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SCENE3

 大阪、名古屋と無事に公演回数を重ね、俺達は仙台にやってきていた。  リハも終わり、ちょっとスタッフとしゃべったりしてから戻ると、楽屋にはみんなどこに行ったのか、健司しかいない。  健司はなにやら熱心に、雑誌を読んでいる。俺はそんな健司にちらっと目をやって、健司の向かい側、鏡のすぐ前で煙草に火をつけた。  ぼんやり、一服。腹減ったな、ケータリング食おうかな。純さんはどこだろ。  いるはずがいないと、つい気になる。仕方なく純さんの世話を焼く俺、って構図は大学時代からだったけど、それのおかげで俺は、人知れず純さんを守れてきた。  でもそれがここんとこ度を越えてて、ホント自分がやんなる。自分で自分がウザい。  煙草を消そうと顔を上げたら、鏡越しに健司と目があった。 「凌太さ、最近なんかあった?」  詮索するような目で俺を見つつ煙草を取り出して、ライターを借りようと俺に手を差し出してくる。 「え、なんで?」  俺だって役者だ。素の感情は出さず、ライターを無造作に渡しながら、さも不思議そうに訊き返す。 「ん、まあ勘だ、勘。なんとなくな、ここんとこ芝居ちょっと違うなあってさ。うまく言えねえけど」  東京の時よりも、いろいろと考えながら演じてるのは確かだ。でも俺は、気づかれるほど芝居変えた覚えはない。強いてなんかあったと言うなら、健司のせいだ。でもそれを言うつもりはないから、俺は黙っていた。 「お前の役、いいよなあ」  くわえ煙草の健司が、しみじみ言って腕組みする。  なにがいいんだ? 誰が見たってブサイクって設定で、笑わせるためって言ったって、無様な演技と女装だぞ? 分かんねえなあ。  あ。あ、まさか? いやいや、さすがにそれはねえな。健司にそんなしおらしいとこがあるとは思えねえもん。  そこにぶらっと、純さんが戻ってきた。 「腹減ったな、なんか食おうかなあ」  誰にともなくぼそぼそつぶやいたくせして、俺の背後に寝転がる。ぼんやり腹立つ。 「なあ、村田村田」  あれ、日置さん声が心なしか弾んでるの、気のせいですか。  そう思ってしまうのも、健司が純さんになにを言うのか気にしてしまう自分も、腹立たしい。ここんとこ、どうにもいらついてしまう自分も腹立たしい。悪循環はエンドレスの勢いで、心底自分にうんざりだ。 「ん、なに」  ほとんど生返事。まあ、いつものことだけどこのテンションの相違も面白いわけで。 「これ、かわいそうだと思わねえ? せつないよなあ」  健司はテーブルの下から、開いた雑誌をずいっと差し出した。さっきまで熱心に読んでた記事らしい。  なにげに俺も、読むのに参加してみた。やけに過敏で細かい男になってしまっている俺は、別にどうでもいいっちゃあいいんだけど、どうしてさっきからいた俺じゃなくて、純さんに振るんだろうと気になった。  純さんはさりげなく、そばに座ってる俺にも読みやすいように雑誌の向きを変え、俺の太ももにあごを乗せて、無表情に黙読。  健司が見せてきたのは見開き二ページの記事で、写真が数枚あしらわれていた。どの写真にも、メスライオンと草食動物の子供だといういたいけな存在が、一緒に写っている。  子供を亡くしたメスライオンが、その子の身代わりのように、草食動物の子供を連れ歩く。自分の子のように面倒を見る。でも、親子ごっこはたいてい長くは続かない。  「母」がちょっと餌を獲りに行った隙に、他のライオンに「子」が食べられてしまう。「母」が「子」に餌を与えてやれず餓死させてしまう。「子」を護るために「母」も絶食し、ガリガリに痩せ細った「親子」が連れだって歩く姿が見られることもあるという。  そういう親子ごっこは、サバンナではそんなに珍しくもないらしい。肉食と草食、食う食われるの関係を超えたように見えても、永遠にその一線を超えることはできない。  読み終えて俺は、小さくため息をついた。