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 長い黒髪。  切れ長の目と、ふっくらとした唇。  女性として最も美しい年齢の女性たちは、写真の中でどれも余りの恐怖と絶望に引きつっている。  死因は全て絞殺。  犯人と見られる人間の移動手段は自動車であることは間違いない。そのため、死体遺棄現場の近隣にある防犯カメラ、及びNシステムの確認を取ってみても、犯人らしい人物は全く浮かび上がってこない。  犯人は、どんな手段をもってして、警察組織の目をかいくぐっているのだろう。 「高橋さん」 「おぁ……っ!」  突然、声をかけられて、驚きの余り座っていた椅子から腰を浮かしかけた。 「……――なんだ、りゅーか」 「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」  最近ではそれほどお嬢様らしさは抜けつつあるが、それでも捜査一課の刑事として考えれば、かなり浮いた存在だ。  街中で歩いていても悪目立ちするのだ。  恐らく、彼女が和服ではなく、洋服を着ていたとしても育ちの良さは隠しきれないだろう。  一部のキャリア組のようにやたらと自分の階級や知識をひけらかすのではなく、どんな相手であっても高橋の相棒――小鳥遊桜龍は相手を立てる。  見事な大和撫子だ。 「考え事してたんだよ」 「そうみたいですね」  被害者たちの顔写真。  それが高橋の手の中にある。  若い身空で自分の意思とは関係なく殺されてしまった女性たち――。少なくとも、彼女たちの間にある共通点と言えば、容姿だけで誰一人、個人的に付き合いがあるわけでもなかった。  プロファイルするなら、犯人はこうしたタイプの女性にトラウマを持っているということになるが、本当にそれだけなのだろうか?  近年、プロファイリングの手法などは随分と民間に流出している。つまり、わざわざ「ある特定のタイプの女性にトラウマを持っている」と見せている可能性も捨てきれない。ありとあらゆる可能性を視野に入れて捜査をしなければならなかった。  この連続殺人を止めなければならない。 「こんなにきれいな子たちなのにな……、かわいそうに」  ぽつりとつぶやいた高橋に、男の肩に手をついて、その手元を背後から覗き込んでいた桜龍は口を開いた。 「ところで、高橋さん」 「なんだ?」 「道場行きませんか? 聞き込みに行く前に組み手をしましょう。お互い体がなまってしまいます」 「……――わかったよ」  一汗流す、というほどのものではない。  端から見ればほんの一瞬で終わる組み手だ。 「おまえ、とことんいい奴だな」  高橋の感傷を感じ取ったのだろう桜龍だからこそ、彼に組み手を持ちかけたのだ。高橋にとって、桜龍との組み手はそれほどの集中力が要する。 「そんなことありません」  そう言って桜龍がにこりと笑った。 「……そういえば、先日、小鳥遊総合病院のエントランス前で、関西の陳内組のバッヂをつけた男性を見かけました。高橋さんはなにかご存じですか?」  スーツのジャケットを無造作につかんで、道場に向かって歩き出した高橋に桜龍は問いかける。 「陳内会?」 「……あ、そうです。陳内会です、間違えました」 「どっちでもいいだろ、そんなこと」  どうせ組にしろ会にしろ、陳内は陳内だ。  本人たちにはそのあたりにこだわりがあるかもしれないが、警察官にとってはどうでもいい話である。  道場に着いたふたりは、片方はいつもの袴姿に、片方はジャケットを置いただけのいつもの姿だ。  互いに武器はない。  もちろん防具もない。  それは実戦を仮定した組み手だからだった。  実際は警棒などを使うこともあるが、警棒を使うのはもっぱら高橋で、桜龍は自前の武器を使っている。 「始めようか」  ふたりが畳の上で向かい合った。  実力は五分五分だ。とりあえず、今のところは高橋のほうが負けが込みつつある。どうしてそんな結果になるのかと言えば、桜龍には良くも悪くも迷いがないからだ。  どちらからともなく、畳に足を滑らせて動いた。  桜龍の襟を取ろうとした高橋の腕を、左手の手の甲で受け流して、桜龍は彼の足下を素早く払う。バランスを崩したところで、高橋の後ろ首を押さえつけた桜龍がそのまま男の腕を後ろ手に固定しようとしたが、そう簡単に押さえつけられるような高橋でもなかった。  華奢な、腕力では劣る桜龍の指から、全力を込めて一気に腕を引き戻すと、目と鼻の先にある桜龍の肩を長い腕を生かして掴みしめると、そのまま投げつけるように一気に背中から桜龍を畳に組み敷いた。  受け身を取って衝撃をやり過ごした桜龍が、そのままごろりと畳を転がると勢いのままに立ち上がり、長い黒髪が乱れるのもかまわずに高橋との間合いを詰める。 「わたしはいい奴なんかじゃありませんよ」  そうして、桜龍は口元だけで微笑した。  