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ノア1
開演前の楽屋は、火事場のような騒々しさに包まれていた。
着替えや化粧に余念のない演者たちと、開演前の準備に追われる裏方たち。
いつもと変わらない風景。
しかしノアはそれを、どこか苛立った気分で見つめていた。
「あれ、ノアにいさん。もう支度は終わったの?」
後輩役者のデニスが声を掛ける。
彼はノアを“にいさん”と呼んでいるが、決して実の兄弟ではない。
ノアやデニスをはじめ、この劇団にいる者は全て、幼いころに劇団長ゴードン・メイブに売られてきた者たちばかりである。
劇団は彼らにとって家であり、劇団員は家族のようなもの。
そのため年下の者は皆、年長者を“にいさん”と呼んで慕っているのだ。
「まだ紅を引いてないじゃないか」
「紅は嫌いだ。口元がベタベタと重くなる」
「そりゃ、ノアにいさんは紅なんか差さなくたって充分美しいけどさ。でもこれから舞台なんだから、それくらい我慢してよ」
デニスは紅入れを手に取ると、ノアの唇に色を入れた。
「随分とご機嫌斜めだね」
「そんなことはない」
「嘘だってバレバレだよ。なにかあったの?」
「……匂うんだよ」
「匂い?」
「さっきからずっと、やたらと甘ったるい匂いがしてるだろ?」
スンスンと周囲を嗅いだデニスだったが、特別気になるものは感じない。
「特に匂わないけど」
「嘘言え。だんだんと強くなってる。おかげで頭がボォッとしそうだ」
「もしかしたらこれかな?」
手に取ったのは、真新しい白粉。
それはノアが贔屓客から送られた、東方渡りの貴重な化粧品だった。
「これ、少し甘い匂いがするね。僕はそこまで気にならないけど、ノア兄さんは肌に直接付けるから、気になったのかな」
その白粉はたしかに花のような上品な香りがした。
――だけど、これとは香りの質が違う。
鼻につくのは白粉の香りすら凌駕する、蜜のような匂い。
――この香りは危険だ。
得体の知れない匂いに、ノアの本能がザワザワと警報を鳴らす。
「これはもう要らない。捨ててくれ」
「えっ、いいの!? これ、凄く高価な品でしょ?」
「いいんだ」
「じゃあ僕がもらっていい?」
「別に構わないが、匂いが酷いようなら使うのを辞めろよ」
「わかった! ありがとう、ノアにいさん!!」
有頂天になっているデニスの横を通り過ぎ、ノアは舞台へと向かう。
今夜の演目は、“運命の番”を題材にした悲劇。何十、何百回と演じてきた、ノアの十八番だ。
セリフも歌も、完璧に覚えている。目を瞑ったままで演じることだってできるだろう。
しかし、今日ばかりは上手く演じられるか、ノアは不安だった。
――すべてはこの香りのせいだ。
今までどんな香水をつけても、匂いに溺れそうになったことはない。
それが今はどうだ。
蜜のような甘い芳香は、徐々に強くなる一方。
まるでノアの全身を包み込んでいるかのような、錯覚すら覚える。
そして後孔に感じる違和感。
甘い痺れが疼きを呼んで、うっすらと濡れているような気がしてならない。
――こんなの、まるで発情期みたいじゃないか。
しかしノアの発情期までは、まだ二ヶ月以上もある。だから余計に、この不可解な現象が忌々しくて仕方ないのだ。
――幕が上がればきっと、匂いなんか気にならなくなるだろう。
自分の集中力を信じるしかない。
開幕のベルが鳴る。
緞帳が割れ、楽団が朝の訪れを思わせるような音楽を奏でた。
舞台上では既に数名の演者が演技をしており、ノアの出番は間もなくだ。
その強い匂いを遠ざけるようにように頭を振った。
『アイリーン、アイリーンはどこなの?』
ノアが演じる主人公アイリーンを呼ぶ声がする。
出番だ。
ノアは白いドレスを翻し、舞台中央へと歩みを進めた。
その瞬間、さらに匂いが強くなり、ノアはグッと眉を顰めた。
――この匂い……客席から香っている?
大波のように押し寄せる香りは、たしかに客席から漂っている。
こんな強い香水を付けているなんて、その客は一体どう言うつもりだ?
苛立ったノアが、チラリと客席を見た瞬間。
舞台から遠く離れたボックス席にいる獣人と目が合った。
本来なら客の顔も判別できないほど遠い席。
しかし、ノアはたしかに見たのだ。
驚きの表情を浮かべて、自分を凝視する男の顔を。
目が合った瞬間、男の体から甘い匂いが大量に吹き上がり、瞬く間に舞台上のノアに届いて彼の体を包み込んだ。
――あっ……。
忌々しいとさえ思っていた匂いが一瞬にして尊いものに変わり、言いようもない多幸感がノアの全身を駆け巡る。
ノアはそこが舞台上だと言うことを忘れ、ただただ彼の視線と匂いだけを追った。
「ノアにいさん、セリフ!!」
気付けばデニスがすぐ隣に立っていて、小声でノアを促していた。
――いけない。
ここは舞台だ。
演じることを、忘れてはいけない。
ノアは縋りたくなる思いを押し殺して、役になりきることにした。
『お母さま、いかがなさいましたの?』
『マスグレイヴ伯爵家から、正式に婚約の申し込みがあったわ』
『まぁ、デリックさまから!?』
お決まりのセリフが淀みなく口をついて出る。
いつもと変わらぬ、完璧な演技。
しかしノアの頭の中は、ボックス席の男のことでいっぱいだった。
――彼はきっと。
ノアは確信していた。
あの獣人こそが、自分の運命なのだ――と。
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