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第11話

 運命って奴はかなり悪戯者らしい。  らしい、なんてあやふやな表現になっちゃうのは、僕が運命って言葉とあまり縁がないからだ。  人の人生は運命っていうより確率でできている。と、僕は思っている。  僕があんまりお金と愛情のない家に生まれたのも、マイノリティな指向を持ったことも、結局は確率の問題だ。単に不幸と呼ばれる事象に対して、僕は一際高い確率でそれらにぶち当たっているだけだ。  だから運命が悪戯者なんじゃなくて、僕の運がちょっと悪いだけなんだと思う。なんていうかタイミングが悪い。  思えばアブダビの街でいきなり暴漢に襲われた時も、彼らに女装の罪で告発されそうになった時も、もう少し僕の人生のタイミングが良ければ防げたような気もする。でもその場合はラティーフやイーハに会うこともなかったのかも、と思うとうーんどうなんだろうハッピーなのかな? と思わなくも……。 「いやどう考えてもダメだろお前の運命最悪じゃん」  そんな僕の思考をぶった切ったのは、いつもどおりの、とても耳に馴染んだだるい感じの声だった。 「えー……やっぱり? そう思う?」  チャールズ・ヘンストリッジことチャックは、中途半端に伸ばした赤毛を無造作にくくり、ずるずると炭酸の瓶を啜っていた。  ちなみにチャックはいま僕の目の前にいる。そして僕がいま座っている場所は、ゆったりと心地いいラティーフのカウチじゃなくて、ちょっと古いリサイクルショップで買ってきたチャック所有のソファーだ。  つまり僕はいま、イギリスにいる。  昨日あの暑い砂の国から、リトル・ヒューストンに帰ってきたのだ。  夏真っ盛りとはいえイギリスは常夏の島じゃない。エアコンの風がなくても息ができる環境は久しぶりすぎて、なんだか不思議だ。ほんの数週間の滞在で僕の身体は、すっかりアブダビに適応してしまったらしい。  そして僕の精神も、すっかり様変わりしてしまった。  愛用のくるくる回るデスクチェアの背に腕を掛けたチャックは、その上に顎を乗せて目を細める。 「ほんっとノルってクソみたいな人生まっしぐらだよな。俺に言われたかないだろうけどさぁ」  ラティーフはハンサムでイーハはかっちりとした見た目だけど、チャックはちょっとだらしない感じの美形だ。  外に出て大通りを歩けば二、三人は振り向くだろうし、声をかけるだけで恋人だってできちゃいそうなのに、チャックはリトル・ヒューストンから一歩も出ることは無い。  チャックはチャックで結構不運な体質というか人生送っているなぁと思うから、確かにそんな彼に同情されちゃう僕ってば相当だ。 「うーんそうなのかなー。でもほらー、夢に向かって爆進してるよ? けっこう、なんていうか、かなりの速度で」 「爆進しすぎて大事なもん振り落としてどーすんだよバーカバーカ! おっま、二人きりのディナーだろ!? なんで! 蹴ってきたんだよ馬鹿かよ……」 「蹴ってないよちゃんとディナーはしたよえーと、アニントン教授とグレンジャー教授が同席してたけど……あとムハンマド」 「誰だよムハンマド。ここに来て俺の知らない新キャラ出して来ないでまじで。つかドキワクのディナーで仕事の話してどうすんだよ、ッアーほんとノルが! あのノルが! 恋したとか言うから俺は! アホみたいに盛り上がっちまったのに!」  そんなこと言われても、過ぎてしまった時間は戻せないから、僕は苦笑いするしかない。  三日前のディナーは確かに、奇妙な緊張感とともに皿の上の料理を口に運ぶだけの席だった。  その日の二日前にディナーを共にし、にこやかに別れたムハンマド・アル=ハーリド氏から急な誘いがあったのがいつなのか、僕にはいまいちわからない。  ただ血相変えたイーハがいろんなとこに電話して、いろんな調整をつけていたのは知っているし、ラティーフが仕方なさそうにため息を吐いた事も知っていた。  あの人はいつも、優しくて、他人に譲ってばっかりだ。  僕の知らないうちに全ては勝手に決まり、ラティーフに誘われた筈のディナーは前途の人々との会食になった。  アニントン教授は天文学の専門家で、それなりにイギリスでは有名な人だ。けれどグレンジャー教授は、たぶん、世界的に有名な宇宙生物学者だった。  初めまして、と握手を求めたとき、僕の手は震えていたかもしれない。  憧れの学問、憧れの研究者。