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1 夏央 十二歳

 十一月中旬の小春日和の休日、日南(ひなみ)夏央(なつお)は自覚がないまま、孤独な十二回目の誕生日を迎えた。  夏央の両親は健在だ。しかし、二人共忙しくしているらしく、あまり息子を構うことをしない親達だった。  夏央の父は曽祖父の代から続く、小さな鉄工所を経営している。経営しているといっても、職人気質な彼は、自らも現場で作業する事が多く、早朝から深夜まで鉄工所に入り浸りで、休日すらも、あまり家にいることはなかった。  そして、四十代前半の父より、四つ程若い母は、鉄工所の副社長という肩書きを持っていたが、実質は何の仕事もせず、習い事や友人達との付き合いを優先して、家を空けている時が多かった。 「本当に夏央は、手の掛からない子供で助かるわ…。」  いつも繰り返される母の言葉は、呪詛のように、幼い夏央の体に沁み込んでいき、一人で何でもしようとする子供に育った。  夏央は愛情を肌で感じることを知らない。しかし彼にとっては、それが普通だったので、寂しさを感じる心は、幼少の頃に封印されてしまったようだった。  だからその日、小学生最後の誕生日も、誰もいない家でレトルト食品を温めて、一人静かに食べ始める自分を、夏央は可哀想だとは思わなかった。  夏央は学校では影響力のある生徒の一人だった。  背も高い方で、容姿端麗、成績優秀として周囲からの評価は高く、親に甘えず、自己処理能力に長けた夏央は、級友達にはクールだと称賛されていた。  親に甘えるのは恥ずかしいとする考えも周囲に浸透し、誰も日南家のネグレクトといえる環境を、指摘する者はいなかった。  そんな夏央にも、弱い心は存在した。  実は夏央は怖がりなのだ。住んでいる家が築四十年程の古い日本家屋の所為か、時折、何かが潜んでいるような妄想が生じて、眠れなくなってしまう。  夜、暗闇へ移動しなければならない時は、慌てて電気を点けた。何者も存在していないと分かるまで、嫌な緊張感に囚われてしまうのだ。  幼い頃、何か怖い夢を見たのが切っ掛けだったのかも知れない。電気を消して、布団に入る時間が、一番覚悟を要してしまう。  電気を消すと、見えない何かが、こちらを窺っているような気がする。  それは人ではない何か。――  そう想像するだけで、背筋が凍り、目を閉じることが出来なくなってしまう。  それでも、両親に助けを求めるなんて考えは、夏央の脳裏を過りもしない。  灯りさえあれば、恐怖を緩和することが出来るのだと、一人で解決策を考え、こっそり電気を点けたまま眠ったら、父親にこっぴどく叱られてしまった。  それからは電池式の小さなライトを、百円ショップで購入して来て、布団に引き入れたその灯りで、怖さを忍んで眠りに就くようになった。  十二月に入って間もない頃だった。  父が経営する鉄工所の銀行口座から、従業員三十二名分の、冬のボーナスと給料分の金が全てなくなるという事件が起きた。  警察沙汰になり掛けた矢先、何故か被害届を取り下げた父は、事件の前夜から姿を消した、夏央の母親が犯人だと確信しているようだった。  事件から三日程経った夕方、珍しく早く帰って来た父親が、客間へ来るように夏央を呼んだ。  客間は日南家唯一の洋室で、来客応対用に数年前に増築されたそこには、まだ真新しい応接セットが置かれている。  滅多に此処に入る事のない夏央にとっては、馴染みのない部屋だった。  変な緊張感を伴いつつ、夏央が部屋に入ると、父は自身と対面するソファに座るように促した。  元々神経質な見た目の父の顔は、いつも以上に厳めしい面構えになっており、顔色も少し悪い。しかし夏央は自身がされなかったように、父を心配する気配を見せなかった。 「紅茶を淹れてやった。飲みなさい。」  父の強制的な言葉に、多少逆らいたかった夏央だったが、来客用のティーセットを暫く見つめてから、それを口にした。飲みなれない所為か、紅茶は苦く感じられ、夏央は僅かに表情を歪めた。  父も紅茶を啜り、そこから沈黙が続いた。仕方なく夏央も、少しずつ紅茶を口に運ぶのを繰り返した。  半分以上、ティーカップの中身がなくなった頃、父が切り出す。 「お前に重要な話がある…。」  夏央は動きを止め、口を開かずに父の次の言葉を待った。 「お前の母親が持ち逃げした金は、お前に返して貰うことになったんだ。」  父の言葉は夏央にとって理解し難いものだった。口座から消えた金は一千万以上という額で、そんな大金を小学校も卒業していない子供に、どうやって返せというのだろうか。 「それは…どういう事ですか?」  夏央が問うと、父は目を逸らして立ち上がり、暗い窓の傍へ移動した。 「それは、これから来る人が説明してくれる。」  混乱し始めた夏央は、思わず父のもとへ駆け寄り、生まれて初めて縋り付くという事をした。 「僕を誰かに売ったの!?」  訊きながら、夏央は否定の言葉を待った。しかし、それは得られる事はなかった。 「騒ぐんじゃない!…いいか、夏央。此処にお前の居場所はもう無いんだ。」  間近で父親に見据えられると、夏央は言葉を失った。父の瞳には妻への怒りしかなく、その矛先が、自分へ向けられたと感じたからだった。  その時、玄関のインターホンが鳴った。  父は嫌がる夏央を玄関の外まで引き摺り出すと、自宅前に停められた黒塗りの高級車の前に押し出した。  運転席から、グレーの髪と口髭が特徴的な初老の紳士風の男性が降りて来て、丁寧に挨拶をする。その後、優しい笑顔で夏央に手を差し伸べた。 「寒いでしょう?早く中へ…。」  寒空の下、薄手のセーターとジーンズ姿の夏央を気遣い、初老の男性は後部座席へと誘った。 「嫌です…!」  抵抗を見せた夏央だったが、夏央の意識は、そこで何故か途切れてしまった。

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