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第12話

 秘書という輩は小言が好きだ。  と言い切れるほど他人との交流がない状況に、たいした変化があったわけではない。  このところの私は、心身ともに多忙だった。  ある一人の青年の言葉に浮かれ、感動し、そして己のマイノリティと向き合い神と宗教に想いを馳せた。  以前から顔は知っていたものの、特に近づく気もなかったムハンマドとの会食が実現したのも、この青年のおかげだったと断言できる。  本を買い、空を見上げ、知識を詰め込み、そして彼とひとときの会話を楽しむ時間はもう、過ぎ去ってしまった。今は今まで通り、ただの変人のアラビア人でしかない。  私の世界は相変わらず狭く、友人と呼べる人間も小言が好きな秘書くらいしかいない。ムハンマドとは少々会話をする機会が増えたものの、まだ気安いとは言い難いし、なにより彼は二回りも歳が上だ。  私に面と向かって小言を叩きこんでくれる無礼で度胸のある人間は、やはりイーハだけだった。  それなのにここ最近、私を詰る言葉の群れが、ぱったりと聞こえなくなった。  イーハが特別優しくなったわけではない。彼の性格にはなんら変わりはないし、勿論イーハに暇を言いつけたわけでもない。今も彼は自分用のデスクで、カタカタと何かを打ち込んでいる。  この数日、私の秘書はやたらと多忙そうだ。小忙しそうにパソコンに向かい、時に電話をかける彼は、小言を口にする暇もないらしい。 「……忙しそうだな、イーハ」  私の声は一応届いたらしく、ちらりとこちらを一瞥した後に些か覇気のない声が返ってくる。 「ムハンマド氏との共同事業のお話が随分と奔放なものでしたので、色々と折り合いをつけるのが大変なんですよ。あとは貴方のバカンスの調整です。例年私の主人はいつも『どこでもいいから誰からも干渉されず一歩も外に出なくていい場所』などというハードルと自由度が高いのか低いのかさっぱりわからない注文をつけてきますもので。今年もどこか行きたいところはないんですか?」 「あー……ない、な」 「張り合いがないですね。では何か用意してほしいものは? やりたいことがあれば善処しますよ。天体観測とか」 「望遠鏡は自分で注文した。相対性理論の本が欲しい」 「kindleで買ってください。これ以上書斎を宇宙の本で埋めるのは私から見てもひどい自虐行為です。もう少しで終わりますが、先に帰っていてくださってもかまいませんよ」 「どうせ同じ所に帰るのに、時間差をつける意味もないだろ。あと五時間待てと言われても私は構わないよ。帰ってやる事と言えば、積んである本を消化する事くらいだ」  事実を述べただけではあるが、あまりにも味気ない日常を再確認してしまい、深い息が零れそうになる。  私の人生は冷たい。真空に浮かぶ星のように、静かで、そして何もない。それが当たり前だったというのに、このところ熱に浮かされすぎていた。  一度あの熱に触れた私は、元の冷たい人生がどうにも空虚に感じてしまう。だが、嘆いたところで何が変わるわけでもない。  君の活躍を応援している、と送り出した青年を追いかけて、彼の手を掴みこちらに引き戻すわけにはいかないからだ。  私は心底彼を、彼の人生を、彼の活躍を応援している。  急な別れになってしまったとはいえ、彼にムハンマドを紹介したことを悔いてはいない。ムハンマドが早急に動いたおかげで、二人のディナーの約束が消えてしまった事も、仕方がない事だと理解しているし、十分に納得している。  私は、ノルの成功を誰よりも祈りたい。  彼が宇宙に少しでも手が届くように。あの無音の空間に、近づけるように。七百万キロ先のあの赤い星に彼の手が近づき、空想の方程式の解が少しでも希望のある数字になるように。  僕は宇宙人と会いたい。そう言って夜空を見上げる彼の美しい瞳を、私は生涯忘れないだろう。  たった数週間の同居だった。しかしそのわずかな期間で私は、人生で唯一忘れえぬ感情を抱いた。 「そういえば、……貴方が誰かに感情を動かされるのは、初めてでしたね」  手元のディスプレイから目を離さず、平坦な声でイーハが零す。  