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朝起きて一番にすることは、百合の花を一輪摘むこと。
寝室の花瓶から花を捥いで食む。
父に習慣づけられた。物心ついた頃からそうやっている。
αの社会のΩは抑制剤というものを持っているらしい。その成分が百合由来だということを見つけてから、毎日最低でも一輪食べるように言われてきた。
百合には毒がある。空丸に指摘されたように、そのことと瑚和の体が弱いのとが無関係とは思えなかった。食べても発情期はちゃんとやってくるけど、この行為は最早お守りやおまじないのようになっていた。
四月に入って発情期が考査と被ることとαが入学してきたことの不安から、食べる量が一輪から三輪に増えた。
いつも以上に体が上手く言うことを聞かないのはそれが原因かもしれない。
でも手放せなかった。
広い家で朝の支度をし、玄関のドアを開けても誰もいない。
青い小鳥を一羽肩に乗せた真っ白な人狼がしっぽと耳をぴん、と立てて自分を笑顔で迎えてくれるのを、期待していなかったとは言わない。
いるはずない。
数日前に突っぱねたんだから。
鞄から適当に参考書を引っ張りだして、見ながら高校へ向かって歩いた。
あれから昼休みに桜の木の下に行くのをやめた。クラスは相変わらず居心地が悪いが、昼休みにも一人で勉強をしているという光景に付け入る隙はなかったようで、あの日から揶揄されることはなくなっている。
心が静かだった。
まるで夜明け前の世界のように。
夜更けまであった鋭い冷たさと深い悲しさを、ぎゅっと胸にしまって昇る朝を待つ。
一人で。毎日。
あと何度繰り返せば終わるのかと思いながら。
いつもこうだったのに。
なんでこんなに苦しい。
放課後になってクラスメイトは続々と下校していった。考査前は部活もないし各々勉強するんだろう。
みてくれだけでも装っていたけれど、どうせ近いうちにテツに食われるなら考査を受けられなくてもなにも問題ない。
もういいや。
自分が死ぬ時は空丸が《オメガ》になった時だ。
まだなっていないのか。なにやってるんだよ。
もうあれ以上彼が傷つく姿を見たくない。
ぱったり人狼とも関わりがなくなってしまった。
いいんだこれで。
誰もいないなら平気かな、と、瑚和は荷物をまとめて校舎裏へ脚を運んだ。
彼の匂いが、とても恋しかった。
あんなに麗しく綻んでいた桜の花はすっかり散ってしまった。今は生き生きとした葉が日を浴びて心地良さそうに風に揺れているだけ。
木の下には枯れる花びらが無惨に散っている。
その木の下に空丸はいない。
木の幹に寄りかかって膝を抱えた。体がかじかむ。べつに寒いわけじゃないのに。
胸が苦しい。
全部散ってしまったのに。なんだか桜の香りがする気がした。
桜の香りは彼の匂い。
匂いを思い出すと引きずられるように彼の体温を思い出す。ふわふわの白い毛並みが優しく抱いてくれる。力強い腕と温かさ……。少しも拒絶しないで、微笑んで囁いてくれた。
……声が。
『……瑚和』。
全身の血管が千切れたように、体に一気に熱が走る。
「っ、あ……!」
頭が酩酊した。
崩れるように倒れる。熱と比例して力が入らなくなっていった。
呼吸が速くなり抗えない欲に体中が支配されていく。
発情期が来てしまった。こんなところで、数日早い。
「う、っ……ぐ……」
瑚和は力のない目を潤ませながら、上気した頬に伝う汗を拭った。
口で息をする。木の幹にしがみついて、ゆっくりと立ち上がった。
帰らなきゃ。下肢に力が入るうちに。
弱気になるな。ここで倒れたって誰も助けてくれない。
一人でなんとかするしかない。
今までもそうだった、これからもそう。
一歩、踏み出した、瞬間。
瑚和の視界いっぱいに空が広がった。
押し倒されたと気付いた時には、首を掴まれて品定めするようにテツに睨まれている。
さっきまで視界にいなかったのに。凶暴な人狼の俊敏さに震えた。
ああ、ソラは《オメガ》になったのか。
苦しみに喘ぐ中で思った。
ソラがもう傷つかないで済む、と。
しかしテツの様子がおかしい。いつもの憎まれ口が聞こえない。霞む視界でテツを見やると、彼はなにかに支配されたように、瑚和を熱のこもった瞳で射抜いていた。
手が伸びてくる。その手は瑚和の制服を毟り取ろうとしていた。
「な、なに……っ、ぁ……う……」
脇腹に触れられ、瑚和の体はぞくぞくと粟立つ。それは逃れられない甘い疼きの予兆だった。
