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 どうしよう。  発情期の予定日と中間考査の時期が被っている。あと二ヶ月もないのになんの解決策も思い浮かばない。  いつか被るとは思っていた。でもなぜこの時期なんだ。学年が上がって初めてのテストじゃ見込みで成績をつけるわけにもいかない。相談相手もいない。  それにもう一つ今年に入って困りごとが増えた。  考えれば考えるほど底のない井戸に放り込まれたような気持ちになる。  瑚和(こより)は桜の木に背中を預けて華奢な膝を抱えた。  そこに植えられている木が桜だと知ったのは最近だ。人知れず蕾を結び花を開いた桜は、なにも言わずに小さな花弁を舞い散らせている。辺りにはそれが薄桃色の絨毯のように散らばっていた。  放課後だが周囲に人影はない。校舎裏の人知れない袋小路の空間だからだ。昼休みにも毎日来るが、誰かに会ったことはない。  一人は気楽で心地いい。  鼻先に桜の花弁が一枚乗った。  瑚和は睫毛の長い大きくて凛とした涼しい瞳を瞬かせる。  葉の浮かぶ泉の水に墨を一滴垂らしたような薄いしっとりした黒目に、花弁の色が反射して吸い込まれていった。長くて細い女のような指先で花弁を摘む。  指の腹に乗せて艶のある鴇色の薄い唇を開けた。雪のような色の綺麗に並んだ歯の間から目が覚めるような深紅の舌先をちらと控えめに覗かせる。  その舌先にゆっくりと花弁を乗せこくりと飲み込むと、詰め襟の間に浮き上がったのど元が金魚が跳ねるように動く。  陶器のような滑らかで病的なまでに色素の薄い肌の頬に赤みが差した。  花は美味くも不味くもない。  膝を抱え直して目を瞑る。  桜の花びらが死んでいく。でもその音は聞こえない。それしかすることがないように耳を澄ませた。俺も桜の花びらみたいに音もなく、誰にもなにも悟られないでさっさと死ねたらいいのにな。  耳を劈くような轟音がした。  心臓がレモンを絞るようにぎゅっと縮こまる。体はうさぎのように飛び跳ねた。  周囲を見回すと少し遠くの方で一人の人狼が吹っ飛ばされている。  規格はだいぶ違っているが、おおよそ同じ学ランの制服を着ていた。  瑚和の通っている高校は関係者も生徒もβだけの平和な高校、だった。  彼らが入学してくるまでは。  これが最近できた悩みの種だ。  人狼はみなαで人間はβかΩしかいない。  βしかいない高校であればこそ、瑚和はなんとか自分はβだと偽って高校生活を乗り切れていた。  しかしαの彼らが入学してはもう今まで通りには過ごせないかもしれない。  なにがボーダーレス化だ。悪手でしかない。  差異がある、ただそれだけでどれほどの苦労が必要かβには分からない。  瑚和は思わず木の後ろに隠れようとした。  しかしその動きは操られたようにピタリと止まってしまう。  コンクリートの低い塀にぶつかって倒れている人狼から目が離せなかった。  彼は雲のように真っ白で、他のどの人狼よりも二回り以上大きい。  その人狼の元へ茶色の被毛の人狼が追撃するようににじりよって来た。  あの茶色は瑚和でも知っている。テツという名前で、暫定《アルファ》に一番近いところにいる人狼だ。  人狼は縦社会で順位が決まっている。最上位が《アルファ》。群れで一人がなれる、簡単に言うと王様。次が《ベータ》、一般人。最下位の一割が《オメガ》、下僕。  それが決まっていない群れの場合、まず初めに格付けが行われる。新入生の人狼の間では今まさにその最中ということだ。  その順位付けは単純に力で決まるらしい。でなければ目の前の光景に理由がつけられない。野蛮だ、とクラスメイトは迷惑そうな顔をしていた。  今の新入生が最上級生になる頃には、βよりもずっと優秀な人狼の《アルファ》が生徒会長になるだろう。人狼という枠を超えて学校という一つの群れを制すに違いない。 「空丸よォ、さっさと《オメガ》になれよ目障りなんだよ!」  空丸。あの白い人狼は空丸というのだ。  名前が胸に染み込んでいく。なぜか雫が落ちた水面のようにとくんと脈を打った。  