何を今さらと私は苦笑し、素直にそうだなと頷いた。 「避けていたからな、誰かに近づく事自体を。まあ、今も避けているし、これからも避けていくつもりだ。私は誰かに懸想するわけにはいかない。私の感情を、私の神は許さない。故に、私も許せない」 「厳密には接触を禁じているだけでしょう? とはいっても、宗教的に禁じていない国でも同性愛は確かにタブーというか、強烈なフォビアが存在することも確かですがね。……貴方は真面目過ぎる、本当に」 「頭が固いだけだ。消化できない事を、どうにかしようと奮闘する情熱がない。私の人生は冷たい」 「全くです。不器用で冷たい貴方の人生が、私は嫌いではないですが」  己の厄介な指向に気が付いた時から、私は人間を避けて生きてきた。変人と言われようが、断固群れから遠ざかり、結婚の話も全て断った。私の人生に捕らわれるのは、私だけでいい。誰かを巻き添えにするべきではない。  つい、ぼうっと窓の外を眺めてしまう事が増えた。  まあ、昔からあまりテキパキと動く方ではなかったが。最近はイーハも私と同じく覇気がないような気がする。  私には小言ばかりのコミュニケーションを図る秘書は、思いの外よく喋る青年を気に入っていたらしい。  ノルを見送った空港で、珍しく大きな息を吐き、イーハが呟いた言葉がまだ耳に残っている。  手のかかる弟が、二人に増えた気分でした。  ……そう言った彼にうまく言葉が返せず、私は五歳上の友人の背中を久しぶりに叩いた。  ぼんやりとしているうちにも時間は容赦なく進む。このままぼんやりと寿命を全うして死にそうだ、と思っていると、キーボードを叩く音がぴたりと止んだ。 「終わったのか、イーハ」  そう声をかけた私に、イーハはいえ、と否定の言葉を述べる。 「終わってはいません、すいません、ええと……イギリスから、ノルからメールです」 「……ノルから?」 「はい。私のメールアドレス宛ですが、タイトルは『ラティーフとイーハへ』ですね。開きますか? ……私は退室しましょうか?」 「いやお前も宛先の一人だろう、開いてくれ」  たかがメール一通に、こんなにも心臓が潰されそうになるのだから恐ろしい。感情とは、人間とは、精神とは、……恋とは、恐ろしい。  イーハが開いたメールは、相変わらずの絨毯のような英文で埋まっている。この下にはきっといつものように、どうにか無理矢理翻訳したアラビア語がまた刺繍模様のように繋がっているのだろう。  懐かしいノルのメール文章に、早くも口角が上がりそうになり思わず手で口元を隠してしまう。  恥ずかしい。ちっとも自制できていない。そう思い反省したというのに、ちらりと見やったイーハも同じように口元を手で隠していた。全く持って私達は、あの青年の事が好きすぎる。  親愛なるラティーフとイーハへ。  その書き出しの下に、私は殊更ゆっくりと意識しつつ目を移した。 From: Oliver gray To: Aichear Oconnor Subject: 親愛なるラティーフとイーハへ ――――――――――――――――  お久しぶりです。と言ってもまだ五日くらいだけど、きちんとこっちにつきましたって連絡は電話でしちゃったから、なんていうかメールではお久しぶりです。  僕は実はあんまりメル友とか居なくて、だからそっちに居る間は特別誰かとメールのやり取りをしていたわけじゃないし、なんだかこうやってパソコンに向かって文字を打ち込むコミュニケーションって久しぶりですごく不思議というか、懐かしい感じだなって思います。久しぶりだからちょっと変なところとかあっても許してくださいね! なんて言わなくても、きっとあなた達は優しいから笑って流してくれるって知っています。  まず、たくさんのお礼を言いきれなかったのでそれは後程、ちゃんと改めてお礼の手紙を送らせてもらいますね。ここでそれを書いちゃったら、何時間あっても読み切れないものが出来ちゃいそうだから。  とりあえず最初に大事な事だけ言います。僕は結構元気で、実はかなりあなた達に会えないのが寂しいけど、例えばお腹が痛いとか頭が痛いとかそういう不調は一切ないし、リトル・ヒューストンのみんなもいつも通り迎えてくれたので、きっとこういうのを『問題なし』って言うと思います。