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17.5 ヘドニアの檻

 その日も、いつもと同じ朝を迎えたと思っていた。  夏央(なつお)を学校へ送り出した(えんじゅ)は、館の地下へと階段を降りて行く。目的の部屋の前まで来ると、静かに扉を開けた。  明りの灯った地下通路から一転して、その部屋は闇に包まれている。  槐は見当が付いているのか、暗闇の中、手探りもなく進み、椅子の背凭れに手を掛けた。そして、それに腰を下ろす。 「え…ん…じゅ…。」  槐の近くで、弱々しくしゃがれた男の声がした。 「ご免なさい。起こしてしまいましたね。」  ハッとした槐は、声のする方へ身を傾けた。 「今日…こそ、君に…お別れを言おうと…思ってね…。」 「僕達に別れなんて…ないですよ。…ずっと前から言ってるでしょ。」 「でも…もう…流石に、…限界が近い…みたいだ。」 「血液なら、沢山あるから、今持ってきます!」 「行くな…。」  席を立とうとした槐を声が止めた。 「無駄だ…。本当に…もう、限界なんだ…。」 「(たつる)さん…。」  消え入りそうな魂の気配に気付いた槐は、その場に力なく(とど)まった。  槐が生まれた蔵木渡(くらきど)家には、カイザーという特殊な体質の異国の男が存在していた。人の血を摂取しなければ生きていけないというカイザーを、蔵木渡家の当主は代々守り続けているという。  そのカイザーには樹という息子がいて、槐にとって五つ上の彼は、兄のような存在だった。  樹は日本人の血を引いていたが、それでも日本人離れした容姿をしており、同世代の子よりも大人びて見える少年だった。読書好きで、暇さえあれば本を読んでいるような彼だったが、槐が構ってほしそうにしていると、庭に出て一緒に遊んでくれた。  それがいつの日からか、槐の中で恋心へと変化した。切っ掛けは、よく覚えていない。    槐は幼いながらも性別に囚われ、決して口にしてはいけない感情だと、表に出さないよう、心の奥底に閉じ込めた。  しかし、その秘密の砦は、事故による槐の両親の他界、その彼らの多額の借金の発覚という、不幸な出来事の積み重なりで、決壊する事となった。  債権者の手配で身売りする事になった槐は、樹に縋り付き、自分の初めての相手になってくれと、頼み込んだんだのだった。  十八歳と十三歳の無知な行為は、拙くて辛いものとなったが、甘い口付けの瞬間だけは、深く優しい記憶として二人の中に残った。 「君を守れなくて、本当にご免!」  樹は土下座をし、泣いて槐に謝ったが、槐は優しく彼を抱き締めて、それを許した。   悪い大人達は、そんな槐を弄ぶ為に彼を買った。  客の中には、金を払っているという意識からか、か弱い者を見ると嗜虐心を煽られる気質なのか、手酷く扱う者もいた。それでも最終的に、槐は達することを余儀なくされるのだった。  客達の方が経験値が上なだけに、樹と行った時よりも、遥かに感じさせられ、何度も精を吐かされた。  中イキを覚えてからは、怯えもなくなり、誰のものも抵抗なく咥えこむ体になった。 「汚れたって…こういう事?…僕は汚れてしまったの?」  薄っすらと罪悪感を滲ませていく槐を、樹は力強く否定した。 「槐は何をしても、…何をされたとしても、綺麗なままだよ。」  その言葉を信じ、胸に刻むと、槐はもう悩まなくなった。  この行為で人が守れるのなら、道徳心など、必要ないのだと思い込む。  それから年月が経ち、樹がカイザーの故郷の者に暗殺されるという事件が起こった。  槐が男娼を辞め、樹と夫婦のような関係に落ち着いていた頃に起きた悲劇だった。  暗殺は未遂に終わったが、樹は生死を彷徨うほどの致命傷を負い、三十手前とは思えないほどに老化してしまった。  通常なら即死であった筈だが、カイザーの特殊な、不死に近い遺伝子が働き、その事態を招いてしまったのだという。  それを機に、樹は大量の血液を必要とする生き物になってしまった。  樹と死にたがった槐を、カイザーが血で支配して死なせなかった為に、樹も数倍の早さで老化していく体のまま、生かされる事となった。  大量の血液を入手する為、槐は債権者との取り引きで、再び男娼の道へと返り咲いた。その舞台は以前よりも特殊で、とある秘密クラブのショーの性奴隷といった役回りだった。  ショーといってもストリップのような派手さはなく、見るからに怪しげな仮面の観客達の前で、生贄のようになって、いたぶられる様を晒すのだ。  気高さを感じさせる槐の衣類が剥ぎ取られ、何も隠せない状態で縛られ、吊るされた姿に、仮面の観客達は酷く興奮している様子だった。  痛みを感じながら、槐は気付く。 ――治癒力と引き換えに、老化してくのだとしたら、ここの彼らに傷付けて貰えばいいのかも…。  カイザーの血の支配は絶対だった。  自傷行為すら出来ないのであれば、他人に傷付けて貰う他ない。  性奴隷をいたぶる権利を、オークション形式で客は手に入れる。  舞台の上、仮面の客達が見守る中、槐は権利を買い取った客の言いなりになるのだ。舞台に上がれば、客もまたエンターテイナーとなり、観客に見せつけるように槐の肢体を拘束し、攻め立てる。 「ねぇ、もっと酷くして…。」  槐が客達を煽るように囁くと、彼らは嬉々として応じ、異物を槐の中に突き立て、攻め上げた。 ――ああ…!気持ちいい…。もっと大きいもので奥まで貫いて、このまま殺してくれたらいいのに…。  愛する人がいながら、この背徳と言える行為を繰り返す自身に、これはただの自傷行為なのだと、槐は言い聞かせる。 ――そう、この快楽は、…死に近付くという快楽。  樹との会話は、日々、少なくなっていった。  それでも彼の傍に寄り添っていたい槐であったが、日増しに弱っていく彼を目の当たりにするのは、拷問のように辛く感じていた。  その内、誰かに酷く抱かれなければ、眠れない体になってしまった。 ――本当に?本当にそうだった?…結局、そうやって言い訳しながら、快楽を求めてるだけだったんじゃない?辛い事から、自分だけ逃げようとして…。  槐は暗闇の中、ふと目が覚めたように、罪の意識に苛まれていく。止めどなく涙が溢れて来た。 「泣か…ないで…。槐、…君は綺麗な…ままだか…ら。」  必死で振り絞るように、樹は言葉を続ける。 「君は…俺から…解放されて、…自由に…生きてくれ…。」  その言葉を最後に、樹は息を引き取った。  静寂の中、自身の息遣いしか聞こえなくなった。  すべてを失ってしまったような感覚に、槐は囚われる。 ――正式な遺書は…手配済み。後は夏央君に直接話して…。いや、手紙で…許して貰おう。  指先で涙を払った槐は、強い意志を胸に秘め、地下の一室を出た。

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