6 / 35
2 翡翠の君
――……翡翠様。
亡骸を見下ろしているのは誰だろう。
これは夢だとわかっていて、見下ろす人物の視界を通じて希は考えた。
「わたくしは、翡翠様の言いつけを必ずお守りいたします」
常に、主人と守り役 は一心同体であり一蓮托生であると言うことがこれまでの慣例だった。
しかし、その慣例を破ってその人物が見下ろしている亡骸――すでに腐敗をはじめているが――の人は、守り役に命じた。
――二条。私がこの世から亡き者になったとしても、決して後を追うことは許さない。二条は、私を守り続ける義務がある。だから、私の死後も、私を守り続けなければならない。私の言うことを守ってくれるね。
「はい、わたくしは翡翠様の亡き後も、お守りいたします。必ず。わたくしの命が尽きるまで」
自死は許さないと、そう告げた翡翠という男はその言葉を聞いてからやっとほっとしたように、敷かれた布団の中でゆっくりと目を閉じた。
遠からず、自分は死ぬだろう。
弱り切った体を横たえて、若い少年めいた彼はそっとやせ細った手を伸ばした。その手を取った二条と呼ばれた女はひどく胸を痛めて、吐息をついた。
本来ならば、彼の死と同じく自分も死ななければならないはずなのだ。
けれどもそんな慣例よりもずっと自分の主人の言いつけの方が守り役を務める人間には重かった。
そもそも、共に生き、共に死ぬというのは決められたものではなく、それまでの「主人」と「守り役」とがそうだったというだけの話だ。
生き方は、ふたりが決めるものだ。
「わたくしは、せめて翡翠様が女性を娶っていただきたかった……」
「……――二条は、とても贅沢だね」
「存じ上げております……。わたくしは、翡翠様に幸せになっていただきたかっただけでございます」
本心からの言葉が、夢を見ているはずの希の心に突き刺さる。
どちらの人物も心から信頼し合っている。
それが感じ取れたからだ。
「仕方ないよ……、私は、……大いなる災いからこの国から守らなければならなかった。私は二条にその犠牲になってもらいたくなかったし、この里が失われることはどうしても防がなければならなかった。そうしなければ、私は未来永劫、その罪から解放されることはないだろう。だから、二条……。どうか悲しまないで、私を送ってほしい。私はこうなることを覚悟して災いを受け止めたのだから、悲しむ必要などないし、それが、大いなる災いを受け止めてしまった償いなのだから」
「もちろんでございます、わたくしは翡翠様の守り役であることを誇りに思っております。そして、翡翠様の亡き後も、この命の続く限り、翡翠様をお守りいたします」
流れ込んでくる言葉は、現代の言葉そのものだ。
しかし、それは恐らく小鳥遊希という現代人のフィルターを通したために、彼にわかりやすい言葉で流れ込んでくるものなのだろう。
二条は、涙を流すこともなく翡翠を送り、そうしてその亡骸を守り続け、腐敗し、骨になるまで彼の寝所でその姿を守り続けた。
ふたりの関係は、当時の彼らの暮らす小さな里では異例中の異例だったが、それが主人の言葉であるからには、守り役は必ず言いつけとして守らなければならない義務があった。
それ故か、二条は一筋の涙すら見せなかった。
その事実が夢として見守る希には悲しくて、夢の中の二条の心の中で「こんなものは見たくない」と嘆き悲しむのだ。
*
「……ひ、すい様」
うなされる声に目を覚ました沢村は、腕の中で震える体を抱き締め直して、その額に唇を押しつけた。
昨晩、強い快楽を受け止めてそのままゆっくりと眠るように意識を失った希は、やはり夢の中で苦しめられる。人の命を救う職業に就く優しい青年が、極道者の自分と恋仲になるなどありえなかった。
それでもふたりは惹かれ合って、数年の知人という期間を経てから恋人という間柄に落ち着いた。
――ひすい。
初めて、彼の唇から明確な名前がこぼれた。
ひすい、とはいったい何者だろう。
「希……」
「う――……」
「様」と呼ぶからにはそれだけの地位にある人間なのだろうか?