なるほど、これは確かにせつない。純さんはまだ読み終わらないのか、何度も反芻してるのか、眉を寄せて記事を見つめたままだ。遅いっちゅうの。  で、健司はといえば、テーブルに身を乗り出して、うずうずと純さんの感想を待っているように見える。  まさか、俺の想像的中か? しょっちゅうつきあう相手も変わるし、性欲に正直で、大ちゃんに恋愛話を日置健司の性愛レポート、なんて言われてる健司様だぜ? 「……俺達みたいだね」  へえっ、と喉を締めつけたやたらかん高い健司の声が楽屋に響く。さすが日置さん、ナイスかつオーバーリアクション。動きも大きい。 「お、俺達みたいってどういうことよ?」  明らかにあせりまくった揺れ放題の声で、健司が純さんに迫る。  ええっ、マジですか日置さん? やっぱりさっきの俺をうらやむ発言も、リョウコはジュンイチに一途に想われ続けていいなあ、ってことスか? 「ん? 草食と肉食ぐらい、違うなあって」  そういうの、さらっと言っちゃうのが純さんの怖さだ。たぶん、健司が自分に気があるとか、そんなのは一ミリどころか、一ミクロンも思わねえし、そうじゃないとしたって爆弾発言だって自覚がないんだろう。 「まあな、確かにな……」  健司は完璧不機嫌になって、そのまま楽屋を出て行った。  健司自身も認めたように、純さんと健司は草食と肉食ぐらい違う。言い得て妙だ。  そしたら、俺はなんだ? 俺こそライオンじゃねえのか? 一緒に育ったから仲よし、的に、べったべたに頼られて甘えられてるけども……。  って、待て。俺がライオンはまだしも、純さんがいたいけな草食動物、って考え方がまずおかしい。外見はともかく、この人はそんなかわいいもんじゃねえ。 「なんで、無理だって分かんないんだろ」  ぼそっ、と小さくつぶやく純さんに、ずくずくっ、と心臓がうずいた。  冷たく歪んだ顔。一瞬、走る寒気。  まさかもまさかだ、純さんがなにもかにも分かってて、平然と健司を突き放したなんて。  でもだとしたら、今思ったのと違う意味で、この人はそんなかわいいもんじゃねえ。俺にすら見えない水面下の深いところに、とんでもない物を隠し持ってたってことになる。 「ねえ凌ちゃん、メシ食おうよ」  そう言いつつ、純さんは俺のすぐ脇で、溶けかかってるようにだらーっとする。言動が矛盾してんじゃねえか。ちょっと複雑な思いで純さんの横顔を見ようとして、やめた。 「なにしてんだよ、メシ食いたいなら立ってよ」  純さんの頭を小突き、さっさと立ち上がってケータリングのある廊下に出る。 「あ、待ってよう」  追ってくる、わざと低く淀ませた声。  俺は喜んでいいんだろうか。水だと思ったらウォッカだった、みたいな、狼狽ととまどいがある。見ちゃいけないものを見てしまったような気がする。  これまでのもろもろも忘れて、ちょっとだけ健司が気の毒だ。あの健司が、片想いにときめく女みてえ、ってのは言い過ぎにしろ、純さんに対しては健司らしくなかったのは間違いない。  手に入んない方が自分のためだ。そう言い聞かせつつ、やっぱり手に入れたくなるのがヒトってもんだよな……。  だけど健司、いったいどんな答えを期待してたんだ? もしかして今までも俺の知らないとこで、何度も当たっては砕けてたのか? さすがしつこい……いや、果敢だなあ。  いろいろ思いながらちらっと純さんに目をやったら、純さんも俺を見ていた。 「ねえ、俺、やってないからね」  目があうなり言うあわい声と、無駄にきらきらしい、ほめられるの待ってる小学生みたいな満面の笑み。  ああ、やっぱり。  思った途端純さんを抱きしめたいような衝動に駆られ、なんとか耐える。 「今夜、いいでしょ?」  きらきらしい笑顔のまま、純さんが首をかしげた。  やれやれ、続きは夜だ。  ところがその夜、俺は牛タン屋にいた。貧乏ゆすりしながらビールをあおる。  薄汚い雑居ビルの三階。狭い店の茶色っぽく変色した壁に、ずらりと並ぶ有名人のサイン。目の前には、今をときめくうちのスター、有村大のうれしそうな笑顔。  