなことだけに一直線な人が多いですけど、やっぱり生きているのでお金が必要だしとくに研究ってやつは後ろ盾が必要ですから、スポンサーくらいは大事にしているんじゃないかなぁ……と、思いますけど。まだ段ボール入ると思います?」 「無理ですね。新しい箱を作りましょう。そういえば貴方も最初は、スポンサー探しのメールを絨毯爆撃していましたしね」 「あー。あれはバイトのひとつだったんですよ~……その節は失礼なメールをすいませんでした、って、貴方に言っても仕方ないのかもしれないけど」  さらりと僕が返した言葉の後、当然続くと思っていた言葉のボールが返ってこないことに訝しみ顔を上げると、なんとも言い難いとても不思議な顔をしたイーハと目があった。  なんていうか、ひどい顔だ。いつもどんな時もスッとすました顔で立っている人なのに、びっくりした猫みたいになっている。この人そんなに大きく目ひらけたの? ってこっちがびっくりしたくらいだ。 「…………貴方は、メールの相手が私ではないことを、知っていたのですか?」  ていうか僕ってばそんなに鈍いと思われているのかなぁと思って、苦笑してしまった。 「だってわかりますよ! 僕がやりとりしていたイーハと、実際のイーハはなんていうか、ちょっとどころかかなり性格が違います」 「……そうですか? 私はあまり、あの方が送ったメールを読むことはないのですが、中々気を使われていたと思いますよ」  確かに、メールの文面はとても几帳面で、そして思いやりのある大人な男性というイメージだった。不思議そうに眉を寄せるイーハに五冊程の本を渡し、僕は何通も受けとったあの優しいメールの内容を思い返した。 「うん。完璧な秘書でした。ちょっと完璧すぎて、物語の登場人物みたいだったけど。現実の貴方も完璧だけど、もっと大胆でチャーミングな人です。でも僕がメールの主の正体に気がついたのは、実際に貴方たちに会う前です」 「貴方は私が思う以上の名探偵ですね……その理由をお聞きしても?」 「うーんなんていうか……」  メールのイーハは、とても誠実で正しくて厳しくて、でも優しい人物だった。  それなのにラティーフのことを語る時だけは、ちょっと厳しすぎるのだ。その他のどんな事にもある程度寛容なのに、まるで褒めることが罪みたいに淡々と主人を形容する様がなんだかどうにも、イーハというキャラクターからブレている気がした。  それで僕は、もしかしてこの人たちは中身が逆なのかなーという仮説を立てた。僕がやり取りしている相手は大富豪の方なんじゃないか、と。  そう考えたら、なんだかすっきりと腑に落ちたのだ。  メールのイーハは、ラティーフにかなり厳しい。それも、本人が本人のことを形容していると思えばすんなり納得できる。  ラティーフはとても真面目で、イーハの口を借りて自分を褒め称えたりはできなかったのだろう。そう思うとメールの主の人柄に好感が増した。  以上の事をわりと包み隠さず口にした。ここにはイーハと僕しかいない。彼が先ほど言ったように、僕も彼の口の堅さと心の柔軟さを信じている。 「騙された、とは思わなかったのですか?」  興味深そうに目を細めるイーハに、僕は笑う。 「思いませんよ! 別に、相手がどんな名前を名乗っていようと、僕とメール交換をして、僕の宇宙の話を聞いて、アラビア語の添削をしてくれる素晴らしい友人がいることに、変わりはありません」 「まぁ、それはそうですが。貴方は時々、私の主人よりも心が広いですね」 「あーそれはどうかなぁ……僕は、心が広いというか、あんまり世界に関心がないんだと思いますけど。僕は、『興味がない』ことが、とても多いので。こんな言い方するとあれなんですけど、メールの主の名前に関しては、興味がないことのひとつだったんだと思います」  僕の言葉の後に、ほんの少しの間が出来た。ちょっと考えたような空白の時間の後、本当にさらりとイーハは口を開く。 「実際に会ってみても、その感想は変わりませんでしたか? 生身の、ラティーフという人物に対しても、『興味がない』?」  僕は息を飲んでから、少しだけ目を細めた。そして答えを決める。  この人は頭がいいのに意地悪で、本当に可愛い人で困る。少し前の僕だったら、ちょっとどきどきしてしまうだろうなぁと思う。でも僕ってば一途みたいで、今はたった一人のアラブ人以外にときめいたりはしない。 「…………それ、本気で尋ねてます?」 「失礼、タチの悪い言葉遊びをしてしまいました。貴方が彼に執心している事は、同じ空間で息をしていれば嫌でもわかりますね」 「ですよね……? 僕、結構わかりやすい筈なのに、本人にバレてないのが本当に不思議ですよー」 「あの方は、なんというか。異常に自信がありませんからね。世界の淵に立っているつもりなんですよ。実際は自分を含めて世界は成立しているのに」  ああ、確かに。と、ちょっと納得してしまった。  きっとラティーフは、賑やかな地球を眺める月なのだ。音のない宇宙で、静かに賑やかな星を眺める衛星のような人。  僕はそんな彼が好きだ。と、この前ふと自覚したばかりだけど、ポーカーフェイスは苦手だから目に見えて懐いてしまっていると思う。  