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ランドルフ4
父の去った部屋に、沈黙が降りる。
「ランドルフ……」
「父にとって俺は……俺個人は、全く必要のない人間だったと言うわけですね」
求めたのはアルファの力。
ただそれだけ。
――アルファでなかったら、こんな思いは味わわずに済んだのだろうか。
激しい失望と虚無感が、ランドルフを襲う。
田舎へ帰るとまで言いだしたランドルフを励ましたのは、フレッドだった。
「まだ落ち込んでいるのかい? さっきも言ったように、あまり気に病まない方がいい。叔父は番以外は誰に対しても、冷淡な対応しかしない人だから」
「運命の番?」
「あぁ、そうだ。……君の母上は、運命のせいで番を解消されたんだっけ」
「そのように聞いています。父の番はどんな人なんですか?」
「実は俺も会ったことがないんだよ」
「え?」
聞けば父は番を愛するあまり、屋敷から一歩も出さず溺愛しているらしい。
そのため友人知人はおろか、親族でさえ番を見た者はほとんどいないのだと、フレッドは語った。
「自分の愛する者を、ほかの誰にも見せたくないのだそうだ。溺愛というよりも、激しい執着を感じるね。ただ、これは叔父に限ったことではないそうだが」
「と言うと?」
「運命の番を見つけたアルファは、オメガを愛するあまり、常軌を逸した行動を取るらしい」
その一例が自宅軟禁とは……アルファとはなんと罪深い生き物なのだろうと、ランドルフは率直に思った。
「フレッドには番はいるんですか?」
「いや、俺はまだだ。気になるオメガがいないこともないんだが、番になったあとで運命が見つかったらと思うとね」
機転が利いて人当たりがよく、父の商売にも協力的だった母は、一族の誰からも慕われていた。
彼女の尽力の甲斐あって纏まった商談がいくつもあり、当時のヒギンズ商会の屋台骨を支えていたひとりと言っても過言ではなかったはずが、父は彼女をアッサリと捨てて運命を選んだ。
総領である父に表立って意見する者はいなかったが、不信感を抱いた人間も少なくなかった。
「なぜあんなに素晴らしい妻を捨てて、運命なんかを選んだのかと、未だに陰口を叩く人もいるよ」
運命の番は、誰しもが出会えるというものではない。
出会えるのは奇跡とまで言われるほど。
ほとんどのアルファが、己が運命に出会えぬまま生涯を閉じる。
そのため、父の身に起こった衝動、衝撃、執着を理解できる者は誰ひとりおらず、未だにランドルフの母を惜しむ声が聞こえるのだという。
「特に今の番は叔父のために存在しているだけで、ヒギンズ商会にとって毒にも薬にもならないような人物だからね。親族の言うことも理解できる。ただ……」
「ただ?」
「俺は叔父が羨ましい。なんとしても手に入れたいと思える相手に出会えるなんて、幸せだと思わないか。俺は叔父のように、いつか必ず運命を見つけたいと夢見ているんだ。君もそう思わないかい?」
「俺は……」
その運命のせいで母と自分は父に捨てられたのだ――そう考えるとランドルフは、決して甘やかな幻想は抱けなかった。
苦笑するランドルフを見て、己が失態に気付いたフレッド慌てて謝罪した。
「もう済んだ話です。ただ俺は運命なんて見つける気もないし、欲しいとも思わない。それだけです」
「だが……申し訳なかった。今後君の前で、運命について話すのは控えよう」
「そうしていただけると助かりますね」
それからふたりはその話題に触れることなく、予約していたボックス席へと着いた。
「随分いい席ですね」
「君をやる気にさせたいという下心があったからね。……もっとも叔父のおかげで、だいぶ台無しにはなってしまったが」
「俺はその気持ちだけでも充分嬉しいですよ」
自分を精一杯励ましてくれるフレッドに、悪い印象はない。
「正直、この先どうなるかはわかりませんが……」
それでもフレッドの気持ちに応えられるよう、少しは頑張ってみようかという気にはなった。
やがて開幕のベルが鳴り、緞帳がゆっくりと左右に割れた。
――んっ……?
ランドルフはふと、甘い香りを嗅ぎ取った。
それはこの劇場に入ってすぐに感じた香りと、同じものだった。
仄かに香る、蜜のような匂い。
それが幕が開いた途端、より強いものに変わったのだ。
――舞台上で、香を焚いている……?
今日の演目は切ない恋を描いた悲劇だったはず。その演出として、甘い香を漂わせているのだろうか。
――それにしたって、この匂いは……焚きすぎじゃないか?
思わず首を捻るランドルフを、フレッドは訝しげに見た。
「どうしたんだ?」
「あ、いえ……香の匂いが強くなったなと思って」
「香? 一体なんのことを」
そのとき、場内に割れんばかりの拍手が轟いた。
ふたりが舞台に目を遣ると、真っ白いドレスを着た俳優が、舞台上手から登場してきたところだった。
「ノア・ヴィーナスだ」
主演俳優の登場に、フレッドもまた拍手を送る。
しかし。
ガタンと椅子が倒れる音が辺りに響いた。
「ランドルフ!?」
椅子から立ち上がり、舞台上を凝視しているランドルフの姿に、フレッドは驚愕した。
「おい、ランドルフ。一体どうしたんだ?」
しかしランドルフはなにも答えない。
瞬きひとつせず、ただただノアだけを見つめて続けている。
「とにかく座って」
椅子を起こして、そこに無理やり彼を座らせた。
「どうしたんだよ。ノアがあまりに美しくて、一目惚れしたのか?」
「……いや、違う。そんなんじゃないんだ。ただ……」
見つけてしまった。
絶対に欲しいなんて思わなかったはずの者が、目の前に現れてしまった。
ノア・ヴィーナス。彼こそが……。
――俺の、運命の番だ。
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