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4 小鳥遊
「理事長」
沢村商事本社ビルの執務室のデスクについた沢村は、常磐の部下である八城 宏平 という青年を前にしていた。
年齢は沢村の恋人とそれほど変わらないはずだろうが、ヤクザという世界で揉まれて生きてきた分だけ、お坊ちゃんとして、そして沢村に甘やかされて生きてきた希とは大違いの精悍な男前だ。
これがヤクザの舎弟という身分でなければ、どんな女でも虜にしてきただろう。
沢村は賢正会では理事長と呼ばれているが、関西式に言えばいわゆる「若頭」というやつだ。つまり、彼の補佐をする常磐幸哉は「若頭補佐」ということになる。
現在、沢村も常磐も同様に組織犯罪対策部の監視下にある以上迂闊な動きは命取りになる。ただでさえ、関西系列の陳内会の進出が企てられているという情報も入ってきている。
いずれにしろ、沢村も常磐も同様に理不尽極まりない別件逮捕というリスクを負っているのである。
「常磐からの伝言か?」
「はい、現状、常磐理事長補佐のところでは問題は起きておりません。例の事件のことについては若干気にしている様子ですが……」
「だろうな」
常磐の管轄下で問題のひとつも持ち上がりでもすれば、それこそ待ってましたと言わんばかりに警察が常磐のところに乗り込んでくるに違いない。それを常磐も充分に理解していた。
「一応、理事長補佐も念のため、例の事件については探りを入れている様子です」
連続女性誘拐殺人事件――。
その犯人の素性は今のところ謎ばかりだ。
一応、わかっていることと言えば、犯人が関東近辺に暮らしているだろうということだけだった。それは、犯人の行動を見ていれば簡単にわかる。
恐らく、犯人は男で車で移動している。
それくらいを推察するのがせいぜいだ。警察はもう少し情報をつかんでいるのかもしれないが、現状の警察の動きを見ている限り、賢正会がつかんでいる情報と代わり映えはしないだろうことは明らかだ。
どこの誰ともわからない男が、不特定の女を殺して歩いている。
「わかった、俺の方でも探りを入れると常磐に伝えろ。それと、八城。おまえもサツの動きには気をつけておけ。どうせ、間抜けな連中だが、たまに鋭いところも見せるからな」
「承知いたしました」
短い言葉を返した八城は頭を下げてから、音もなく足を進め沢村の前から消えた。
常磐も良い部下を持っていると、沢村も思う。
「理事長、よろしいですか?」
「どうした」
ノックが三回鳴った直後、ドアノブが回り長身の沢村の側近が姿を現した。
「早朝にいただいた電話の件、調べがつきました」
中谷だ。
「早いな」
「これくらいなら、それほど時間は取りません」
まがりなりにも法曹界に身を置く男である上、彼の亡き家族は同様に数多くのパイプを持つ腕利きの弁護士と検事だった。その人脈は息子である中谷克也にも受け継がれている。
彼の知人は警察官僚を含めた高級官僚や、検事や弁護士など多岐に渡る。
「優秀な部下がいると俺も楽ができていい」
そう言って笑った沢谷の言葉は本心だ。
これほど優秀な男はほかにはいない。
「知人からは、賢正会の組弁護士など早くやめてしまえと言われますが、なんだかんだと情報を流してもらえます」
それだけ、中谷の人格が信頼できるということでもある。極道という世界に片足を突っ込んでいながら、正義の側に就く知人や友人たちに恵まれている。
「小鳥遊桜龍のことですが、希さんとは随分と遠縁のようです。姓こそ同じですが、一般的に言えばほとんど他人のレベルです。ただ……」
そこで中谷は口ごもった。
まるでなにか嫌悪すべきことでもある時の顔だ。
なんだかんだで中谷とはつきあいも長い。沢村は、中谷にとってひどく受け入れがたいものがあるだろうということを、そのわずかに潜められた眉からで察した。
「なんだ」
「一般的に言えばほとんど他人の遠縁に当たるのですが、この小鳥遊という家系はどうやら血族婚を繰り返しているようです。もっとも、かつてのハプスブルク家のような遺伝子異常は発症していないようですが」
「面白いな、それは」
「この、”小鳥遊”という家系はどうやら平安時代、あるいは奈良時代に発生したと考えられます。名前こそ今とは違ったようですが、当時はこの小鳥遊と、和泉という血族が当時の警察機構とは別に裏から日本全土の災厄を防ぐ立場にあったようです」