なんで健司やリーダーを誘わなかったんだろう。無事夜公演が終わって、一人で劇場近くの飲み屋街をのぞこうと思っていた俺は、大ちゃんにほとんど無理やりタクシーに乗せられて、ここにやって来た。  知る人ぞ知る名店の牛タンを食べよう! とかテンション高く言われたって、俺は今夜純さんを存分に食う気満々だったんだから、さっぱりその気になれない。  炭火で香ばしく最高級のぶ厚い牛タンを焼かれようが、注文したつまみがどれもうまかろうが、今は純さんを抱いて寝ることしか考えられない。  俺はそういう、これまでの俺とは違う自分を、ようやく肯定する気になっていた。だけど、今までどおり、そんな自分を純さんに見せる気はない。男の意地だ。  本当に純さんが好きだ。惚れてる。そう認めたら、ちょっとは楽になった。やっぱりたまには、自分に素直になった方がいいらしい。 「なんなんだよ、なんか約束でもあったのかよ?」  メインの牛タンの網焼きが来ても大して喜ばない俺に、大ちゃんが憮然とした顔をする。 「……別に。今日は一人でメシ食いたい気分だっただけだよ」 「だったら、うまい物はうれしそうに食えよな。牛にも育てた人にも加工した人にも料理した人にも、俺にも失礼だろ」 「うるさいよ」  俺のつぶやきをスルーし、本当にうれしそうに牛タンに箸を伸ばす大ちゃん。 「いや~、マジうまそう! いただきま~す」  豪快に大きな牛タンを一口で頬張る。大げさにのけぞる。大ちゃんは潤んだ目で何度もうなずき、本当に幸せそうだ。 「うまい! もう思い残すことはない!」  大げさすぎんだろ。なんで同じテンションで食う健司じゃなくて俺なんだよ、まったく。  俺はほとんど失笑に近い笑いをかみ殺し、感想を述べる。 「確かにうまいね」  ぶ厚いのに柔らかい。塩こしょうの加減もちょうどいい。でも俺は残念ながら、食欲より断然性欲なんだよなあ。 「だからさ、そのテンションなんとかしろって」 「そんなこと言われてもさあ……」  遊園地に行きたがってたヤツを、図書館に連れてくようなもんだっての。そこにどんなに面白い本があろうが、それじゃ開く気にもならねえ。 「ホント、お前が一番年下だとは思えねえよな。あのさ、それってさ」  大ちゃんは忙しく動かしてた口を止め、考え事をするようにあらぬ方を見る。その横顔は、無駄がなく男性的だ。 「なによ?」 「いや、これ食ってからにするわ。すいません、網焼きもう一人前!」  よく食うよなあ、それでこの体型維持できてるのはすげえわ。  ため息を飲みこんで、俺もまた牛タンに箸を伸ばす。どうやら、話があって俺を連れてきたらしいってのは分かった。聞くだけ聞いてやろう。  大ちゃんはさんざん食って、締めにアイスまでたいらげて、椅子にもたれて満足のため息をついた。 「で、さっきなにが言いたかったの?」  こっちからさっさと切り出す。途端に真面目な表情で姿勢を正す大ちゃん。  どうせろくなことじゃないだろう。もったいつけて、実は話したかったのは甥っ子がどんなにかわいいか、だったりする。こうでもしないと聞いてくれないから、とか言うけど、こっちはたまったもんじゃない。 「……うん、いやさ、お前がそんなに落ち着いてんのは、恋人が年上だからなのかなあと思って」 「は?」  なんだそりゃ、俺そんなこと言ったっけ? 特定の相手なんかいないことにしてたよな? 「大ちゃん、いったいなんの話がしたいわけ?」  遠慮なくストレートに斬りこむと、端正な顔が気まずそうに歪む。うつむいて、黙ってしまった。  長いつきあいで、察するところがあった。大ちゃんはおしゃべりなわりには、自分の事となると口が重い。 「なんだよ、深刻な話? 場所変えようか?」  こんなくつろげないとこでするのもなんだし、と思って提案すると、大ちゃんは救われたような顔でうなずく。  ちょうど同じビルのすぐ上に、雰囲気のいいバーがあると店の人に教えてもらい、そこに移動。  照明を落とした店内には、ジャズ。