その人が目の前で笑っていた。  急遽アビダビ入りをしたと笑うグレンジャー教授は、五十代の女性だ。ハリのある顔はふくよかで、アニントン教授とは対照的に始終にこにことしていた。  人が良さそうとはいえ、だからって誰とでもディナーを共にする人じゃない。グレンジャー教授は基本的にはNASAにいるはずで、有能な彼女には、ゆっくりと羊の肉を噛みしめる余裕があるとは思えない。  そんな人と握手をしただけでもすごいのに、にこにこ笑顔のムハンマドはびっくりするほど、なんていうか、曇りない爽やかな笑顔で彼女に僕を紹介した。  とてもアラビア語がうまくて、ユーモラスで、宇宙を愛している青年だよ、と。  なんだかもうわけがわからなくて震えて泣きそうだったのは隣のラティーフだけにはバレていた。ちょっと背中を優しくたたかれちゃったけど、彼の優しい手のひらの感触のおかげで息をすることを思い出して、あわてて僕は自己紹介をした。といっても、僕の自己紹介なんて数行だ。名前と所属で終わってしまう。  僕は学者じゃなくて、一応大学は出てるしバッキンガムの宇宙センターに所属しているけど研究者というよりはスタッフだし、正直ただ宇宙が好きなだけのイギリス人でしかない。  うだうだ付け加える功績なんかないからそのまま所属と名前だけ告げた僕に、グレンジャー教授は「いいわね!」と答えた。 「気に入ったわノル。君のアラビア語、本当に綺麗。歌うみたいに気持ちいい」 「ラティーフが教えたのだからそりゃあ麗しくもなるな。彼は生真面目だという話で有名だ」 「火星にうつつをぬかしている楽天家より、生真面目に仕事をこなす秀才の方が世間は評価するものよ。でもいいわ、流石私の趣味をわかってる。ありがとうムハンマド。私の些細なお願いを覚えていてくれて、本当に嬉しい」  想像していたよりも八割増しくらいに豪快に笑った教授に面食らっているうちに、彼女はそのままの勢いでえいやっと言葉を繋げた。 「よし、ノル! ちょっと私の助手の一人になってみない?」 「…………」 「……ノル?」 「えっ、あ、ハイ……は、ええええ!?」  びっくりした、なんてもんじゃない。  ちょっと何を言われているのか理解できなくて、場所を忘れて飛び退いてしまって、後ろのウェイターさんにぶつかって平謝りして、それでもまだ現実に頭がついていかなくて、僕は隣のラティーフを見てしまった。  彼も僕の方を見て、びっくりしたように目を見開いている。どうやら、ラティーフ主催のドッキリイベントじゃないらしい。  きっと主催者は、にこにこ笑っているムハンマドに違いない。 「実はずっと語学に堪能な子を探していたんだ。あちこちに誰かいい子がいたら紹介してほしいって声をかけてるんだけど、これが中々見つからない。専門用語に興味がないと、ただ言葉が喋れても意味ないしね。ノル、アラビア語の他は?」 「え。ええと……ちょっとだけフランス語と日本語が……」 「日本! いいね、なかなかいい。物覚えも早そうだし、問題ないね!」 「あの、グレンジャー教授、僕はその……あなたにとても憧れていますし、宇宙の、研究を……したいと思って生きていますけど、そんな、えーと、急に? 決めちゃっていいんですか、会って三分の人間の雇用……」  緊張と驚愕とその他もろもろのわけのわからない感情に流されつつも、僕はどうにか理性を手繰り寄せて脳みそと口を動かす。  なるべく冷静にゆっくりと会話したいのに、グレンジャー教授は許してくれない。彼女は流れの速い滝みたいな人だ。 「いいの、いいの。相性なんてもの計っていたら人生の三分の二くらい損するだけだから。君が私と相性悪ければ、容赦なくバッキンガムに送り返す。だからこれは君にとって危険な賭けかもしれないね。成功する保証のない冒険。駄目だったらその先はない。それでもいいなら、私はぜひ、君をスカウトしたい」 「……本当に?」 「たった一人の青年をからかうためにわざわざ飛行機に乗らないよ。ムハンマドのお気に入りはいつだって変人ばかりだけど、悪い奴は一人もいない」  成る程たしかに僕は結構な変人だし、彼に好かれているラティーフも一般的なアラブ人とは言い難いし、なんならグレンジャー教授自身も変人だと納得した。  ただひとり、アニントン教授だけは、いつものようにしかめっ面で料理を黙々と口に運んでいたけど。  でもアニントン教授は他人の事に対して興味が無い人だし、なんならグレンジャー教授と繋ぎができてありがたい、くらいに思ってそうだなぁと思う。  