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どうやら気を失ってしまったらしい。
目を開けたら辺りは真っ白で、目の前には空丸がとても不安そうな顔をしてこちらを見ていた。瑚和が目を覚ましたことを確認すると、彼はしょんぼりとしていた大きな耳を立てる。懐こい犬のような顔で花が咲くように笑った。
「大丈夫……ですか」
瑚和はぼーっとしながら瞬きを何度か繰り返す。覚醒し始めるにつれ自分が空丸の膝の上で抱き込まれているのを理解して、顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちに苛まれた。
がば、と起き上がったが、胸が苦しくてつい呻いてしまう。
体が少し熱かった。熱があるみたい。
「もうちょっと動かない方がいい……です。顔色が、すごく悪い。気を失ったの、テツのせいだけじゃないような……体になにか負荷をかけている? ご飯も……食べてない、かな……軽すぎる、ます……」
囁くように彼が言う。
全部図星だ。
よく人を見ている。
テツになにもできなかった弱虫のくせに。
不思議と涙が出そうだった。この人と片時も離れたくないと心が自分に訴えている気がする。気付くと先程あった恥じらいが薄れ、抱かれていることが心地いいとすら思えてきた。
瑚和は微睡む瞳で空丸を見上げた。白く美しい毛並み、おどおどしているが凛々しい顔立ちをしている。耳も口も大きくて少し覗いている犬歯は目を惹くほどに見事だ。瞳は光を反射すると深い森のようなエメラルド色に煌めく。
見た目だけ見るとどこかの国に君臨する王のように迫力があった。
しかし全く、残念なくらい覇気がない。これじゃあ中身のない宝石箱と一緒だ。
「あの……巻き込んでしまってごめん、なさい、先輩。人がいるとは、思わなかった、です……」
たじたじとしながら、瑚和の機嫌を窺うように空丸が言う。
情けないなあ、とつい思ってしまった。
「敬語無理に使わなくていいよ、あと先輩じゃなくて瑚和でいい。君は空丸だからソラね」
みすぼらしくて余計情けなく思えるし、と心の中で続ける。
名前のことは言うつもりがなかったのについ口から出てしまった。変なの。
瑚和の気も知らないで、空丸は距離が縮まったのだと純粋に喜んでいるようだった。ありがとう、とはしゃぐ空丸の向こうでしっぽが嬉しそうにふわふわ揺れて桜の花弁と遊んでいた。
若干可愛いと思ってしまう心を諌める。
「なんでやり返さなかったの?」
瑚和の不意の質問に空丸は少し押し黙ると、大きな口をちょっとばかり開いて言った。
「人を傷つけるの好きじゃない」
「好きじゃないからってやられっぱなしでなんとも思わないわけ? それじゃ本当に弱虫じゃん」
体は動かないのに口は達者だと自分でも思うが、空丸が傷つけられている場面を思い出せば思い出すほど自分の中にふつふつと怒りが込み上げてくるように感じて止まらなかった。
空丸はしゅん、と俯く。自分より二倍弱大きい白亜の狼が縮こまっている様子はとても情けなく見えて目に余った。
「いつも弱虫って言われてるし、正直格付けにも、少しも興味ない……勝手にしてほしい」
「なんていうか、情けないね、ソラ……」
つい本音が漏れて、ごめん、と慌てて取り繕ろう。だけど空丸は困ったように笑うだけでなにも言い返してこなかった。
「これでいいんだ」
彼がぽつりとそう言う。何度も心の中で繰り返している擦り切れた言葉のようだった。
瑚和は煮え切らない思いを抱えてそっと彼から目を逸らす。
頬に彼の鼻梁が擦り寄ってきて少し驚く。
「特にテツからはずっと嫌われてるんだ。家柄が気に食わないみたいで」
「家柄?」
「ちょっと特別な家系で……だからこんな見た目なんだよね。白くて気持ち悪いでしょ。バケモノだって散々馬鹿にされて……おまけに弱虫だからずっといじめられてる」
瑚和は自然と、寄って来た彼の鼻梁を撫でていた。寂しそうに目を細めていた空丸が瑚和を見やって笑む。
「普通に憧れてこの高校に来たけど、蓋を開けたらテツがいるし……僕はやっぱりどこに行ってもはずれ者だ」
どこに行っても外れもの。瑚和の心にすとんと落ちてくる。
親近感に似た強い気持ちが溢れて……空丸の過去にある寂しさや苦しみやもどかしさが、手に取るように分かる気がした。
普通じゃない。たったそれだけがすごく。辛い。
痛いほど分かる。
「だからもう慣れっこ。体も丈夫だから大丈夫。心配してくれてありがとう、瑚和」
不意に名前を呼ばれて顔が熱くなってしまう。
なんだこれ。こんな弱虫に名前を言われたくらいで。
左手を持ち上げて彼の首もとをなんとなく撫でた。彼が目を細める。もっと撫でてというように首もとを曝け出してくる。その無防備な姿が、瑚和に心を許しているように見えてこそばゆい。
「俺もはずれ者」
瑚和は呟いていた。細められていた空丸の瞳がわずかに見開かれる。
「瑚和が? ……こんなに、綺麗……なのに?」
顔色は悪いけど、と彼が付け足す。おかしくて微笑が溢れた。
「母親似なんだ。俺の母親はすごく美人だったみたい。会ったこと、ないんだけどね……女子はうるさいし、男子にはひがまれて……体弱くて、ついていけないし……」
