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2 槐の館

 夏央(なつお)はうっすらと目を覚ました。  視界がはっきりすると、先ず、見慣れぬ高い天井と、縁で光っている間接照明が認識できた。  体を起こし、少しでも状況を把握しようとする。  周囲を見渡すと、そこはアンティークなホテルのロビーといった雰囲気で、夏央が横たわっていたのは、高級布張りの大きなソファだった。  夏央は意識を失う前の事を思い出すと、父の淹れた紅茶に、何か薬物が入れられていたのだろう、と推測した。強く抵抗されることを懸念しての事だったのだろう。  その所為で結局、迎えの運転手からは何の説明も聞けず、どれくらいの距離を車で走って来たのかも分からず仕舞いだ。  夏央は一際大きな両開きの扉に視線を走らせた。それは玄関の扉のようで、誰もいない今なら、難なくそこから逃げ出せそうだった。  後先を考える隙もなく、夏央が扉へ近付いて行くと、背後から声を掛けられる。 「何処へ行くのですか?」  ぎくりとして夏央が振り返ると、少し光沢のある、薄いグレーのスーツを着た細身の青年が、奥の扉の前に立っていた。 「勝手に出ていかれると、困りますよ。…夏央君、こっちへ来て。」  青年は夏央が横たわっていたソファに戻るように示唆した。  優しい声のトーンの所為なのか、夏央は思わずそれに従ってしまった。  夏央が腰を下ろすと、青年もすぐ横に座った。 「僕は蔵木渡(くらきど)(えんじゅ)。この館の主です。」  そう名乗った彼と、夏央は至近距離で目を合わせ、ドキリとさせられる。夏央はシンプルに彼の事を綺麗な人だと思った。後ろで一つに纏められた、彼の艶やかな黒髪は腰近くまであり、それが違和感とならないのは彼が中性的な顔立ちをしているからなのだろう。 ――館の主。  まだ二十代半ばに見えるのに、彼がこのホテルの経営者なのだろうか、と夏央は半信半疑で彼を見る。そんな夏央に、彼は更に信じられない内容を彼は告げて来た。 「日南(ひなみ)夏央君、…君は今日から僕の所有物となりました。」  所有物という言葉に、夏央はただショックを受ける。やはり自分はお金と引き換えに、ここへ連れて来られたのだと実感した。 「…所有…物?お金を返し終わるまで、ここで働く、…という事じゃないんですか?」  その問に、槐は優しく微笑み、夏央の頭を撫で始めた。 「言い方が悪かったね。…そんなに震えないで。絶対に君を傷つけたりはしないって誓うから。食事も寝るところも最上級のものを提供させて貰うよ。学校にも行かせてあげるし、勉強も見てあげる。」  夏央は信じられず、泣きたくなるのを必死で堪えた。 「僕は…使用人になるんじゃないんですか?」 「小さな君を使用人にしたりはしないよ。」 「でも、僕は売られたんでしょう?」  父との遣り取りを思い出した夏央は、思わず涙を零してしまった。槐がハンカチを取り出し、その涙を拭ってくれる。 「君には価値があるから、お金を出したんだよ。」 「僕の…価値…?」 「そう。ここで君はね…。いや、今はいいか。先ずはゆっくりと、ここの生活に慣れていってほしいな。」  槐は何か重要な事を口に仕掛けたが、その内容をうやむやにした。 「あの、もし、…父の気が変わって、僕を迎えに来てくれたら、僕を帰してくれますか?」  夏央は縋るような思いを、口に出してみた。槐の瞳が僅かに揺れ動く。 「いいよ。…ただ、君のお父様は今、とても冷静な状態ではないから、連絡したとしても、迎えに来てはくれないとは思うけどね。」  夏央は父の怒りを湛えた瞳を思い出して、沈んだ面持ちになった。  それでも、やはり腑に落ちない部分は消えない。滅多にに構ってくれることはなかった父だったが、必要な物、欲しい物はそれなりに買い与えてくれたのは、母よりも父の方だったし、将来についても真剣に考えてくれていた筈だった。 「父は…どうして、僕を売るなんて事、したんだろう…?」  