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番4
まどろみの中、不意に温かいものに包まれたことに、ノアは気付いた。
ゆっくりと目を開けると、そこには昨夜出会ったばかりの番が微笑んでいた。
「おはよう」
「……おはよう」
昨夜あれほど感じていた甘い香りは、今はほんの少し漂う程度。初めての邂逅に互いの魂が共鳴し、あり得ないほどの香気となったのだろうか。
そこまで考え、昨夜の痴態を思い出したノアの顔が、羞恥で真っ赤に染まった。
「昨日はつい夢中になってしまって」
恥ずかしそうに微笑むランドルフに、ノアの胸が熱くなる。
ノアがアルファと肌を合わせるのは、これが初めてではない。
俳優たちの地位は低く、客が希望すれば好きな演者と一晩共にすることができる。それが全演者にオメガを抱える、ポリュムニア・シアターのもうひとつの顔だ。
それは看板俳優のノアであっても、避けられないことであった。
オメガたちを閨の中でぞんざいに扱うアルファは少なくない。
特に行為が終わったあとは、一顧だにせず帰る者ばかりだというのに。
――この人は違う。
番だからというわけではなさそうだ、とノアは直感した。
アルファとは思えないほど、優しくて穏やかな雰囲気。自分を見る目は慈愛に満ちていて、心の底から温かいものが沸き立つ思いがする。
「名前を……」
あれだけ愛し合ったにも関わらず、名を聞いていないことに気付いたノア。それはランドルフも同様で、いかに余裕なく交わっていたかと思い至って苦笑した。
「ランドルフ・セルヴィッジ。あなたはノア・ヴィーナスだよね?」
しかしノアはそれを否定した。
「それは芸名。僕はノア。ただのノアだよ」
ノア・ヴィーナスの名でランドルフには呼ばれたくなかった。
それはアルファにとって都合のいい玩具である自分に付けられた枷だからだ。
ノアの顔に暗い影が差す。
そんなノアの顔をランドルフは両手で包むと
「ノア。俺の番」
そう言って優しさに溢れたキスをした。
それからふたりは、さまざまなことを話した。他愛もない会話はいつまでも続く。
「ノアを、正式に俺の番にしたい」
うなじを噛みたい――ランドルフは改めて告げた。
もちろんノアに否やはない。
しかし、彼は首を縦に振ることはできなかった。
「……僕には借金がある。劇場の建築費用は、僕の名前で用立てられたものなんだ」
劇場が完成して間もなく、劇団長にその事実を告げられたノアは愕然とした。
なぜならノア自身、そのような話は一度も聞かされていなかったからだ。
「客の大半はノア・ヴィーナス目当てだ。つまり、新しい劇場はお前のために建てたんだよ。だからお前が払うのは当然だろう?」
そう冷たく言い放つゴードン。そして突然降って沸いた莫大な借金を、今なお細々と返済しているのだと、ノアは語った。
「僕を番にしたら、ランドルフに迷惑がかかる」
ランドルフはしばし考えたあと、ノアの目を見て言った。
「大丈夫だ。借金は俺が用立てる」
「気が遠くなるほどの金額だよ!? そんな負担は掛けられない!」
しかしランドルフはなおも力強く
「今すぐには無理だが、俺がヒギンズ商会の跡取りになったら、それくらいの金は支払える。だから安心して」
ランドルフの黒い尾がパタパタと忙しなく揺れるのを見て、ノアはクスリと笑った。
「番になるって、約束してくれる?」
「本当に、僕でいいの?」
「ノア以外考えられない。だって君は俺の運命だから」
ノアをギュッとかき抱くランドルフ。
その腕の温もりに、ノアは一条の光を見た気がした。
**********
ホテルを出たランドルフは、ノアを連れてまっすぐに劇場へと向かった。劇団長に話を通しておく必要があると思ったからだ。
「ノアを客に売ることだけは止めさせる」
ランドルフの奥歯がギリリと音を立てた。
本当は舞台にだって立って欲しくない。できることなら誰の目にも触れさせたくはない。
しかし、それを当のノアが拒んだのだ。
「僕は劇団を背負って立つ俳優として、けじめを付けてから舞台を降りたいんだ」
愛しい番にそう言い切られ、ランドルフは渋々ノアの意見に従った。
やがて団長室に通されると、そこには不機嫌極まりないゴードン・メイブが待っていた。
「あんたかね。うちの看板俳優を連れ去ったのは」
「俺の名はランドルフ。ヒギンズ商会の後継者です。そしてノアは俺の番です」
しかしヒギンズ商会の名にも、ゴードンが態度を変えることはなかった。
「ノアにはあんたよりも相応しいパトロンがいる」
「えっ?」
ふたりが異口同音に呟いたとき、団長室のドアがなんの前触れもなく開いた。そこに現れた壮年の獣人を見た、ノアの顔色が変わった。
「ギデオン!」
「一年ぶりだな、ノア。私のかわいい玩具」
ギデオンはそう言って、うっそりと笑った。
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