そんなこんなで、僕の運命は三日前に急旋回した。  僕はどうやらラティーフの紹介で知り合った火星好きの富豪に気に入られて、その伝手で世界的に有名な研究者の助手に昇格しちゃったらしい。  本当に、一瞬で。……僕の人生は大いに方向転換した。  グレンジャー教授はとてもアクティブな人だ。見た目に違わぬアグレッシブおばさんだった彼女は、さっさと僕と打ち合わせを済ませると、アニントン教授には代わりの通訳を手配することを約束し、僕の手の中にイギリス行きの飛行機チケットをねじ込んだ。 「一ヶ月後にドイツで会議があるんだ。そこに君を助手として連れて行きたいけど、そうだね準備もあるだろうし、ドイツ語をある程度勉強してほしいから……まずは自習で力試し。二週間後に、ヒューストンで君を待つよ、ノル」  ヒューストン。僕の憧れの場所。  そこに立つ二週間後の僕がまったく想像できないし、なんなら僕はイギリスに帰った僕すら想像できなかった。  滝のような人が主役の会食は、ずっと豪快な速度で僕達を振り回しながら進み、あっという間にお開きになった。  正直何を喋ったのか全く覚えていない。まったく覚えていないし、どうやって自室に帰ったのかも覚えていない。  すっかり見慣れた部屋でハッと我に返った時にはもう深夜で、僕はラティーフとどんな挨拶を交わしたのかもよくわからなかった。  うっすらと、良かったなとか、君のこれからを応援しているとか、そんなことを言われたような気がする。  結局そのままぼんやり眠り朝になり、慌ただしく宇宙センターの荷物を整理し、翌日すぐに飛行機に飛び乗ることとなった。  お別れの挨拶はちゃんとした。イーハなんか僕の代わりにリトル・ヒューストンへのお土産まで用意してくれていた。本当に仕事が出来すぎて気持ち悪い、といつも言っていたラティーフの気持ちがよくわかる。気を付けてと言った出来る秘書は、私達から貴方へと砂絵の小瓶をプレゼントしてくれた。夜空と砂漠とラクダの絵が、透明な瓶の中に詰まった素晴らしい贈り物だった。  でも、二人きりでゆっくりと話す時間は無くて、結局お世話になった事と、とても楽しかった事くらいしか伝えられなかった。そんなものは、僕の感情のほんの数パーセントでしかないけれど、周りに人がいる中でまさか愛を告白するわけにもいかない。  恥ずかしいから、なんて理由じゃない。  あの熱い砂漠の国では、僕達が想いを告げあう事はできない。それは罪で、許されない事だからだ。 「……それにしたってさぁー。こう、どうにかさぁ……罪だっつっても殺されるわけじゃないんだろ?」  ドイツ語の辞書を開きながら、つい砂の瓶を眺めてしまう僕に、チャックはだらだらと容赦ない言葉を浴びせてくる。  チャックはなんていうか、ちょっとチリコに似ている。デリカシーがないって感じだ。だからよくオフェリアに怒られているけど、僕はチャックの事が大好きで彼も僕の事が大好きだと知っているから、いつだって苦笑いで応えてしまう。  なんだかイーハとラティーフの関係みたい。そんな風に思ってまた、ずっしりと胸の奥が重くなった。 「昔は死罪だったっていうし、今もサウジアラビアあたりだと結構まずいみたいだよ」 「え、まじで? 外国人も?」 「外国人も。サウジのガイドブックには、とにかく気を付けて行動しろって書いてある。UAEはかなり優しい方だけど、酒に酔ったカップルが道端でキスしたら捕まったとか、そんな記事も見た事ある」 「うっへマジかよ異文化こっわ……」 「規律があるから、穏やかな国なんだろうなーって思うなー。宗教の国って、不思議な穏やかさがあるよ」 「でもその穏やかさの中には、ゲイは入れないじゃんかよ」  まあ、そうなんだけど。  チャックはダメな人っぽいのに、ちゃっかり頭がいいからズルい。  言葉に詰まってしまった僕を一瞥し、赤毛の親友は息を吐く。はぁ、と聞こえる深い息の音さえラティーフを想像させて嫌になってしまう。僕はあの人の一挙一動が、本当にとても、好きだった。 「手紙とか、メールとか。なんか手段あんだろ。もういっそ一回アブダビ戻ったら? どうせドイツ行くまでは自習なんだろ? こっち戻って来たのだってあれだろ、アニントンのいじめから救ってくれた感じなんだろ?」 「別にいじめられてなかったんだけどなー向こうの施設の人にはそういう風に見えちゃってたのかも」  どうやらムハンマドは気を使って、僕をアブダビという町から逃がしてくれたみたいだった。