けれど、いくら沢村が強大な権力を握るやくざ社会――賢正会のナンバーツーであったとしても、夢の中にまで、恋人の心を守りに行ってやることなどできはしない。
どれほどの権力を握っていても、人をひとり守ると言うことは簡単なことではないのだ。
「……ぁ」
暖かく自分を包み込む体温に目を覚ました小鳥遊希は、気遣うように自分を抱きしめて見下ろしてくる男の瞳に、心の底からほっと息をついた。
「俊明さん……」
「今日もうなされていた。大丈夫か? どんな夢を見た……?」
極道とは思えない低く優しく響く声でそっと問いかけてやると、俊明の首に両腕を回して強く抱きついた。
「……よく覚えていません、ただ、誰かを看取る夢でした……――。その人がどれほど大切な人を看取っているというのに、悲しむことも許されない、悲しい夢でした……」
悲しんではならない。
大切な人を看取る時に、悲しまずにいられる人間などいるのか。
それは沢村自身にも、考えも及ばない。
巨大な権力を握っていればこそ、今、誰よりも大切な小鳥遊希を失うことを考えたら、悲しまずにいられないだろう。
そう思う。
悲しむことすら許されない。
もっとも沢村は、その悪の側に着く大きすぎる権力で、多くの人間を地獄に突き落としてきた身だ。恐らく自分はろくな死に方をしないだろう。そのとき、希は悲しんでくれるだろうか。
埒もないことを考えてから、切なげに目を伏せる恋人をあやすように滑らかな背中を繰り返しなでてやる。
極悪非道の経済やくざであっても、自分が大切に思うものを失うことは悲しいものだ。そして今までそれを他者に押しつけてきたこと。そんな生き方をいまさら後悔などしていないし、そんな生き方しかこれからもできないのだろうとわかっていた。だからこそ、腕の中の優しい恋人だけは守ってやりたいと思う。
「……おまえは、俺がやっていることを知ったら軽蔑するか?」
いや……。
軽蔑どころではすまないかもしれない。
それでも、尋ねてしまったのは軽率だった。そう思った時、沢村の目の前で希は横に首を振った。
「あなたが、そういう人だということを知っていて、恋をしたんです。もしも、あなたが誰かを陥れ、悲しみと恐怖にさらしているのだとしても、それは僕も同じように背負うべきものですから」
共に背負う。
そう断言した彼が愛おしくて、希の体を強く抱き締め直してから彼の首筋に唇を押しつけた。情欲のままに、目覚めたばかりの希の性器に指を絡めて、手のひら全体を使ってこすり上げるようにしてやれば、希は昨夜の熱の残滓を思い出させられて、熱のこもった息を吐き出した。
「朝からその気になったか?」
「……ち、が……」
「だが、ここは物欲しげだ」
性器を握っている手とは、別にもう一方の手を伸ばして、希の柔らかくほぐれた後孔を探ってやると、びくりと快楽の予感に象牙色の体が震える。
「俊明さんが、触る、から……」
「……ふ」
かわいい言葉を口にする希に小さく笑った沢村は、ごそりと体の位置をずらすと青年の腰をずり上げて、朝の敏感な性器を触れて勃ちあがりつつあるそれの先端に唇を寄せた。
「昨日はドライでそのままにしてしまった詫びにイかせてやろう」
「あ! や……、そんな、こと……、あなたがしてくれなくて、も……」
「そう言うな」
大きく口を開いた沢村は半ば立ち上がりつつある希の性器を丸ごと飲み込んだ。舌を絡め、唾液を塗り込めるようにしながら裏筋を丁寧になめて、赤く充血しつつあるその先端を飴かアイスでもなめるように執拗になめ回す。
「ぁ、……ぁあ、や……っ」
「俺の前なんだから我慢なんてすることはないぞ?」
「意地悪、しないで……」
