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 胸が張り裂けそうなほど苦しくなりながら校舎裏に来てみると、ボロ雑巾のようになった空丸が地面に転がっていた。 「ソラ!」  瑚和は悲鳴のような声をあげながら空丸のもとへ駆け寄る。  息はあったが瑚和、と呟いた彼の瞳には力がなく、白くて美しかった毛並みは泥と血で汚れてしまっていた。  涙が出る。  動かない空丸を感じれば感じるほど、まだ出会って少ししか経っていないのに、なんだかいろんなことが思い出されるようだった。 「なんで、こんな……な、にこれ……煙草……?」  空丸の顔にはなにか灰がかかっていたような名残がある。匂いで煙草だと分かった。制服にもついていて、ところどころ白い灰で汚れていた。  じわじわと怒りが込み上げてくる。行き場のない怒りだ。  空丸がこんなに傷ついているのは彼が悪いのではない。分かってる。  ……分かってるのに俺はまた、ソラを責めずにはいられない。 「なんでソラはやり返さないんだよ!」  最低だ。  空丸が笑う。 「好きじゃないから……」 「そんなのはもう甘えだ! 弱虫!」  空丸は困ったように笑って瑚和の顔を見上げる。  その瞬間、覚醒したように目を見開き、超人的な速さで起き上がって瑚和を包みこんだ。 「その傷どうした」 「え?」 「頬の傷だよ……!」  傷だらけの指で顎をくいと上げられる。まじまじと顔を見られて気まずい。  テツにやられた傷のことを言っているのだと気付く。 「もしかして……僕のせい?」  瑚和が黙っていると空丸が震える声でそう言ってエメラルドの瞳を揺らし始めた。 「呼吸も乱れてる……息苦しい? 無理に走ってきてくれたの……?」  耳がぴくぴく動いていた。鼻先が触れる距離まで詰められて、顔がぶわ、と赤くなる。桜の香りはしない。代わりに煙草の灰の匂いがした。 「違う、ソラのせいじゃない、切ったの、ちょっと、枝に引っかかって」  空丸はまるで瑚和の言葉など耳に入っていないようだった。 「ごめん、ごめんね瑚和! また……巻き込んじゃった……!」 「わっ……!」  半分泣いている空丸の声が聞こえたと思った瞬間脚が宙に浮いた。びくと体が反応して跳ねた時には立ち上がった空丸に抱き上げられている。  景色が感じたことのない速さで視界の端を通り過ぎていった。疾風のように速いのに音もなく静かに駆け抜ける空丸は、ごめんね、と何度も震える声で呟いている。  ……どうして。 「手当てしてください!」  保健室に入った途端空丸が叫ぶ。息は少しも上がってない。人を一人抱いているのに、だ。  保健室には誰もいないようだった。それを認めてすぐ空丸は瑚和をベッドにおろして救急箱を持ってくる。 「瑚和、痛い? ごめんね、ごめんね……瑚和の顔に、傷つけちゃった……痕になるかな、ごめんね……!」  空丸は今までにないほどに混乱しているようだった。床に膝をついて瑚和と視線を合わせている瞳がうるうるしている。  瑚和は静かに言った。 「ソラ、大丈夫だから、落ち着いて」 「でも瑚和の顔に血が……!」 「ソラの方がずっと重症なんだよ、分かる?」 「僕はどうでもいいんだよ、丈夫だから……でも瑚和は……!」  瑚和は煙草の灰がつくのも構わず空丸の顔を抱いた。 「ソラ」  鼻梁を優しく撫でる。  空丸の動きが止まった。耳がしゅん、と項垂れている。 「ソラが俺の傷を見てそんなふうに胸を痛めてくれるみたいに、俺だってソラの傷を見て苦しい。どうでもいいなんて言わないで……」  言った傍から苦しくて怖くて悲しくて涙が溢れてくる。  目をごしごし擦った。頬の傷が衣に擦れて痛い。  涙をこらえて、き、と空丸を睨みつけた。 「暴力が嫌なら、なんでさっさと《オメガ》にならないの……!」  酷い扱いを受けるかもしれないけれど、群れの仲間ならそれなりに大切にしてくれるはずだ。こんなに痛めつけられるよりずっといいのに、空丸は曖昧な返事しかしない。 「答えてよ!」  瑚和よりずっと大きな空丸が、瑚和の声にびく、と怯えるように震える。  顔を窺うように目を動かして、彼は小さな声で言った。 「瑚和が傷つくのが、嫌だから……」  ……顔が歪みそうになる。 「テツが《アルファ》になったら、絶対瑚和を傷つける、それが嫌だ」  胸が潰れるほど痛い。  瑚和は首を振った。涙が一筋溢れる。 「灰は……誰にやられたの? αがこんな陰湿なことする?」   αは確かに狼藉だがこんな品のないことをするとは思えない。  言い淀む彼の名を呼び諌める。  びくびくしながら空丸は打ち明けた。 「二年の、女の先輩に……」  ……苦しい。 「瑚和に、まとわりつくな、って……鼻、効かなくしてやる、って……」  全部……俺のせいだ……俺がソラと一緒にいるから。  俺、やっぱ生まれなければよかった。  涙が堰が切れたように流れて止まらなかった。ベッドの上に膝を抱えて踞る。しゃくる度に背中が跳ねた。殺しても殺しても涙が止まらない。 「瑚和……大丈夫? 悲しい……? 痛い……?」  体にふわという優しい触感を感じた。温かい。ソラが心配して包み込んでくれている。  なあ、なんで愛想を尽かさないの。思っていたのと違う、ってそれだけでみんな俺から逃げていったのに。君は俺のせいで散々酷い目に遭っているのに。俺を憎むには十分すぎるのに。  なんでまだ温かさをくれる? 「瑚和、泣かないで……」  ああ、この人は……俺なんかのせいで傷ついてはいけない人だ。 「うんざりだ」  やめよう。  この人に甘えるのは。  顔を上げて空丸を睨みつける。 「俺を格付けの盾に使われるのうんざりなんだけど。βの近くなら安全だもんね、ほんと弱虫。しかも君がしつこいからゲイだって言われたし、怪我もしたしさあ」  震える声と溢れる涙を殺した。  瑚和の言葉に空丸が固まるのが分かる。  今の自分ができる最高の侮蔑顔で空丸を見上げた。 「一番始めに言ったけど、俺は弱虫度胸のないやつは嫌い。テツが《アルファ》になったら非礼を詫びて喜んで仕えようと思ってる。だからさっさと下僕になってよ。あと昼飯正直苦痛だった」  空丸が目を見開いたまま動かない。言葉の刃がぐさぐさ突き刺さっているのが見ただけで分かる。  嘘だよ……!  嘘だよごめん本当は全部嬉しかった全部大切で全部幸せだった。誰にどう言われたって傍にいたい。テツなんか大嫌い。お昼ご飯世界一美味しい。  優しい君が……大好き。 「君の存在が迷惑。君にはβの俺が眩しかったのかもしれないけど、俺はもううんざりだ」  傍にいる空丸を退けてベッドから降りる。 「もう俺の前に現れないで、弱虫。じゃあね」  背中を向けた。空丸はなにも言わない。  彼は優しい。  だから俺の行動を尊重してくれるはずだ。すんなり受け入れて、俺が言った通りにしてくれる。彼は傷つかなくていい。  これでいいんだ。  もう疲れた。生きるのしんどい。最後にテツに唾吐いて殺されよう。  保健室の扉を閉めたらこらえていた涙が溢れてきてしまった。  ソラの傷……手当てできなかった。  ごめんね。

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