「……ほぅ?」
「いわゆる陰陽師とかそういったものだということです。明治時代になって、今の小鳥遊家が成立して、和泉家はそのまま当時の姿のままで継承されているということです」
小鳥遊家と和泉家。
言ってみれば、怨霊や疫病、災害などを鎮める務めてきた血族になるというころだ。
「それで、小鳥遊が血族婚を続けているというのはわかったが、和泉のほうは血族婚というわけではなさそうな口ぶりだな?」
正確に中谷の言葉を拾った沢村に、中谷は「はい」と頷いた。
「どうやら、和泉の方は昔から特別なために迫害を受けた人間を身分の差に区別なく受け入れてきた家系のようです。小鳥遊のほうは、血族婚でなければ家系を維持することのできない家柄だったようで、明治あたりまでは、ごく近い間柄でも血族婚によって子供が生まれていたとのことです」
ハプスブルク家を例にして考えれば、生理的にぞっとする話だ。
「もっとも、現在は、本当に遠縁の間柄でしか結婚をしていないようですが。ただ、血族婚でなければ子供が作れないというのは変わっていないようで、そのために、小鳥遊家の女性に限らず、血族外の女性と小鳥遊の男が体をかわした結果、孕んだ女性は子供共々死に至るということです」
興味深い。
それは生物の営みからすでに外れているではないか。
もしくは、女を好きになれないから希は沢村で妥協したのではないだろうか。そんな疑念が不意に頭の片隅をよぎった。
青い実直な瞳。
指通りの良い金色の髪。
不安げに彼にすがりついてくる彼の細い腕を思い出して、沢村は口元に手を当てたままで黙り込んだ。
「理事長?」
「……――わたしは希さんのことを申し上げているわけではありませんよ?」
「わかっている。その先があるんだろう、続けろ」
は、と短く応じてから中谷は沢村を見つめたままでその先を続ける。
「命じられました小鳥遊桜龍の件ですが、東大法学部を首席で卒業してから警察学校に入ったようです。もっぱら、キャリア組として期待されていただけに、上層部も落胆が大きかったと言うことです」
「つまり、警察庁の上層部は小鳥遊桜龍の存在を知っていた、ということだな?」
「はい、ですが、小鳥遊の長老会……、あぁ、長老会というのはですね、小鳥遊家で”実戦”から隠居された方々からなる小鳥遊家の実質的な権力組織なんですが、小鳥遊桜龍は官公庁の好きには使わせたくないという意向で本人に自分の道を選択させたということです。そのため、現在ノンキャリアの警部補で、せめて警察庁のほうでも小鳥遊桜龍の実力を警視庁捜査一課で生かしたいという思惑から、捜査一課の刑事を務めているということです」
小鳥遊――実戦。
それがなにを意味しているのか。
それを沢村は理解していないわけではないが、信用するかどうかは別の話だ。
ただ、恋人の希には何度かかすり傷を負ったときに、その力の恩恵を受けたことはある。
希は「僕にはこれくらいのことしかできないんです、手術が必要になる大けがは僕の手には負えないので、本当に気をつけてくださいね」と優しく言われたものだ。
彼が手をかざすと淡い紫色の光が指先にともり、出血する傷が見る間に癒えていくのだ。けれど、彼の力はその程度だと、希は言っていた。
「桜龍……か」
とんでもない名前を持つ女だとは思った。
男ならわかる。
龍という縁起の良い字を名前にいれるのはごく当たり前のことだ。だが、女で「龍」の字を持つものは珍しい。
おそらく小鳥遊桜龍という女刑事には、それだけのなにかが隠されているのかもしれない。
「しかし、あの年で警部補とはな、さすが東大トップと言ったところだ」
「はい、わたしでも手も足も出ないかもしれません」
苦笑する中谷に、沢村は頭の隅で警告のようなしびれを感じて眉をひそめた。
「なんでも武術の達人らしいですよ。ああ見えても。おかげで、荒事に関わる逮捕劇でも”あの”高橋警部の検挙率がここ数年でうなぎ登りだそうですから」
「なるほどな」
希もそういえば、優秀な医師だ。
もっとも、どちらかと言えば臨床よりも研究にいそしんでいる様子だが。
あの華奢な体で、長時間の手術にどうやって耐えているのだろう、沢村は何度そう思ったかしれない。