ぽつりと出てしまった夏央の疑問に、槐が口を開く。 「詳しくは聞いてないけど、君へのお母さんへの、あてつけって感じがしたかな…?」 ――そんな理由で、僕を手放したの…?  夏央は自分が人ではなく、本当に物になってしまった気がした。 「お父様から連絡があったら、ちゃんと教えてあげるからね。」  そして槐は返事を待たずに、夏央の為に用意した部屋へ案内すると言って立ち上がった。  今のところ、帰る術はないと諦めた様子の夏央は、その後に続いた。  緩やかに湾曲した階段を上がり、二階へ移動すると、長い廊下を突き当りまで進んで、槐は一番奥の扉に鍵を差し込んで開けた。  そこが部屋なのだと思ったら、目の前には真っ直ぐに伸びた階段があった。 「お客様が勝手に入らないように、鍵を掛けてるんだよ。」  槐が独り言のように説明をして、三階へ夏央を誘った。お客様という言葉に、夏央はやはりここはホテルなのだと、再び確信する。ただ、今は他に人の気配は感じられなかった。  一歩踏み入れる寸前に、暗い廊下が一気に明るくなる。灯りはセンサー式のようで、夏央の天敵である暗闇を自動で追い払うそのシステムは、彼に安堵の吐息を洩れさせた。  三階廊下の中央辺りに位置する部屋の扉に、目印のようにドライフラワーのリースが飾られていた。  そこが夏央の部屋だと槐は言い、扉を開けた。  中へ入ると、先ず目に入ったのは天蓋付きのセミダブルのベッドだった。今まで和室で布団を敷いて寝ていた夏央にとって、それは初めて触れるものだった。  ヘーゼルナッツを基調とした色合いの部屋は広く、新品の学習机やウォークインクローゼットには、必要な物は全て揃っているようだった。  トイレや浴室の場所を教えて貰い、就寝時間が近付くと、途端に夏央は不安になり始めた。  部屋の灯りを消さずベッドに入り、そのまま寝た振りをしていると、途中、確認しに来た槐が、電気を消して出て行ってしまった。  電気を点ける勇気もなく、夏央は暗闇を怖れたまま、長い間眠りに就けず、まんじりともせずに朝を迎えた。 「昨夜はあまり眠れなかったみたいだね?」  朝、起こしに来てくれた槐が、心配そうに夏央の顔を覗き込んだ。 「…暗闇がこ…嫌いで。…電気を点けたまま眠ったら駄目ですか?」  怖いという言葉を呑み込んで、夏央は我儘を言ってみた。両親相手には言えなかった言葉だった。 「そう、暗闇がね…。これ、気付かなかった?光の調節、好きなようにしていいよ。」  槐は軽く首を傾げた後、サイドボード上にあったLEDライトのリモコンを手渡した。 「好きなように…していいんだ。」  夏央は小さく口の中で呟いた。きっと、もう夜は怖くないだろう。  その日の夜、夏央がうとうとし始めた頃、槐がベッドの中に入って来た。横向きで眠る夏央の背後にぴったりとくっつかれる。  突然の事に夏央は息を呑んだ。 「く…蔵木渡様…?」  この館に数人いる使用人達のように、夏央が名字に様付けで呼ぶと、背後で槐はクスリと笑ったようだった。 「槐って呼んでくれていいよ。」  槐の為に場所を少し譲ろうとした夏央を、槐が逆に背後から抱き締め、引き寄せる。 「夏央君、温かいね…。」 「槐さん…も。」  夏央は初めての経験に心を打たれる。  他人と同じ部屋で寝るのは修学旅行以来だったが、布団の中で人の体温を感じたのは初めての事だった。 「今日は一緒に眠ってもいい…?」  槐は甘えた風な訊き方をした。夏央は何処か擽ったいような感覚に襲われる。 「はい…。」 「…電気、消しても大丈夫?」  夏央は戸惑いつつも承諾した。  緊張感はやがて安心感に変わり、夏央はいつの間にか眠りに落ちていた。  その夜以来、槐は夏央のベッドで一緒に寝るようになった。  いつしかそれが当たり前になり、夏央は広いベッドの中央ではなく、端に寄って槐を待つようになった。

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