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第170話 ニールの回想
瞼を開いてから、まだ一度も触れていない唇に親指を走らせる。アサと初めて口づけをした日から、毎日欠かさずこの唇に触れてきたというのに、俺のポンコツな体のせいで三日連続口づけができなかった。頭をぶつけた衝撃によることであったとはいえ、納得がいかない。顔を歪めてそんなことを考えていると、今にも涙がこぼれそうな漆黒の瞳が優しそうにこちらを見つめていた。
たった数日。それだけか、と言われればそれだけなのだけど、3日ぶりにアサの顔が見れて幸せだ。まあ、正直なところ、俺自身は3日も寝ていた気はしない。どちらかと言えば、何だかとてつもなく長い一日を過ごした感覚だ。
朝一番にサイと甲板で話をして、自分の部屋に戻ってアサがいないことに慌てて、そこから船中アサを探しに歩き回っていた。
と、そこまではしっかりと覚えていて。よくわからないのは次に目が覚めたらどこだか分からない部屋に寝そべっていて、誰だか知らない年寄りの男性が俺の顔をまじまじと見つめていた。今まで休止していた脳みそが急稼働してグワングワンと忙しかったのを覚えている。
「#%^*&?」
「あ?」
靄のかかった頭で「あ」と発するのが精いっぱいだった。数時間たった今考えると失礼極まりない反応だったとは思うが、そこは気絶していたこともあって許してほしい。
「目は見えるかって先生は言っている」
「あ……」
「お前、頭打って言葉喋れなくなったのか」
「い、いや……せん、ちょう?」
「ああ、俺だ」
今思い返すと間抜けな会話だが、その時の俺にはこれが精いっぱいだった。そうだ……その直後、状況をもっと把握せねばと左右に視線を動かすと、なじみの顔が心配そうにこちらを覗いていたんだ。この時に「ここは船じゃない」と気づいたのを覚えている。体感だか知らないが、何かが、ここは陸上だと教えてくれた。
波の揺れか、空気の匂いか、鳥たちの鳴き声か。
普段感じているものが欠けていると、俺の体が教えてくれた。
「目に不調はないか、と先生が聞いているぞ、ニール」
「目は大丈夫です、多分。見えてる?はずです」
「イエスかノーかで答えろ。見えてんだな?」
「はい……」
こんな会話を、目を覚ましたばかりの俺は交わしたはずだ。あとは頭痛くないかとか、指の数を当てろとか、名前は何だとか、質問攻めにあったが、そんなことよりここがどこで、なんで俺だけ寝ていて、皆が俺のことを見つめているのか教えてほしくてしょうがなかった。
「ニール、イタイ?」
「アサ、俺は大丈夫だ。心配かけてごめんな。怖かったよな」
「ボク…ン…チョット、コワイ。デモ、イマ、ダイジョブ」
「もう絶対こんなことしないから……」
「シナイ?」
「ああ、約束だ」
いつもより乱れた黒髪に指を滑らせる。後頭部に指先がたどり着くと、カチッとバレッタが詰めに当たり音を立てた。
髪に頭が回らないほど俺のことが心配だったに違いない。俺だったらそうなるはずだ。アサが怪我をして意識不明の重体になったら、俺は自分のことを忘れてしまうはず。寝ることも後回しになって、動かない体に張り付いているに違いない。
自意識過剰だが、俺が眠っている間アサはそうであった、と俺は思っている。変な自信だが、目の前のアサがその証拠だ。
俺の恋人は自分を二の次にするくらい俺を愛していてくれて、俺もそれを超えるくらい彼を愛しているのだから。
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