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第172話 ニールの眩暈

「そうなったらヤバいですよね。船に乗っていられないじゃないですか」 「ヤバいって一言でまとめていいもんか分からないが、そうだな。’ヤバい’な」 「俺を置いていくとかそういう話ですか?」  視界の端で、ソワソワと落ち着かない様子のショーンが見える。船長が何を言おうとしているか、こいつは知っているのだろうか。  というか待てよ。俺がこれから記憶を失う可能性があるって言ったか? 「ニール、お前の体がこれからどう反応するかは、医者でもわからないことだ」 「なるようになるって感じですか」 「ああ、そうだな。運よく……って言うのもなんだが、傷も浅いし、気絶してた時間が長い割には状態が良いらしい」  そういうと船長は大きく息を吐いた。よく見れば、いつも以上に疲れた顔をしている。心配をかけたに違いない。業務以外のことで迷惑をかけてしまった。何度も怒られたことはあるが、こうやって気苦労させたことはなかったはずだ。  誰も何も言わない静かな時間が流れた。10年以上、ほぼ毎日合わせてきたその顔をじっくりと見つめる。昔より皺が増え、赤毛と白髪の比率が半々になってきたところを見ると、この人も人並みに年を取ってきているんだ。まあ、それは俺も同じか。    俺の容態が悪くなれば、父親代わりにしてきたこの人とも、家族のような船員たちとも会えなくなるのか。船生活に終止符を打つなんて、考えてもみなかったことだ。  これからも、この先も、船に乗っている自分しか想像できないって言うのに。  アサは……そうなったらアサは俺と船を降りるのか?  それでアサはいいのか?  それならアサは故郷に帰ったほうが良いんじゃないか?  そうしたら俺は……  俺は、どうするんだ?  船以外に俺は何を知っている?  視界がぐるぐると回り始めた。指先が震え、首筋に汗が流れる。 「ニール!ニール!大丈夫ですか?気分が悪いようでしたら、先生を呼びますが」 「大丈夫だ、ショーン。悪い。平気だ」 「本当か?おい、無理するなよ。少し休憩するか?話の続きは後からでもいいぞ。なんたってあと数日ここにいるんだからな」 「いや、大したことないんで続けてください、船長」  倒れそうなら言えよ、と眉尻を下げて船長が言った。  具合が悪いわけではない。これは身体的な問題じゃないはず。医者じゃないから、間違っている確率も高いが、自分の体だからわかる。これは精神的な問題だ。  不安で飲み込まれそうなだけだ。船長の話を聞けば、背後霊のように張り付いているこの気持ち悪い感覚から解放されるはず。 「それでだ。ニール、お前が大丈夫そうなら船に戻ってこい。出発前に先生がまた診断してくれるって言っていたから、その時分かるだろう。最悪、容態が悪化したら、ここに残って治療するなり、大人しくしているなりしなくちゃいけないだろうな」 「ここで、ですか……俺、現地の言葉全く分からないんですけど」 「んなもん、何とかなるだろ。冬も俺らの国より寒くなくて住みやすいと思うぞ?」 「それは良かった……ってそうじゃなくて!」  ハハ、と大げさに笑うと船長は表情を緩め、目を細める。この表情には見覚えがある。若い頃に何度か見たものだ。何かを言い聞かせようとするときに顔をしていた気がする。  優しさの中にノーと言えない威厳が隠れているような、父親代わりのこの人の最も「父親らしい」表情だ。  

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