「要は、昔から小鳥遊家は幽霊だかなんだかわからんものを相手にしてきた家系ということだな?」
「……簡単に言えばそういうことになります」
信じるか、信じないか。
それは科学の発達した現代では、どう捕らえるかによるのだろう。
「まぁ、その小鳥遊桜龍のことはわかった。その話を総合するとどうやら切れ者の刑事らしいから、下の連中にもサツの小鳥遊って女刑事に気をつけろと伝達しておけ」
「わかりました」
連絡だけを済ませて沢村の執務室を出て行く中谷の背中を見送ってから、彼はひとり革張りの椅子に腰を下ろしたままで深く背中を預けて考える。
希のほぼ他人と言える遠縁の従姉妹。
武道の達人で頭も切れるとなれば問題だ。
ほとんど顔見知りにも近い高橋和仁の検挙率が異常に上がり始めたということは桜龍がどれほど優秀なのかを物語っている。もちろん、高橋和仁の実力に問題があるということでもないことは沢村も知っていた。
高橋は捜査一課でも屈指の武闘派だ。
その高橋の相棒として、やはり武闘派の小鳥遊桜龍が就いたということは厄介な話かもしれない。
「まぁ、一課のほうはいいか。問題は……――」
関西の陳内会とのもめ事が増えれば、組織犯罪対策部が動き出すだろうことだ。今のところ、陳内会も息を潜めている様子だが、それだけでは済まないだろう。
*
こつ、と音がして、小鳥遊希は書類の束を抱えたままで振り返った。
グレーのダブルのスーツを身につけた男で、黒い髪と、鋭い瞳が印象的な男だ。賢正会の沢村俊明と付き合いのある希は、すぐにその男がいわゆる堅気の人間ではないと言うことを察した。
とっさにスーツの襟に留められたバッヂを確認する。
見慣れた賢正会のものではない。
「すみませんが」
男は薄い唇を開いてそう切り出した。
どんな言葉を続けられるのだろう、と、希は思わず抱えた書類を抱きしめた。
「迷ってしまったんですが、内分泌内科の病棟はどこでしょうか」
ほっとした。
糖尿病の患者の見舞いにでも来たのだろうか。
「あぁ、内分泌内科ならそこのエスカレーターを上がってから、左に行って二つ目の角で三号棟への渡り廊下があるのでその先です」
「ありがとうございます」
「お見舞いですか? 早く退院できると良いですね」
「はい、お気遣い感謝します。”小鳥遊先生”」
迫力のある男は軽く会釈して、すぐ後ろにあったエスカレーターへと向かっていく。
そのときになって希は初めて我に返った。
自分の名札は、書類の束が邪魔になって見えていなかったはずだ。だというのに、なぜ彼は自分のことを「小鳥遊先生」と言ったのだろう。
やくざの世界のことなど、希は沢村を通してしか見ていない。だから、現実としてどれだけ恐ろしい場所であるのか、そんなことを彼は知らなかった。
広域指定暴力団――と呼ばれる組織とは別に、地元に根付く極道もいる。
しかしそういったものを、先ほどの男からは感じなかった。なによりも、独特の訛りがあってそれが東京の人間のものではないことを希にも理解できる。
もしかしたら、東京の病院に入院している患者の見舞いに関西から来たのかもしれないではないか。
胸の内で響く警鐘を感じながら、希は思わずケーシーの上から袖を通した白衣のポケットにあるモバイルを指先で触れた。
――なんでもかんでも悪い方向に考えてはいけない。
いくら自分が、賢正会のナンバーツーと付き合っているとしても、決してそれは後ろめたいことではないはずだった。
だから。
本当に危険が迫るようであれば、沢村から連絡が入るはずだ。
「……きっと、大丈夫」
わけのわからない恐ろしさに駆られる。
「小鳥遊先生、よろしいですか? 急患なんですが、ほかの先生方がみんな出払っていて捕らないんです。至急ERで診察をお願いしたいんですが」
看護師にかけられた声に我に返った。
そういえば、何人かの外科医は手術に入っていたし、まだ外来で手が離せない医師が多いだろう。
「わかりました、すぐに行きます」
ということは頭に関係するなにかだろう。
急遽診断が必要だと救急救命室の医師が判断したならそういうことだろう。
慌ただしくきびすを返した希の後ろ姿を、グレーのスーツの男は薄い笑みを浮かべてじっと見つめていたことを、彼は知らない。
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