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ノア2
今宵の演目は、運命の番に翻弄された女性の悲劇を描いた物語である。
伯爵令嬢でオメガのアイリーン・スクワイアは、デリック・マスグレイヴというアルファから求婚を受ける。
デリックに幼いころから恋心を抱いていたアイリーンは、彼と結婚できる日を心待ちにしていた。
『なんの不自由もない、幸せな一生を君に贈ると約束しよう』
『私はデリックさまさえ側にいてくれれば、それで充分なのです』
『愛しているよ、アイリーン』
初めてのくちづけに、幸せを噛みしめるアイリーン。
しかし結婚式前日に悲劇が起こる。
デリックが、運命の番と出会ってしまったのだ。
『婚約を破棄してくれ』
『私に誓った愛は嘘だったのですか!?』
『すまない……だが俺はもう……』
運命の手を取り、アイリーンの元を去って行くデリック。
嘆き悲しむアイリーンを、両親は必死で慰めた。
『大丈夫だ、お前たちの婚約は絶対に破棄させはしない』
デリックの実家であるマスグレイヴ家は、アイリーンの父から多額の融資を受けていたのだ。
『もしも婚約を破棄するなら、無利息無期限で貸し付けていた金を、利息と支払期限も設けさせていただく』
だから婚約破棄は考え直してくれ……そう願い出たにも関わらず、デリックは意思を変えなかった。
そして両家は新たに契約書類を交わすこととなる。その内容はごくごく常識的な範囲のものあったが、財政状況が厳しいマスグレイヴ家は、期限内に支払いをすることができなかった。
そのため担保となっていた土地や建物はスクワイア家のものとなっていき、マスグレイヴ家はさらに窮地に陥ったのだ。
それを恨みに思ったマスグレイヴ家は、アイリーンの悪い噂を流し始めた。
事実無根のその噂は、さも真実であるかのように社交界に広まっていく。
傷心のあまり屋敷に引きこもっていたアイリーンと、そんな彼女を慰めるため社交を怠っていた両親は、そんな噂が流れていることに全く気付かなかった。
やがて夜会に出席したアイリーンは、大勢の人から白い目を向けられたことに驚いた。
次第に孤立していくアイリーン。
絶望に打ちひしがれるアイリーンのもとに、デリックと番が姿を表す。
『社交界は今、俺たちの流した噂で持ちきりだな』
『私のことを愛してくれていたのではなかったのですか?』
『お前のことなんてなんとも思っていやしない。スクワイア家に財産がなければ、お前のような女と婚約なんてするものか!』
その一言に打ちのめされたアイリーン。
『ふっ……ふふふ……あはははは……』
絶望のどん底に落とされた彼女の口から、乾いた笑いが漏れる。
『これは夢。いつもの悪夢。デリックさまがこんなことを言うはずがないもの』
正気を失ったアイリーンに、やがて狂気が宿っていく。
重苦しい音楽が、場内に響く。
その曲に併せ、ノア演じるアイリーンが、微かな声で歌を紡ぐ。
輝かしい あの日の思い出
夢のような 美しい日々
手にした愛は 形を変えて
風のように 儚く消えた
涙を堪えたような表情で、切々と歌い上げるノア。
アイリーンの悲哀が痛いほど伝わる演技に、客席のあちらこちらから啜り泣く声が聞こえる。
絶望が 世界を彩り
暗い闇が 私を包む
それでも心は 求め続ける
あなただけを いつまでも
去りゆく君に 今告げよう
この愛こそが 真の運命
私の全てと 引き換えに
この手にしよう あなたの愛を
デリックに縋っているかのように、客席に向かってまっすぐに伸ばされた右手。
普段は演出どおりの動きをしているだけに過ぎなかったが、今宵はだけ違う。
その指先はボックス席の男――ランドルフに向かって伸ばされる。
ランドルフもまた、その手を掴むように腕を伸ばしたのが見えて、ノアは歓喜した。
運命の鼓動 宿命の光
あなただけを 永遠に求める
ずっと、ずっと、永遠に
私こそが あなたの運命
――そう、あの人こそが、僕の運命だ……。
歌い終え、両手を上げて天を仰ぎ見るノア。
プラチナブロンドの髪と額に滲む汗が、スポットライトに照らされてキラキラと輝いている。
上気する頬。うっとりと微笑む、恍惚の表情。
神々しいまでの姿に、劇場内にいた誰もが動けなかった。
一瞬の沈黙のあと――。
場内は割れんばかりの歓声と、拍手に包まれたのであった。
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