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第71話 ニールは止められない
何だろうこの感情は。
アサとともに宿屋に戻ってきた俺は自分自身に急かされるような不思議な感覚に戸惑っていた。
「ニール、お言葉ですが、夕飯前には明日の確認を行いますので必ず時間を開けておいてください」
「何度も言うな、分かってる」
「本当ですか?」
「何が言いたい?」
「部屋に戻って無理をされないように」
「無理、だと?」
「もー!ニールったらっ!ショーンはアサのこと大事にしてねー!って言ってるの!」
「っ!はあ?俺だってそのくらい我慢できる」
「はぁ、それなら良いのですが。仕事ですので、きちんと時間通りに来てくださいね」
「ったりまえだ」
そう言ってショーンとケンと別れ俺たちの部屋に戻ってきたのは10分前のことだった。
同じ空間にアサがいること、アサが俺を選んでくれたこと、一人で虚無感を感じながら船旅を続けなくても良いということ、全てが…何もかもが予想外のこと過ぎて…
嬉しいのに言葉を失うという情けない状況に俺はあった。
「ニール!」
「あ、ああ。悪い」
扉の目の前に立ち続けて数分、動かず何も言わずただ立っていた俺の腕をアサが引いた。
サラサラと流れる直毛の髪の毛は華奢な肩辺りで揺れる。いつもと違うのは、その黒髪が束ねられていることと、そこに輝くのが俺が贈った群青色のバレッタだということだ。
「ありがとう…アサ」
「ン?ナン、デ?」
「何でもだ」
両腕で包み込んだ細い体がわずかに揺れると、小さな手が俺の背中に触れた。
まだ、昼間にもなっていない、太陽が降り注ぐ時間帯。
窓の外では小鳥が囀り、わずかに開いたカーテンの隙間からは暖かい風が流れ込み、俺の胸に顔を預けるアサの髪を弄った。
「戻ってきてくれてありがとう」
「?」
「お前が帰ってきてくれてうれしいよ」
「ウレシ…イ?」
「ああ」
前髪を掬い日焼け知らずに額に唇を落とすと、目の前の頬が桃色に染まった。
至近距離で俺を見つめ返す黒色の瞳が照れ隠しなのか伏せられ、まつ毛がわずかに震える。
「アサ…」
「ハイ…」
両手で包んだ頬に顔を寄せて唇を奪えば、鼻から息が抜けるような可愛い吐息が耳に届いた。
今、ここで口づけをしているのが誰でもなくアサで、夢のようだが現実で、本来ならば遠くに行き一生再会できなかったであろう愛しい人であることに頭が真っ白になりそうだ。
ショーンのしかめっ面が脳裏に過ったが、ついてしまった火種は燃え尽きることも知らず、俺は腕の中のアサの唇を楽しみ、手のひらで滑らかな肌の感覚を楽しんだ。
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