テツは空丸の胸倉を掴むと塀から引き剥がすように投げ飛ばす。すごい力だ。しかしその横暴さに、瑚和は顔をしかめずにはいられない。  あれがα。  王に一番近い獣。  テツが生徒会長になればきっとこのβだけの平和な高校もすっかり変わってしまうだろう。  ボーダーレス化の成れの果て。  知能も身体能力も見た目のたくましさも、βやΩがαに敵うわけがないのに。一足先に卒業できてよかった……と胸を撫で下ろしそうになったが、成績が悪ければ留年の可能性も出てくる。  中間考査はなにがなんでもどうにかして乗り切らなければならない……心に重くのしかかった。 「弱虫が! さっさとくたばれ!」  頭に声が響いていく。  初対面のあの白い獣を、是が非でも助けなければ、と。  体が勝手に動き出していた。  走って上がった呼吸を殺しながら、空丸の前に立って両手を広げる。  テツがすぐ目の前に迫ってくるのが映画のワンシーンのように見えた。ぎゅっと目を瞑ってしまう。立ち竦んだ。  瑚和の鼻先すれすれでテツの動きがぴたりと止まる。驚異の身体能力だ。  彼の動きで生まれた風が瑚和の濡れ場色の髪をさらさら揺らす。散った桜の花びらがくるくると舞い上がった。  同時に背後からたまらなくいい香りが薫ってくる。  これは……噎せ返るような桜の香り。  春が死んでいく匂い。  切ないほどに優しい。  逃れようのない陶酔が襲いかかってくるようだった。  力が湧いてくる。足に力が入らないのに立てている。  不思議な感じだった。  後ろの人狼を、殺させない。 「やめなよ」  今日初めて声を出したかもしれない。声は掠れていた。  内心びくびくしながら睨みつけると、テツが眼を見開き唸りながらなめ回すように顔を見てくる。  こんな距離で人狼と向かい合ったことはない。自分がβでないと気付かれるのではないか、と一抹の不安が過った。 「匂う」  心臓を掴まれたように体に悪寒が走る。 「百合の匂いだ……!」  テツはあからさまに嫌悪感を顔に出した。  気付かれていない……? 「βに手を出すと厄介なんだよ! 邪魔だ! 干渉するな、どけ!」  βを巻き込まないことが学校がαに課した格付けの条件であることは知っていた。   だから正直殺されることはないと高を括っている。 「俺二年なんだけど。君は一年でしょ、それが目上の人に対する態度なわけ?」  目の前のテツの大きな口から鋭い牙が露わになる。鼻に寄っていた皺がもっと深くなった。  食べられそう、と思ったら、こめかみに汗が流れる。 「君が消えてよ」  テツの大きな手が振り上がる。あ、だめだ殺されると思って眼を瞑ったら、胸の辺りに爪を立てられて小突かれただけだった。それでもどす、という強い力に体が後ろに傾いてしまう。  その手が瑚和の詰襟を掴んで顔を強引に引き寄せる。 「名前教えて下さいよ百合の先輩」  言葉に棘があり、それだけで畏縮しそうだ。瑚和が口を噤んでいると、テツは脅迫するように犬歯をぎらりと覗かせる。  口を開いてしまった。 「岩崎瑚和」 「……覚えたぞ!」  投げ出すように開放された。倒れそうになる体を叱咤してなんとか立つ。 「俺が《アルファ》になるまで首洗って待ってろ!」  終わった。そのうち絶対殺される。  死んでもいいけど痛いのはいやだ。  テツが疾風のように視界から消えたのを確認すると、糸が切れたように脚の力が抜けた。視界もぶれている。眩暈だ。まずいと思ったが受け身をとる余力もなくて、そのまま地面に落ちていく、と思った。  白く大きなふわふわが、瑚和の体を受け止めている。 「大丈夫……?」  頭上からチェロのように優しい声がした。視界に相手を映したかったが、眩暈が酷くて目を閉じる。  桜の香りが強く薫った。身を焦がれるような熱い思いが湧いてくる。 「庇ってくれてありがとう……」  声色の優しさと口調が相まって、それは本当に柔らかく弱々しい声に聞こえる。しかし抱かれている腕は力強くて春の日差しのように温かかった。

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