問題なく、僕は元気。寂しいけど。寂しいからってチャックに泣きついたら、メールしたらいいじゃないかって怒られちゃったけど。  だから僕はメーラーを立ち上げたものの、いざ書こうと思うと今まで何を書いてたのかよく思い出せなくて、前の自分のメールを開いたりしてあまりにもひどいアラビア語に笑ったり恥ずかしくなったりして一時間くらい潰しちゃったし、もう思いついた事をそのまま書きなぐってやろうと思います。  そういえば僕ってば宇宙って広いとか宇宙って寒いとか、そんな話ばっかりで、宇宙人に会いたい僕の話をしたことがなかったから。  本当はラティーフと二人でご飯を食べる機会に、打ち明けようと思っていた話です。  どこから話したら適切かよくわからないから、最初から簡潔に箇条書きで説明しますね。学者って奴は、箇条書きが好きだから、僕もそれに倣うことにします。 ・僕が生まれたのはイギリスで、生家は特別裕福ではなくて、両親は特別愛情深くないけど積極的に虐待する程でもいなくて、それなりに普通に生きていた。 ・僕はちょっとだけ頭が良いくらいの学力で、幼少期は特別宇宙に興味なんて持っていなかった。 ・僕の初恋は十二歳の時で、この時僕は自分が同性愛者だということに気が付いて、そして十四歳の時に両親にバレて、やっぱり虐待とかはされなかったけどたぶん家族という扱いの中からは外れたらしい。 ・ついでに僕は僕の性的指向の件でちょっとだけ思い出したくない虐めにもあっていた。(これに関しては僕がゲイだからとかじゃなくて、単に僕が地元のグループの人間性と合わなかっただけかもしれないけれど) ・僕が宇宙に興味を持ったのは、そこは国籍とか人種とか性別とか、そんなもの関係のないただの無の世界だから。 ・僕が宇宙人に興味を持ったのは、人間とは全く別の生命体とコンタクトを取って、人間の性別や人格や様々な区別的な概念は彼らから見たらどんなものなのか知りたいと思ったから。 ・僕が宇宙人に会いたいのは、彼らは僕を、イギリス人のゲイではなくて、地球人という種として認識してくれると思ったから。  以上が、僕が宇宙に興味持つまでのざっくりとしたプロセスです。書いておいて何だけど、びっくりするくらい後ろ向きで笑っちゃいました。でも、ラティーフは優しいからきっと眉を顰めて優しい言葉を飲み込んじゃうんだろうなって思います。イーハは怒るかな。怒るよね。イーハも優しいから。  でも今は僕がゲイだからとかなんだかそんなことはどうでもよくて、本当に純粋に宇宙人ってものに興味を抱いています。知れば知るほど、宇宙は広くて、笑えるくらいに人類は孤独なんです。だって太陽系の外側に出るにも二十年かかるんです。笑っちゃいますよね。その外側に、恒星は、銀河は、山ほどあるのに。現在の人類の技術では、四万年かってやっと恒星の一つに足がかかる程度なのに。その向こうにもやっぱり星は山ほどあるのに。  僕たちがこんなに煩く喋って、動いて、喚いて、データ飛ばし合って、武器とか火薬を飛ばし合って騒いでいるのに、宇宙には誰もいないなんて、寂しすぎる。  人類は本当に孤独なんでしょうか。  本当に、僕達の他に今この時代に、生命は存在しないのでしょうか。  例え手が届かなくても、僕の寿命の内に異星人とのコンタクトに成功しなくても、僕はその答えのヒントだけでも掴みたいと思っています。  その為に僕はまず、グレンジャー教授の元で勉強します。ドイツの会議の後はそのまま教授の研究所に移住を勧められています。僕とオフェリアはそのつもりだけど、その他のメンバーがみんな各々勝手に反対していてすごく面白い事になっているんですが、その話はまた今度にしますね。すごく長くなりそうだから。  もしお二人の都合がつけば、この前のアブダビとリトル・ヒューストンを繋いだ電波をもう一度再現するのもいいですよね。画面越しでもきっと、あなた達は優しいんだろうなぁと思うと、もう泣きそうです。  これから少し忙しくなりそうだから、今のうちにちょっとだけ休んでおこうと思っています。もしお暇があれば、お返事もらえたら嬉しいです。