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第52話 アサの伝えたい気持ち
市場を去り、仕立て屋に向かってもケンは僕の手を放してくれなかった。
必死で何かを伝えてくれていたけど、ほとんど何を言われているか分からない。
それでも、ここ数カ月で兄弟のように仲良くしてくれたケンの必死な気持ちは僕の心をぎゅっと痛めてきた。
店主と話し終わってすぐに島に帰ろうと決められたわけじゃなかった。
僕はまだ迷ってる。
どうしたらいいか分からなくて、島国に帰ることも、ニールといることも両方選べたらどんなに幸せなんだろう。
自分が知っている単語が少なすぎて、帰りたいか迷っていると上手く伝えられたかは分からなかった。
もしかすると、勘違いさせたかもしれない。
それよりも感情が高まって、涙が止まらなくて、子供のようにわんわんと泣きじゃくってニールを困らせてしまった。
――もどかしい
もっと伝えたい言葉があるんだ。
帰りたいけど帰りたくないんだって、離れたくないんだって伝えたいのに、僕には数えられるくらいの単語しかなくて、こんなに大切なことなのに、はっきりと伝えられていない。
明日6時45分までに波止場に来いと、言われた。
それまでに決めればいいんだ。
「アサ、また明日ね!絶対ね!」
仕立て屋でたくさんの衣服を受け取り、ゆっくりと宿屋に戻ると、ケンは渋々とショーンに連れられ去って行った。
泣きそうな顔をしているケンを見て、僕は帰りたくないなと後姿を見送った。
島国の両親や友達に会いたいという気持ちと、ニールたちと離れたくないという気持ちに、僕の心は引き裂かれている。
何て辛い決断をしなくちゃいけないんだ。
ふわりと部屋にたどり着いた僕を背後から包んだのはニールの逞しい体だった。
側にいるだけで安心できる不思議な魔法を持つこの人に、僕は別れを伝えることとなるのだろうか。
寝床に座るニールの膝に座らされると唇が心地よい温もりで包まれた。
引き裂かれた折り紙のように散っていた心が、温まっていくような幸せな感覚に気持ちが落ち着いていく。
「ス、キ…」
帰ると決めても、帰らないと決めても、僕はこの人が大好きだ。
僕の口の中をくすぐる温かい舌を自分の舌で必死に追いかけると、大きな手が僕の背筋を撫であげる。
上下にゆっくり優しく這っていくその指先は少し冷たくて、火照りだした体にちょうど良かった。
「アサっ」
眉間を寄せながら僕を求めるこの人に、僕はどんなに辛い思いをさせてしまっているのだろう。
言葉が通じたらもっとうまく説明できたはずだ。
言葉が通じないから、今できることはお互いを求め合うことだった。
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