お披露目会、最後の客が帰って、自室に戻った夏央(なつお)は、もやもやした気持ちが解消出来ず、絢斗(あやと)の部屋へ行ってみる事にした。 　時刻は夜、十一時近いが、まだ大丈夫だろうと思い、その確信のまま扉をノックすると、絢斗が笑顔で出迎えてくれた。 「何、お披露目会の報告？」 「そんなとこ…。」 　夏央は部屋に通された。 　絢斗の部屋のレイアウトは、殆ど夏央の部屋と変わらないが、映画関連の私物が多く置かれ、プロジェクターと大きなスクリーンが設置されていた。 　これから何か鑑賞しようとしていたのかも知れない。 「なんか、へこんでる？」 　絢斗の誘導で、二人は並んでベッドの端に座った。 「ちょとだけね…。絢斗君は今日は大丈夫だった？」 　夏央の後に指名された絢斗が、連日、早急に体を求められるという流れに、頭を抱えていた事を危惧しての問だった。 「今日はＨな仕事は無し。水瓶座さんのディナーに付き合って、天秤座さんに至っては、キスしただけで解放してくれた。」 　絢斗は水瓶座さんと言って五本の指を立て、天秤座さんと言って三本の指を立てた。 　この館の少年に会うだけで三万円、一時間拘束するだけでセックスをしなくても、五万円の料金が発生する。指五本プラス三本、つまり八万円が今日の絢斗の稼ぎという事だった。 「え？…絢斗君もキスしたの？」 　夏央が驚いた顔で訊くと、絢斗も更に驚いた顔をした。 「え？まさか、夏央も…!?」 　夏央は慌てて否定する。 「僕じゃなくて槐(えんじゅ)さん。天秤座さんにせがまれてさ…。それ見たのが、何気に大ダメージだった。」 　言いながら、夏央は自身のもやもやの原因がこれだったのだと、改めて気付いた。 「マジか…。」 　絢斗も夏央同様に表情を歪めたが、一瞬で、その表情を輝かせる。 「あれ？でも、それって俺と槐さん、間接キスになってないか？」 「天秤座さんを介しての間接キスって…どうなの？」 　絢斗の発想に、夏央は否定的だった。 「…っていうか、絢斗君も…キス、してるんだ。」 　再び夏央は沈んだ面持ちになった。 「そりゃあね。キス以上の事、メインにしてるワケだし…。」 「嫌じゃないの？」 「キスが？嫌じゃないよ。みんな、清潔感ある人ばかりだし。…何より、愛して貰ってるから。」 「愛…。」 　この先の人生において、愛を感じられるか分からないと思っていた夏央は、漠然と不安を抱いた。 　そんな夏央の想いには気付かず、絢斗は常連客について語り出す。 「…あの四人の常連客の人達はね、みんな社会的地位が高い人ばかりなんだ。ここで支払われる金額は割高だから、相当、お金に余裕がないと、頻繁には来れないからね。…あの人達、急用とかない限り、毎週、来るんだよ。」 　絢斗は不意に真顔を作った。 「ここだけの話、俺は四人の素性を突き止めてる。蠍座さんは弁護士で、牡羊座さんは医者って、二人は職業を隠してないんだけど、それで直ぐ特定できたよ。天秤座さんは隠してるつもりでいるけど、長年、議員を務めている人。この三人は、ネットで調べれば、簡単に見つけられる。…苦労したのは水瓶座さんかな。彼だけは偶然、見つけた感じ…。…こういう仕事だし、切り札的なものは持っておくべきだろう？」 「脅しの材料にする…とか？」 「人聞き悪いな。…でもさ、ここで働いてた奴らは皆、客のビジネス・パートナーになったり、会社を一つ、貰った奴なんかも居るんだって。」 　夏央の見解を否定するでもなく、絢斗は笑顔を戻した。 「まあ、ここで働いてたら簡単に貯金は増えるし、そんなの無くても、いいのかも知れないけど、コネって大事だろ？…夏央はこの仕事、続けられるかは分からないけど、取り敢えず、この三日間分の収入、二十五万は貰える筈だよ。」 　考えてもいなかった金額を提示され、夏央は頭(かぶり)を振った。 「それはないよ。…僕は槐さんにお金を返さなきゃいけないから。」 「いや、貰えるよ。