瑚和は去年の今頃を思い出す。入学式早々この容姿のせいで周りから距離を取られてしまって、孤独だった。いじめられているわけではないし、話しかければ快く相手をしてくれる生徒もいたが、最後まで同級の仲間にはなれなかった。
しんみりしてしまった自分を取り繕うように笑う。
「寂しくはないよ。だけど……俺も普通に、生きてみたかった」
もし自分がβだったらという夢物語は、自分を空しくさせるだけだと分かっているのに、気付いたら繰り返している。
不意に彼が鼻先を瑚和の顔に刷り寄せてきた。湿った鼻先がくすぐったい。
桜の花の香りに混じって感じる彼の優しい肌触りは、今まで一度だって吐けなかった弱音をちゃんと受け止めてくれているという安心感に変わる。慰められているような感じがた。
空丸じゃない誰かだったら、すごく癪に障ったと思う。だけど彼は同じ痛みを知っている。だから全然嫌な気持ちにならない。むしろもっと、となんとなく思ってしまいそうになる。
不思議だ。思考より体が彼から離れたくないと訴えている。
少し怖い。
「瑚和に撫でられるの心地いい」
瑚和は目を見開く。胸がきゅ、と林檎を磨いた時のような音を立てた気がした。
俺も君を撫でると気分が落ち着くなんて言えない。
小鳥が一羽飛んできて空丸の肩に止まった。青い美しい小鳥だった。
小鳥、と少し驚いて言うと、空丸はなんでもないように笑って頷くだけだった。
「初めて見た、珍しい……」
青い小鳥はしきりに囀っていた。空丸の耳がひくひくと動く。その耳に少し触りたいと思ってしまった。
「この子は瑚和のことよく知ってるって」
でまかせを言うな、と揶揄しようと思ったが、彼がそんな冗談を言うとも思えない。
「……αは動物の言葉が分かるの?」
まさかねと思ったけれど、空丸は少し困ったように笑って言った。
「いや……僕だけ。なぜか動物にはよく好かれる……」
今日一番腑に落ちた。なるほど、と瑚和が言うと、空丸は珍しがるように目を見開いた。綺麗な緑。
「誰も信じてくれないのに……信じてくれて嬉しい」
空丸は今にも消えそうな透明な笑みを瑚和に向けた。桜と一緒に散って解けてしまいそう。胸が甘く苦しくなる。
「言葉として分かるわけではないんだけど……伝わるというか……感じる、っていうのかな。聞いてもないいろんなことを教えてくれる、例えば……瑚和、今日まだ……花びらしか食べてない?」
青い小鳥と空丸が丸い瞳で瑚和をぱちぱち見つめた。
想像だにしていない言葉でうっかり口ごもる。これでは肯定しているのと変わらない。
恥ずかしい……。
瑚和は少し頬を膨らまし、空丸の肩にちょこんと乗っている小鳥を指差す。
「君……あんまり余計なこと言わないでよ……」
あはは、と空丸は声を出して笑った。
初めて見る仕草に瑚和の胸は不覚にもときめいてしまった。
口をぱくぱくと開けながら、ぐるぐるに乱れる気持ちをどんな言葉で納めればいいのか分からない。
落ち着け。こいつは弱虫、すごく情けない。
助けてあげないと傷つくことをやめない図体のでかいやつ。
そう、俺が助けてあげないと……あれ。
ぎゅう、と不意に抱きすくめられた。変な声が出そうになる。瑚和の華奢な体躯は、抱きしめられるとすっぽりと空丸の体におさまってしまった。
「……なに」
「したくなった」
今日、しかもついさっき出会ったばかりなのにこんなに距離が近い。よく考えたらおかしい。普通はもっと順を追って、だんだん仲良くなっていくものじゃないんだろうか。これは普通じゃない、と思っても、別に全然嫌じゃない。おかしい、でも。
ああそう、そもそも、俺たち普通じゃないんだ。
「帰る、離して」
恥ずかしくてつんけんしていたら、うん、と朗らかに頷いた空丸が優しく瑚和を立たせてくれた。
温もりが離れていって、春のまだ少し冷たい風が瑚和の肌を撫でる。
ちょっと寂しい。
「一緒に帰ってもいい……?」
「……好きにすれば」
「ありがとう! 瑚和!」
しっぽがふわふわ揺れている。犬みたい。
ずいぶん図体がでかくて真っ白な犬に懐かれてしまった。
さっきの会話が流れる川のようにさらさらと脳裏に甦る。
少し黙り込んで、瑚和はおずおずと嬉しそうにしている空丸を見上げた。
「あの、ソラ……」
夕陽のせいでオレンジ色にふわふわと輝く、すぐ目の前の空丸に向かって恥じらうように言う。
「俺は、その……」
エメラルドの瞳がぱちぱちと瑚和を見た。
「ソラの、白い毛並み……綺麗だと思うよ」
「え?」
「だから……化け物とか、気持ち悪いとか、言わないで」
背後で鳥が飛び立つ音がする。
桜の深く濃い香りが瑚和の体を閉じ込めるように纏わり付いた。
いつ詰められたか分からない距離から空丸の尻尾や体全体で、瑚和の体は包み込まれている。
頤をくい、と上げられて真っ直ぐ瞳を射抜かれた。
彼の瞳は扇情的に艶めいてしっとりとしている。少し上がった吐息を零し、困ったように顔を歪めた彼は言った。
「瑚和……僕と、付き合って……!」
あ。
こいつになら食われてもいいや、と、息を吸うように思ってしまった。
羞恥で取った悪態を真に受けてしょんぼりと項垂れる彼はもう、さっきまでの弱虫の人狼だった。
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