下半身がじんわりと蜜液で滲むのが感じられた。尚更下肢の力が失せていく。
制止するように腕を伸ばしたが無駄だった。呆気なく上半身を露わにされる。
「や、め、……て、あっ……」
涙目になりながら訴えたがテツの耳には少しも届いていないようだった。
知的な会話が成立しない。
これじゃまるで本物の獣みたいだ……。
テツは瑚和の腹から首筋にかけてを長い舌でなめ上げた。ざらざらしている人狼の舌に、瑚和は思わず熱っぽい声を上げてしまう。熱に拍車がかかった。
いつの間にかテツ以外に何人もの人狼が立っていて瑚和を見下ろしている。
彼らはテツに加勢するように瑚和に襲いかかりそうな勢いだった。
死とは違う恐怖に体がかじかんでいく。
下衣に手を伸ばされた。
「ゃ、め、て……っ……やだ、っ……やめ……ッ!」
力なく声を漏らした瞬間、テツの重みが体から消えた。
彼が吹っ飛ばされたのが瑚和の視界になんとなく見えた。
「触るな」
その声は確かに聞き慣れたものだった。しかし想像もできないくらいの迫力がある。いつもなら優しいチェロのような音色が今は残酷なほど冷たく痺れるように響いた。
誰もが萎縮するような荘厳とした不思議な力のこもっている声だった。
弾みで投げ出された瑚和は、不安定な視界で目の前に現れた真っ白な人狼を見上げる。
涙の粒が視界を汚した。
「ソ、ラ……」
向こうでテツが受け身を取って起き上がっている。ガルル、と獣のような唸り声を上げ、空丸に襲いかかろうとしていた。
ソラはまだ《オメガ》じゃない……?
酩酊した思考で逃げて、と瑚和は空丸に祈る。
勢いよく二人が衝突した。
校舎の方へ血を吐きながら殴り飛ばされていったのはテツの方だった。
「瑚和に触るな」
テツは空丸の拳一つでもう動かない。
圧倒的な力の差を見せつけられ、周囲にいた人狼たちがざわめき立っている。
敵意を露わにした空丸は、周囲を取り巻く人狼に威嚇する。その唸りは誰をも服従させてしまうような魔法のような圧があった。この場にいる誰もが空丸を畏怖し、全員が尻込む。
「消えろ」
空丸が牙を見せて凄むと、一瞬で誰もいなくなってしまった。
特別な家系。彼はそう言って自分のことをけなしてみせた。
そんなレベルじゃない。
誰もこの人狼には敵わないという絶望が、残り香になって瑚和にも伝わる。
白い毛並みは光を浴びて、水面を反射するように神々しく輝いていた。たくましい体躯と相貌が鷹揚と瑚和を見下ろしている。
こんな彼を誰が弱虫と言うだろう。
瑚和の腹の中を甘い疼きが暴れ狂った。切ないほどに収縮を繰り返し、下着はしとどに濡れそぼっている。
重力に張り付けにされたように地面に突っ伏したまま少しも動けない瑚和を、空丸は優しく抱き上げた。
「……ぁあ、っ……」
彼の毛並みに触れた瞬間、体に電撃が走ったかのように快感が産まれて瑚和の体を駆け巡る。
熱に侵された瞳から、涙がぼろぼろ溢れていった。口端からは唾液がつ、と零れ、上気した頬は薔薇が咲いたように紅く色づいている。
彼から優しい陽だまりにいるようなどうしようもなく惹かれる桜の香りを強く感じた。
体が溶けてしまいそうに茹だっている。悩ましげに喘ぎながら、瑚和は目を閉じた。
頭に声が響く。抗いようのない声だった。
このαが、欲しい……。
「っ、うあ、は、はぁ……っ、助け、て……っ……」
空丸は熱に侵されている瑚和の体に、優しく脱がされた服をかけてくれる。
「瑚和……!」
その困り顔は先ほど言葉だけでαを威圧した人狼とは思えないほどに身近で愛くるしい。
ソラ……。
「あ、つ、い……苦し、……っ、ソ、ラ……ソラぁ……っ!」
空丸は瑚和の喘ぎに答えるように、鼻梁を首元に近づける。
「あぅ、うっ……ん」
触れた鼻先に瑚和の体はびく、と跳ねた。
「……瑚和の家に行ってもいい?」
耳を侵されるような熱っぽい彼の囁く言葉が寄り添うように入ってくる。
ぞくぞくとほとばしる快楽に目を閉じ、涙を零して耐えながら必死で頷くと、すぐに風を切る音が聞こえた。
こんなに欲にまみれた発情は初めてで、瑚和自身も混乱を隠せない。
いつもはどんなに苦しくてもなんとか自力で歩くことはできたし、期間が通り過ぎるまで眠っていればそのうち通り過ぎていっていたのに。
今は胸にあるのは苦しみ以上の空丸に犯されたい、支配されたいというただそれだけの純粋で泣きたくなるほど卑しい淫欲だった。
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