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 授業にいつものように集中できない。発情期が近付いているというのもあるのかもしれない。考査も目前に迫っている上に、今朝は立振る舞いをからかわれてしまった。今まで以上に良い成績を取らなければ、という圧力に体調が悲鳴を上げている。  今朝言われた言葉の数々が呪いのように瑚和にまとわりついていた。  当然のように予測できたことだったのに、ゲイと嘲笑されて思いがけない傷を負った気分になる。βはβの異性としか番えないから、同性愛に偏見があるのは当たり前だ。ここはβの社会で、瑚和もβとして受け入れられている。  空丸とは付き合っていない。  だから友だちということになるけれど、それにしては距離が近過ぎたのかもしれない。いや、かもしれないじゃない。近かった。彼の隣にいると俺を好きにして欲しいと思わずにはいられなくなって、すごく身体がふわふわする気持ちに抗えなかった。  これって好きってこと、なのかな?  あの弱虫の、仕返しすらできないソラを? 俺が。  いやない。反語。  ソラは俺と似てるから、同じはずれ者でその気持ちが分かるから、だから親近感があるだけ。  昼休みになり、クラスの生徒は各々に昼食を摂り始める。  瑚和は静かに席を立って教室を出た。  いつもなら空丸が昼食を片手に待ってくれているから、校舎裏の桜の木の下へ引き寄せられるように行くのだけど、今朝クラスメイトに言われたことと彼に少し八つ当たりしてしまったことが引っかかっていた。見えないところで監視されているのではないかという疑心暗鬼も感じる。  空丸に会うことが怖くなって、図書室で暇を潰すことにした。  図書室の扉を開くと周囲はしんと静まり返っていた。  昼休みが始まったばかりで誰もいない。落ち着く……と思ったら、会いたくない奴が一人遠くの方に見えた。茶色の毛並みの憎い奴。  テツは瑚和に気付いた途端一気に距離を詰めて壁に張り付けにした。  人狼だからこそ成せる業だ。  首を掴まれていて、全然穏やかじゃない。  怖い。違う。怖くない。 「あれ? 先輩、一人ですか珍し」  間延びした馬鹿にしたような口調。言葉が妙に引っかかった。  なんでこんなところにいるんだ。  瑚和の気持ちを表情で感じ取ったらしいテツは、大きな口の口角をあげてにたにたと笑う。影になったテツの顔の中心で、鋭い牙と青い瞳がぎらぎらと暴力的に輝いていた。 「ちょっと《狩り》の勉強をしようと思ってですね……今もほら、練習してみましたァ!」  目を逸らしたら噛み殺されそうだった。顔を歪めながらテツを睨みつける。  テツは下品に笑った。下品だったがその笑みは完全に自分が自他ともに認める強者だということを確信しているような自信に満ち溢れている。  突然顎を掴まれた。顔を引き寄せられる。 「仲間が続々と増えてまして、人数が増えると《狩り》の陣形も考える必要がある。ボクは群れの長として、ゴミを導く義務があるんですよねェ」  間の抜けた声を装っていたが目つきは少しも容赦ない。油断したら食うぞ、とギラギラ光る目が言っている。 「つーか簡単に言うとあと一匹『私はあなたの下僕です』って頷けば俺の天下が確定なんすけど……その粗大ゴミのバケモノがまるで頷かないんですよねェ」  掴まれている腕を離そうと両手で押し返すがテツの腕はびくともしなかった。呆気なく手を弾かれて痺れるような痛みが走る。 「せめて変な虫が消えてくれればもっと付け入る隙があるんですけどォ……β風情の百合野郎が調子乗りやがって!」  氷河のように冷たい言葉だった。「変な虫」が自分のことを指しているのがまざまざと伝わる。  テツの鼻に深い皺が刻まれていた。牙が今にも瑚和の首もとに突き刺さりそうで、目を閉じたくなるのをぐっと堪えてなんとかテツを馬鹿にしたように笑う。  あのさあ、といかにも冷静な振りをして言った。 「一年の君には分かんないかもなんだけど……図書室で狩りは、ルール違反ですよ……クソ狼の後輩さん……β風情の先輩に、あんまり手間、かけさせないで欲しいんだけどなあ……!」  テツの青い瞳が怒りでぐぐ、と小さくなる。竦んで足に力が入らなくなった。テツに掴まれている首もとに一気に重みが加わって首が絞まり、苦しさに喘いでいると頭上で甲高いテツの笑い声が響く。 「あァごめんなさい、ボク一年なので分かりませんでしたァ!」  腕が離れ、瑚和は崩れ落ちるように床に座り込んだ。  休む間もなく髪を掴まれて顔を上げさせられる。  痛みに顔が歪むのを隠せない。 「オレが《アルファ》になった時一番にお前を食ってやる……めちゃくちゃにしてやる」  唸るような声で言われて背中が粟立つ。  髪を引っ張っていた手が乱雑に離れていった。  反射で頭を抑えると、静かな声が耳元に入ってくる。  夜の静けさのような残酷な声だった。 「つーかいいんですか、あの白いバケモノと一緒に居なくて」  突然のことでなにを言われているのか分からなかった。 「お前が傍にいないからオレのゴミ共にやられちゃってるかもよォ!」  この時は分からなかったが後でテツの言ってることが分かった。  この一ヶ月、空丸が襲われるところに遭遇しなかったのは、βだと思われている瑚和が傍にいたからだったのだ。  今朝方窓際から見た光景が甦る。あんな数の人狼に集団で襲われていたらいくら丈夫なソラだって……! 彼は絶対に反撃なんてできない。  顔が歪んでいくのが自分でも分かった。テツが嬉しそうに笑う。 「いやあ、良い顔しますねェ先輩! 気分がいいですよォ!」  気付いたら彼の顔面に唾を吐いていた。 「君ほんと性格悪いね」  激しい怒りや呆れは臨界点を超えると冷たく凪ぐのだと知った。 「友達いないでしょ。仕方ないね、かっこ悪いもん。かわいそ」  じゃあね、と言って背中を向けたら頬に一瞬、閃光のように強い熱が走ったのを感じて立ち止まる。 「なに……?」  熱を感じたところに思わず手を当てると、手のひらに赤い液体がついていた。ガラス張りの扉に、瑚和の頬に一筋の傷が走っているのが見えた。  血が、つ、と青白い肌を滑り落ちていく。テツにやられたと気付くのにそう時間はかからなかった。 「次は殺す」  後ろから瑚和と同じように冷たい衝動を抱えて静まり返ったような声が聞こえていた。  振り返ったらテツの姿はもうなくて、代わりに目の前にあった図書室の扉が空いている。  風だけが彼が一瞬で目の前を通り過ぎて出て行ったことを教えてくれた。  ゾッとした……怖い、泣き出したいくらい、本当に殺される。そんな思いが頭を支配しそうになるが、でも今はそんな時ではない。  自分の生死より空丸の安否をただ想った。

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