毎日小言に晒されていた僕を不憫に思ったとしても、確かに不思議じゃない。でも正直、今の僕の気持ちは強制送還喰らっちゃったって感じだ。  手紙もメールも、出来ない事はない。確かにチャックの言う通りなんだけど、でも僕が改めてあの人に告白したとしても、それって迷惑じゃないの? って思う。  彼の、静かで真摯な気持ちを否定している訳じゃない。だってラティーフは僕と一緒で、ポーカーフェイスがひどく苦手な人だった。  同じ空間で本を読むあの時間は、とても甘くて素敵な時間だった。  けれど、彼は戒律を守る人だ。  イスラムの人々にとって、宗教は生活であり、身体の一部だ。その生活圏で数週間過ごした僕は、神様への祈りを直に肌で感じた。どこに行っても、何をしていても、アッラーはそこにいる。そして神様に背く選択は出来ない。  かの国では同性愛は禁忌だ。同じく、婚前交渉も禁忌になる。  僕が好きだと彼に告げても、彼はきっと困ってしまう。ラティーフの神様は、僕と彼が触れ合う事を許さないからだ。  だから彼には何も告げられない。  そんな風な事をだらだらと、時にかなり脱線しつつ相変わらずの口数で垂れ流すと、チャックは酷く面倒そうに顔を顰める。いつもは半分くらい聞き流してしまう筈なのに、今日のチャックはすごく優しい。 「いやまあ確かにそりゃ恋人になってくださいなんつったら困るんだろうよって俺だって理解できるけど、とりあえず近状とか適当に世間話でも送ったらいいじゃんよ。この先一生会わないで、なんか素敵な思い出でしたーって胸に秘めていくわけ?」 「………………」 「うわ、ちょ、まてまて泣くな、ごめんてデリカシーなくてごめ……っ」 「え、うそ僕泣いてる……? あ、ほんと、うわ……うわー」 「あーもうごめんて! ……もーおまえそんなすぐ泣くようなキャラじゃないだろ、どんだけガチの恋しちゃったんだよアラブで」  慌てたチャックがわざわざこっちに飛んできて、僕の頭をぎゅってしてくれる。  チャックの方が身長あるから、なんだかお兄ちゃんに抱きしめられているみたいで、少しだけほっとした。  でも本当は、僕はラティーフに抱きしめてもらいたい。一回だけ、具合が悪い事を言い訳に彼の膝の上を拝借した。でも、それ以外で僕とラティーフは最初と最後の握手以外、本当に触れ合う事はなかった。  それに気が付くとぼろぼろと涙が止まらなくなった。なんだか、自分でもなんで泣いているのかよくわからなくて、ちょっと笑ってしまったりもした。  疲れているのかな僕。そんな風に呟くと、チャックが馬鹿かとまた罵倒してくる。本当にデリカシーがない親友だ。 「恋煩いじゃんかよ馬鹿。もうさぁ、だめならだめでいっそ玉砕して来いよ。そんなんじゃただ精神力全部そっちに持ってかれて疲れて死ぬぞマジで」 「こいでひとはしなない……」 「マジレスすんなリアリスト」  ふは、と頭の上でチャックが笑う。その声にまた少し安心して、僕は涙を拭いた。 「なんでかなぁ、別に、見た目はそんなに好みでも……いやぁでも、かっこいいのはかっこいいけど……でも、そういえば、メールしてた時からずっと、この人素敵だなぁって思ってたかもしれない……」 「うへぇ、純愛じゃん。俺と一番縁のないやつじゃん。痒くて俺がしんじゃいそうだわ。じゃあもっかいメールしろよ。別に告白しなくていいから、普通の話でもしたら?」 「ふつうのはなし……僕が何か喋ろうと思ったら、大体宇宙の話になっちゃう……」 「もうそれでいいじゃん。宇宙の話しろよ。お前たちさ、二人でずっと宇宙の話してたんだろ」  あの砂漠の星空を思い出してまた泣きそうになって、またチャックは慌てて僕の背中を優しく叩いてくれた。  ドイツ語の辞書を閉じて、僕はまずほったらかしにしていた荷物の整理をして、パソコンを引っ張り出そう。  そうしたら、彼に宛てて、宇宙の話をしよう。  恋の話はちょっと僕達には重すぎるから、臆病な僕はそのくらいしかできないけれど。 「……あ。荷物の中にみんなのお土産入れっぱなしだった」 「おま。それ先によこせよ」  そしたらもっと優しく慰めてやったのに、なんて笑うチャックはやっぱり優しくてひねくれててイーハにちょっと似ていて、僕は目を細めて少し笑った。

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