性器を口に含んだままで話す沢村の舌の動きすら刺激になるらしい希は、しっかりと捕まれて固定された腰をくねらせてなんとか逃れようとするが、希を軽々と押さえ込むだけの腕力を持つ男にはかなわない。
「俺がおまえ相手に意地悪なんてしたことがあるか? 気持ちよくしてやっているだけだろう?」
感じやすい袋を転がすように揉み込んで、必死に声と射精をこらえようとする青年を追い上げていく。
「や……、ゃ、……も、だめ……、俊明さん、助けて……」
助けてと言いながら、唇と舌と口全体を使って愛撫を続ける男の黒髪をかき混ぜる希の手を受ければ、沢村には「もっと」と言っているようにしか思えない。
希を追い上げる力を強めて、今度こそ沢村は彼のペニスをのどの奥まで飲み込んでしゃぶりつくすような勢いで前後してから、希の先端から零れる透明な液体と沢村の唾液で濡れそぼったそれを満足げに見つめてから、カリ首から先の亀頭に舌を絡めて思い切り吸い上げた。
その余りにも強い衝撃に、希は息を吸い込むような叫びをのどの奥から発してそのまま達した。
独特な臭いと苦いそれを口の中で味わってからごくりとそのまま飲み込んだ経済やくざは、そのまま顔を上げると顎をのけぞらせるようにしたままで乱れた呼吸を繰り返している希の後頭部を支えて自分の額と彼の額を押しつけるようにして合わせると、鼻をこすり合わせるようにしながら、自分の顔を傾けて恋人の荒い呼吸が収まるのも待たずに深く口づけた。
希は言った。
自分は沢村と共にあると。
沢村の背負うものを自分も同じように背負うと。
極道などとは縁もゆかりもない彼にどれだけの決意をさせているのかと考えると、うれしいものもありながら、言いしれぬ不安にも駆られる。
彼が、沢村俊明の恋人であることが敵対する組織に知られればどんなことになるのかは容易に想像がついた。
希は非力で護身のための力を持つわけでもない。
できるならどんな時でも腕の中に囲って守ってやりたいと思う。
数年越しの恋人関係にあったが、希の存在はまだ組の上層部には知らせてもいない。知られないように、細心の注意を払ってきた。
だから、先日、警視庁捜査一課の刑事に現場を押さえられたことは迂闊だったとしか思えてならない。
「俊明さん……」
「なにがあっても、俺がおまえを守ってやる」
自分に言い聞かせるように告げた沢村に、希は長い口づけを繰り返しながら全幅の信頼を寄せるようにこっくりと頷いた。
「俊明さん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「なにを謝っている?」
青い瞳を潤ませた青年は沢村の問いかけには答えず、彼の胸に顔を埋めたままで「ごめんなさい」とただ繰り返すばかりだった。
――小鳥遊と小鳥遊が引き合った。
それ故に、沢村を高橋と呼ばれた刑事と引き合わせてしまった。
それを希は悔いる。
希と共にいる沢村と、桜龍だけが出会う分には何の問題もなかった。
失念していたのは自分のほうだった。
桜龍が警視庁捜査一課の刑事であり、現在担当している事件が連続女性誘拐殺人事件であることも知っていたというのに。
小鳥遊が引き合うのは当然のことで、それは日本全国どころか世界中で起きる現象だ。だから、それを知らない沢村のことは、希が注意深く接するべきだったのだ。
あそこで希が先に桜龍を感じ、その場を後にしていれば。
そして桜龍が希を感じなければ、沢村は高橋と出会わずに済んでいたはずだった。
沢村の優しい腕に甘えてしまう。
そんな非現実的なことを口にしたところで、沢村は信じたりはしないだろう。なによりも極道がそんな迷信めいた話など信じるわけもない。ほかの極道者のことなど希は知りもしないが少なくとも、沢村はそういう男だった。
ともだちにシェアしよう!