同じ空間にいれば率先して話しかけてしまうし、ちょっと笑顔みたいな表情を引き出せた時は思い切り気分がよくなるし、遠目でも彼が横切るだけで目が追ってしまう。  ちょっとしたワガママなんかを、仕方ないといった優しい息を吐いて許容してくれちゃうところなんかもう、すごく素敵だ。ラティーフは僕に甘い。とても甘い。それを実感する瞬間が、僕はとても好きだと思うから駄目だ。とても駄目だ。  僕は通訳と宇宙の研究をしに来たのであって、恋人を探しに来たわけじゃないのに、すっかりのぼせ上ってしまっている自分を自覚する度に情けなくなる。  僕と同じようにポーカーフェイスが苦手な想い人は、いつだって僕に甘いくせに、いつだって信じる宗教に対して誠実だから、僕はどうしていいかわからない。  好きですと言ってはいけない事と、いたずらに触ったりしてはいけない事は、なんとなく察しているけれど。  とりあえずは僕がしっかりと彼の宗教を知って、理解するところからだろう。僕は彼のカミサマについて、ほとんど何も知らない。知っているのは朝昼晩に五回、みんなでお祈りを捧げるということくらいだ。  ラティーフ・オマール・アブドゥッラーという人について僕が知る事は、相変わらずちょっと少ない。それでも僕は、彼がどんな風に優しく息を吐いて言葉を零すのか、甘く目を細めて僕の我儘を聞いてくれるのか、知っている。  こんな話を、この国で誰かにするつもりはなかった。本当は口にするべきではないのかもしれないけれど、イーハだから仕方ない。  ここは同性愛が禁忌になる国だ。主人の周りの不穏な要因は、少しでも解消しておきたいと思うかもしれない。……と思ったのだけれど、当のイーハはとても呑気だった。そしてとても不躾だった。 「貴方達と同じ部屋に居ると、こちらもそわそわしてしまいますよ。私の愚鈍な主にはさっさと選択をしていただきたいものです。ところで少々不躾な事をお伺いしますが、貴方はゲイですよね?」 「――ほんと、もう、ほんとうに不躾ですね!?」 「度胸だけはありますので」 「あとは、嫌われない自信?」 「私のことが好きでしょう?」 「……そういうところ、大好きで悔しいです。僕がラティーフとそのー、タブーな関係になってしまってもいいんです? いえ、そうなるとは限りませんけど、ほら、秘書として、不安因子は潰しておくとかそういうのは……」 「潰しませんよ勿体ない。あの人は、もっと自分の立つ世界を自覚した方がいい。私は彼の宗教を否定しません。尊重しているつもりです。しかし人間は宗教を食べて生きている訳ではない。彼には寄りそう人間が必要だと私は考えますし、それは私では力不足だと認識しております。……秘書としてはもう少しポーカーフェイスを身につけてくださいと助言をするだけです。友人として、私は貴方がたを愛している」  頑張ってどうにかあの人を説得なさい、と無責任に背中を叩かれる。なんだかすごく恥ずかしい事を言われたような気がするけど、そんなことよりもイーハの言葉に妙に感動してしまい、僕は照れながら泣きそうになるという器用な事をしてしまった。 「よし。この辺で一応分類は終わりですかね。もう封をしてしまってかまいませんか?」  優しくて甘い秘書は、そんな内心なんてものをさっぱりと隠したクールな顔で手をパンパンと払う。  かまいません、と答えた後に僕は、リトル・ヒューストンの住所が登録してあるタブレットを自室に忘れている事に気が付いた。  ちょっと取りに行ってきますと声をかける。急ぎませんよと後ろからかかるイーハの言葉に笑って頷いて、そしてそのまま部屋を出て、僕が借りている部屋に向かう筈だった。  でも僕はリビングの外の廊下で、茫然と立ち尽くしているラティーフに会ってしまったので。 「………………………」 「…………、あ……え? あれ? ラティーフ、食事会は……?」 「……いや、急に取りやめになって……、…………いや、いま、帰って来たばかりなんだ」  いやどう見てもそんな感じじゃない。だってラティーフの顔は妙に赤いし僕の目を見てくれない。 「…………嘘ですよね?」 「……………………あー。すまない、聞いていた」  素直。ラティーフってば素直だ。  ラティーフが素直なのは元々の性格なのか僕に対する誠実さ故なのか、それともラティーフのカミサマの影響なのか、わからないけど。  とにかくこの人がすごく素直なせいで、僕達二人は廊下で向かい合ったままじわじわ赤くなってしまって、つま先から痒くなってどうしていいかわからなくなって、不審に思ったイーハが覗きにくるまで立ちっぱなしで赤面していた。  笑って誤魔化す事ができなかった。嘘ですよ、とか冗談ですよ、とか言えなかった。僕が嘘をつかなかったのは、元々の性格でも僕のカミサマの影響でもなく、せめて誠実でありたいと思っただけだ。  固まる僕達を見たイーハは、すぐに状況を察して天を仰いでいた。 「……私は不躾で無遠慮で若干デリカシーがありませんが、運命を弄る神はもう少しタイミングや空気を読んでほしいと思います。本当に」  まったく、僕も同感だった。

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