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第50話 残り時間

「アサ、大丈夫だ」 握られた手を引き、小さなアサを腕に閉じ込めると俺は木に寄りかかった。 この少年の不安を取り除くために俺ができること。 抱きしめ、大丈夫だと伝えてやること。 それは簡単だが誰にでも効くわけではない特別な安定剤だ。 自分の胸に寄りかかる小さな頬を両手に収めこちらを向かせると、戸惑い気味な黒い瞳がこちらを見つめた。 「いい子だ」 出会ってから何度も繰り返してきたその言葉に、アサは嬉しそうに目を細めた。 この子が何を決断したのかは、今の俺には分からない。 遅かれ早かれ話をしなくてはと頭の隅で思うが今はこの温もりを楽しみ、2人の時間を満喫したかった。 「ニー、ル…」 「ああ、何だ?」 「ボク…」 言葉が通じないということは時にまどろっこしいものだ。 それでも、ゆっくりと分かり合うこの過程が俺にとっては何よりも尊い。 深緑色の葉が茂るこの大樹には、他の国では目にしたことがないような真っ赤な花が大量に咲いている。典型的な花びらは生えていないが、真っ赤で細長い雄しべがブラシ状に生えている。 風が吹くたびに、俺たちの頭の上でふわふわと木の葉と花が踊る。 言葉を交わさなくても、心地よい時を楽しめる人を見つけたことに、心が満たされていく。 幸せとは永遠に続かないものなのかもしれない。 今、幸せを感じているのなら、今を楽しまなくては。 アサが帰ると言っても、笑って見送れるように。 「アサは、帰りたいのか?」 「カ、エ…リ…?」 「島国に…」 「ア…ン…ニール…」 愛しい人の悲しそうな表情さえ愛しいと思ってしまう俺はもう末期なのかもしれない。 泣きそうで困ったように目尻を下げたアサの唇に自分の唇を合わせると、小さな手が俺の背中に回ってきた。 「ッンン…アッ」 昨夜だって何度も口づけを交わしたのに、未だに初心な反応を見せ、頬を真っ赤にするアサを目にすると、この子をどうやって手放せと言うんだと、心が痛くなってくる。 「ンッ!」 残り時間がどのくらいなのか分からない。 もしかすると、俺を、俺たちの船を選んでくれるかもしれない。 あと何度口づけを交わせるかも分からないその子の咥内に舌を這わせると、背中で上着を掴んでいた手がぎゅっと握られた。 「愛してる、アサ」 「ッン」 人通りの多い、市場の一角にいるということさえ忘れてしまうほど、夢中になり、この小さな少年と唾液を交え、必死で身体を包み、愛でていく。 耳に届いていた人々の声や騒音はだんだんと遠ざかり、まるで自分たちしかいない世界に移ってきたような感覚に陥った。

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