レンガの壁に、レコードジャケット。小さな丸テーブルをはさんで、木製の足が長い椅子に落ち着く。深い飴色のテーブルと椅子はすべらかで、どこか艶っぽい。  一人で何時間でもいられそうだった。それか、純さんと来たい。酒は静かに飲むに限る。 「恋愛相談だったら、俺じゃなくてリーダーか純さんじゃねえの?」  大ちゃんはちらっと俺を見て、意味ありげに片頬で笑う。 「いや、お前じゃなきゃダメなんだよ」  俺じゃなんの参考にもならねえのは、分かりそうなもんだけどなあ。  仕方なく、俺は口の中をさっぱりさせようとジンライムを頼んで、それを飲みながら大ちゃんが話し出すのを待った。  脚が長いから、大ちゃんは座面の高い椅子に座るのがすげえ様になる。有村大だと気づいたのか、それとも単にかっこいいと思ったのか、俺の視界の隅でちらちらとこっちを気にしてる女性客。  これが有名税ってヤツか? カラオケにでも行った方が、人目がなくてよかったかな。いったいなんの話なんだか、さっさとして欲しいんだけど。  煙草を吸おうとした時、ジーンズのポケットに入れてたスマホが震えた。純さんかも、と思ったら、やっぱりそうで。  待ってるから、帰ってきたらすぐ来て  俺だって帰りたい。明日は東京帰るだけだし、純さんと思いっきりエッチして気持ちよく寝たい。だけど……。 「純ちゃんからだろ」  ひっそりと小さな声が、ビンタのように俺を打つ。 「えっ?」  顔を上げるとそこには、正面から遠慮なく見つめる瞳。  なんだ? なんで分かったんだ? おいおいなんだ、この妙に深刻な雰囲気は?  思わず動揺しちまった。大ちゃんが持つ鋭さが、的確に俺を捕らえている。その目に喉を狙われているような気がして、動けない。 「やっぱり、回りくどいのはやめだ。はっきり聞かせてもらうわ」  間接照明のせいでくっきりと陰影ができている真剣な表情は、まるでドラマのワンシーン。テーブルに身を乗り出し、やり手弁護士のようにストレートに言葉を投げかけてくる。 「凌太って、純ちゃんとつきあってんのか?」  ああ……。とうとう、バレた。  帰りたい。純さんに会いたい。ぬくもりを感じて、安心したい。 「なんのこと?」  それでも一応しらを切ると、大ちゃんはふっと笑った。知ってんだぞ俺は、って顔だ。当然、待ってたってカットの声はかからない。泣きたい。 「すげえよな、よく今まで隠し通したよな」 「なんの根拠があって、そんなこと言うんだよ」  言いながら俺はひたすら、純さんを想う。あの揺るがない静かな微笑みを見たい。抱きあいたい。ただただそう思う。  カットがかからないなら、役者としてはなんとか踏ん張るしかない。  自分は大丈夫だって思ってた。バレようがなにしようが、平気だと思ってた。だって純さんとつきあうまでの俺は、二股かけて修羅場になろうがいきなり愛想つかされようが、なんとも思わずに、すぐ次に行ける男だったんだから。 「根拠とか別にいいだろ。なあ、そうなんだろ?」  追及してくる大ちゃんの声が遠い。まるで水の中で聞いてるみたいだ。  決めつけ口調なのは、決定的な場面を見たとか、そういうことなんだろうか。もう、そんなふうに弱々しく考えることぐらいしかできない。  自分は大丈夫だって思ってた。俺は強いって、そう思ってた。だけど、ダメだった。心が倒れてマットに沈むのが、はっきり見えちまった。  たぶん俺は強いんじゃなくて、どうでもよかったんだ。今までつきあってきたヤツらのこと、大切になんか思ってなかったんだ。  こんなこと、気づくべきじゃなかったのかも知れない。純さんへの気持ちの深さを自覚したせいで、俺は苦しい思いばっかりしてる。知りたくなかった、嫌な自分を知っていく。  でもやっぱり、そんな思いを抱えて俺が帰っていくのは、純さんのところだ。バレたって言ったら、純さんはなんて言うだろう。 「お前がそんな顔するとは思わなかった。ごめんな」  静かに謝られて、うつむいてた顔を上げる。  