俺の前に働いてた、駿矢(しゅんや)君っていう、彼もさ…、槐さんに借金があるって言ってた。でも結局、槐さんはお金、受け取らなかったらしい。駿矢君が稼いだ分は、まるっと彼の物になったって話だよ。…それに、ここの生活費や学費なんか考えたら、俺だって一円も返してない。」 「…そうなんだ。」 　前例を上げられたが、夏央は今ひとつ、納得出来なかった。 「槐さん、お金には困ってなさそうだよな…。」 　独り言のように呟かれた絢斗の言葉に、夏央は槐の肌にあった、ロープで縛られたような跡を思い出し、口を噤んだ。 　絢斗にも知られていない謎のクラブを、槐が経営しているという事が、思い出されたからだった。 　絢斗の部屋から戻ると、少しだけ気持ちが落ち着いたような夏央は、二階の蔵書の中から持って来ていた、一冊の絵本を手に取った。 　ベッドに座り、絵本の頁を捲る。 　古びてはいるが、薄い水彩の、美しい絵本だ。 　そのタイトルは『幸福な王子』――葦(あし)に恋したツバメが仲間とはぐれ、亡き王子の魂が宿る彫像に出会い、動けない彼の代わりに、貧しい人々に王子の彫像を装飾する物を取って届ける話しだ。 　冬になる頃には王子の彫像は見すぼらしくなり、エジプトに帰るタイミングを失ってしまったツバメは、寒さに凍えながら息を引き取る。そして、それに気付いた王子の鉛の心臓は割れ、彫像とツバメの遺体は、街の人々の手によって捨てられてしまう。 　人知れず行われた自己犠牲の話を、美しく描いた作品だ。 　夜の十二時を過ぎた頃、槐がノックをせずに入って来た。 　いつもなら灯りを点けっぱなしで寝ている夏央が、今日は起きていたので、槐は少し驚いた顔をしていた。 「春休みだからって、夜更かしはダメだよ。」 「槐さんを、待ってたから…。」 　夏央は思わず絵本を閉じると、槐がその表紙に目を留めた。 「その本…。」 「あの、これ、…勝手に持って来て、すみません。」 「いいよ。好きなだけ、勝手にどうぞ。」 　夏央が素直に謝ると、槐は直ぐに了承してくれた。 「有難うございます。」 　槐は夏央より先に、布団の中に潜り込んだ。そして物語の結末に触れる。 「それ、悲しい話だけど、一応、ハッピーエンドなんだよね。あ、ネタバレになっちゃう？」 　夏央は首を横に振った。 「いえ。小さい頃に一度、読んでますし、牡羊座さんに朗読させられたので、大丈夫です。」 　夏央は本を机に置いて来ると、槐の横たわるベッドに入った。 「そう。…死んでからの救済って、君はどう思った？」 　物語の最後で、捨てられた王子の鉛の心臓とツバメの遺体は、天使によって楽園へ運ばれる。そこで末永く、王子とツバメは幸せに暮らすのだ。 「…僕は死んでからのハッピーエンドなんて、納得出来ませんでした。」 　夏央は正直な感想を洩らした。 「…僕は信じたい。死んでからのハッピーエンドがあるって事を…。愛する人と死後も…死後だからこそ、一緒に居たいって思う。」 　いつもより、切実な槐の声だった。その言葉の後、槐によって電気が消されてしまったが、夏央は槐が涙を零したような気がした。 　軽く鼻を啜った音の後、槐が再び問う。 「夏央君は…ツバメと王子なら、どっちになりたい？」 　考えを巡らせた夏央は、困ったように答える。 「…僕は、どっちにもなれない…です。」 　自己犠牲なんて、自ら望んで行いたくないし、頼まれたとしても、死ぬまでは続けられないと夏央は思う。 「僕はツバメがいい。…先に死なれるのは辛いから、先に死ねるツバメがいい。」 　槐が違った着眼点で自答すると、そこで話は途切れた。 　夏央は以前、絢斗に見せられた、槐の写真を思い出していた。 　その写真の槐の横には、体格のいい外国人風の男性がいた。その彼が槐の愛する人で、その人はもう亡くなってしまったのではないかと推測する。訊いてみたかったが、勝手に見てしまった写真なので、口にする事は出来なかった。 　結局、夏央は槐に何も訊けず、その日は眠りに落ちてしまった。