なんたって僕は今、決戦前の休暇中だから。ドイツ語の勉強も一応しているけど。  最後に、ラティーフに。  貴方の優しさを、愛情を、憂いを、僕はとても愛しく思います。こんなことを言うとまた泣いちゃいそうなんだけど、でも言わないでうだうだしているよりいいかなって思うから。きっと貴方にとって恋情ってものはすごく辛いものなんだろうなって、想像くらいはできます。そちらの神さまはきっちりしていて、僕なんかすぐに怒られてしまいそう。  でも、きっちりしていて強いから、みんな穏やかなんだろうと思うし、僕はアブダビも、貴方の宗教も好きです。  貴方の心が少しでも穏やかでありますように。 PS:ごめんなさい、結局千夜一夜物語を読み終える前に帰国しちゃいました。もし機会があれば読みに行きます。どうか捨てずに置いておいてください。 「……………」  すべてを読み終えた私は、もう一度頭から目を通し、二度程目頭を押さえ、ついに耐えられず涙を拭ったところで、イーハも同じく目頭を押さえている事に気が付いた。 「……お前、そんなに涙もろかったか……?」  思わず胡乱気に声をかけてしまう。しかしイーハは涙声も隠さずに鼻をすすってから答える。 「知りませんよ……私の友人と言えば真面目過ぎるアラブ人しかいなかったんです。貴方と張り合える程度には私は友人がいませんからね。けなげな青年からの真摯な文章を、茶化して読める程人でなしではありませんよ。宇宙の話なんだか告白なんだか言伝なんだか、よくわからない文章ではありますが」  確かにひどく散らかった内容のメールだった。  これはノルの話だ。そして宇宙の話であり、これからの決意であり、私達への愛情の話だった。  ノルは明言する事を避けていた。それでも、彼の心がまだアブダビに残されている事は伺える内容だ。  私はその心を、引き留めるべきではないのだろう。  宇宙に向けて手を伸ばす青年の手を、私は掴むべきではない。抱きしめて愛情を注ぎ込む事の出来ない私が、愛しているなどと伝える事はできないのだから。  そう思うものの、彼の痛ましい程真摯な愛情を斬り捨てる勇気もまた、私にはなかった。  目頭を押さえるイーハに断り席を譲ってもらい、パソコンに向かう。すっかり慣れた手順を思い出しながら、私は拙い英語を打ち込んだ。 From: Aichear Oconnor To: Oliver gray Subject: 親愛なる火星の信者へ ――――――――――――――――  ノルへ、ラティーフより。イーハのPCを拝借して返信する。  君の嬉しい言葉の数々には、後程イーハが誠意をもって返信をするだろう。彼は小言が得意だが、君に対しては驚くほど甘い。  私にとって、君がいる日々は酷く刺激的で有意義なものだった。幸いこの家は無駄に広い。先日オフェリア嬢に言った言葉を、君にも贈ろう。  もし砂漠で星空が見たくなったら、アブダビ行の飛行機に飛び乗るといい。電話一本でアイルランド人の秘書を向かわせるし、ホテルの予約は必要ない。私の無駄に広い家が、君の、君たちの別荘だ。  私の持つ古い千夜一夜物語はいつでも私の書斎にある。好きな時に読みに来るといい。もし必要ならばリトル・ヒューストンに送るが、そこまでするなら君はkindleで読むだろうか。私は郵送の手間くらいはどうということはないよ。  君は、世界を跨いで活躍する研究者になるだろう。そうなる事を、砂漠の端で私は期待している。 PS:火星の本はあらかた読み終わった。君はいつか、あの赤い星にたどり着くのだろうか。私は、フォボスに憧れる。  送信ボタンを押したのは勢いだ。こんなもの、読み直したらゴミ箱に突っ込みたくなるに決まっている。勢いでパソコンを閉じてしまい、作業中だったイーハに「あ!」と声を上げられてしまったが、知るものか。  送ってしまった言葉の数々は取り戻せない。けれど、どれも本心だ。後先考えない、私の衝動的な本心だ。  私は、フォボスに憧れる。  彼がいつかたどり着く火星の周りを、かの衛星は熱烈な恋情で回り続けているのだから。

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