大きくて目尻の切れ上がった、攻撃的な瞳。それが今はせつなげに細められて、澄んでもろい、クリスタルみたいな笑顔が目の前にあった。 「まさか、大ちゃん……」 「バカ、そんなんじゃねえよ。よかったな、凌太」  よかった、か。そうだ、よかった。それでもやっぱり、俺は純さんとつきあえてよかった。  たぶん俺は、すげえ幸せそうに笑ったんだろう。大ちゃんの笑顔が、優しさをまとう。 「言われてみれば、お前さ、」  次の瞬間発せられた聞き捨てならない言葉を、俺は聞き逃さなかった。 「……言われてみれば? 言われてみればって、どういうこと?」 「あ、いや、気づいてから思い返してみたら、いろいろ腑に落ちたからさ」  明らかに大ちゃんは嘘をついてる。目だけを上げて上の方を見るのが、その証拠だ。まだ俺はノックアウトされたわけじゃない、こっちも嘘を貫き通すだけだ。 「いやでも俺はまだ、つきあってるって認めたわけじゃねえし」 「そっか、分かった。なら朝までつきあえ!」 「はあ? 俺は帰るぞ?」  俺の顔を見て、大ちゃんは大げさなぐらい吹き出した。 「お前さ、そんな露骨にお預け食らった犬みたいな顔すんなよ、やっぱ純ちゃんが待ってんだろ?」 「ちげえよ、その手の店に行くんだよ」  役者の意地にかけて、これ以上のぼろは絶対出せない。実際俺がそういう店に通ってた時期もあったのは、大ちゃんだって知ってる。納得できる答えのはずだ。 「嘘つかんでもよかぞ」  確信は揺るがないらしく、カクテルを飲みながら、余裕の笑み。今さら演技したって遅いってか。悔しいわ。でも負けは自分でそう認めない限り、負けじゃない。 「だけん違うって言うとろうが」  九州弁に九州弁で返す。けだるげにグラスを置き、ちらりと俺に視線を投げてくる大ちゃん。そのはかなげな表情に、思わずドキッとした。 「……認めんなら、まあよかよ。ただ、俺は訊きたかっただけで……」  コースターに手を伸ばし、意味もなくふちをなぞりながら、少し言いにくそうに言う。怒られて言い訳をする子供のように。 「なにをだよ?」  聞き返しても、大ちゃんはしばらく返事をしなかった。 「早くしないと、俺帰るぞ」  財布から千円札を二枚出して、テーブルに置く。それでもやっぱり、大ちゃんは口を開かない。 「なんなんだよ、いったい?」  声が分かりやすすぎるほど棘を含んでいる。俺にはそれを笑う余裕もない。もうつきあってらんねえ。一刻も早く純さんのとこに帰りたい。 「じゃあまた明日、大ちゃん」 「待ってくれ!」  切実な叫び。驚いて振り返りながら、集まる視線を俺は感じた。あ、やっぱりあの人……。そんな小さな、女の声。  ちらりと俺を見る、大ちゃんの弱々しい視線。すぐ沈んでいったその哀しい瞳を、初めて見る心の奥を、俺は受け損ねたボールを眺めるように、ただ見ていることしかできない。 「……あのさ、お前ら、つらくないのか」  うなだれて、大ちゃんは低く小さく、床に転がすようにつぶやいた。  その姿はまるで、嵐に打ちのめされた野獣。野生のままの美しさと、打ちのめされたからこその美しさで、目を離せない。  これが訊きたかったのか。あくまでしらを切るべきか。はぐらかすべきか。それとも、つらくなんかないと、見えすいた嘘を言ってやるべきなのか。  大ちゃんが抱えているものが少し見えてしまった俺は悩み、立ち尽くす。 「なあ、つらくないのか」  渋いジャズに隠れるような、涙声にすら聞こえる、かすれ声。やつれたように見える横顔。  これまでずっと、カラフルな風船の中身は、夜の海みたいな絶望だったんだろうか。そんなはずはないだろう。  俺は、決めた。 「つらいだけなら、そんなのやめちまえよ。なんで一緒にいるんだよ」  バシッと一発、大ちゃんの肩をたたいてバーを出る。  大ちゃんがどう受け取るのかなんて、どうでもいい。今はただまっすぐ、純さんのとこに帰るだけだ。

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