体の小さな桜龍に、死角に入られることは危険だ。  高橋が咄嗟に体を引こうとした瞬間、細い腕が着物の袖から伸びて、その背中を捕まえた。 「わたしの勝ちです」  もうのど元にそろえた指先を突きつけられて、高橋は息を止めた。  これが、ナイフでも持っていたら、それこそ命がないだろう。  小さな体格を生かした体術を駆使する桜龍と、恵まれた大柄な体と腕力を持つ高橋の体術では全く異なる。  迷いは、人の判断を鈍らせる。  だから桜龍は彼に出動の前の組み手を持ちかけたのだ。 「いやいや、おまえはいい奴だ。大卒を鼻にかけないしな」 「高橋さんだって勉強家じゃないですか。その年齢で警部なら、努力の結果です」  朗らかに笑う彼女。  頭のできがそもそも違うと高橋などの凡人なら、嫌みの一つもいいたくもなるものだが、それさえ言わせないだけの人柄の良さを彼女は持っていた。  とにかく、顔立ちは良く文武両道で、性格も文句ひとつないとくれば誰が彼女に太刀打ちできるだろう。 「……――わたしは、高橋さんに覚えていてもらいたいだけです」 「あ?」  体を離し、きびすを返した彼女はそう言いながら手ぐしで乱れた長い髪を整える。 「わたしが――いつか死んだ時に、小鳥遊桜龍という個人がいたのだということを、……高橋さんに覚えていてもらいたいだけです」  いつか……――。  桜龍はまだ若い。  年齢はまだ二十五歳を少し過ぎたばかりだ。  普通に考えれば死ぬのは六十年ばかり先になる話だというのに、彼女は小さく呟いた。  覚えていてほしいのだ、と。 「りゅー?」 「なんでもありません、さぁ、早く聞き込みに行きましょう。犯人はまた次の標的を探しているかもしれません」  もしかしたら、今このときに監禁されて恐怖を味わっている女性がいるかもしれない。だから、前に進まなければならない。 「あ、……あぁ。そうだな、行くか」  彼女の言葉になにやら不穏なものを感じるが、それ以上はなぜか聞きたくなくて、高橋は桜龍の言葉に曖昧な相づちを打っただけだった。  わたしが死んでも覚えていてもらいたい。  それは、まるで彼女の本音であるように聞こえてしまったから。 「りゅー」 「なんでしょう?」 「俺とおまえが組んでれば、無敵だからな。いらん心配なんてしなくていい」 「……えぇ、そうですね」  短い間を開けて、言葉を返した桜龍は気遣うような高橋和仁の言葉に振り返ってからほほえんだ。 「わたしと、あなたが一緒なら、無敵です」  かみしめるように言葉を繰り返す。  まるで自分に言い聞かせるように。 「高橋さんは、わたしがこんなに変な姿なのに、偏見もないし、からかったりもしない。高橋さんのほうこそ、わたしよりずっといい人ですよ。……わたしは、ただ利己的なだけです」  生まれてから、利己的であり続けることを許された。  小鳥遊家の誰よりも、自由に生きることを許された。  けれども、桜龍はそんなものほしくはなかった。 「ただ、わたしは普通でいたかったんです」  だから警察という普通の仕事を選んだ。 「せめて、誰かを助ける仕事をしたかった。それだけですから」  それは利己的とは言わないのではないか。  高橋はそう思ったが、桜龍の重い口ぶりに、返す言葉が見つからずに唇をわずかに開いたが結局そのまま閉ざしてしまった。 「不審な車とか、人? 見てないな」 「このあたりの子で失踪とか捜索願とか出てる子はいないはずだけど」 「そういえば、昨日、小学生の男の子が家に戻ってないとかで、警察署に届けたって話は聞いたけど」  今は夏休みの最中だ。小学生も高学年になれば親に言わずに家を空けることだって珍しくはない。  だが、刑事の琴線になにかがひっかかった。 「その小学生の男の子の名前はわかりますか?」 「えーっと……(かすみ)広斗(ひろと)君だったかな、お母さん思いの良い子だったんだけど、最近たちの悪い中学生と友達になったとかって噂も聞いてたから、もしかしたらその中学生とどっかに遊びに行ったってこともあるし」  どこにでもいる「良い子」がい突然「悪い子」に変貌することがある。  特に感受性の強い時期の子供は、大人たちが「悪い」と思っているものにこそ心が引かれるものだ。高橋和仁自身もそうだったように。  もっとも、高橋の場合はいわゆる習い事の剣道のほうに忙しく、遊んでる暇などほとんどなかったのだが。 「そうですか、情報ありがとうございます」  会釈をした高橋に、青年は「いえいえ」と笑顔で応じて、高橋と桜龍の前から立ち去った。  高橋から数歩離れた場所でそのやりとりを聞いていた桜龍が、やがて彼に近づいてきて無言のままで男の立ち去った方角を凝視する。 「なんだ?」 「いえ、……なんでもありません」  それから、今度は別の方向に桜龍が視線を向ける。  住宅街には不似合いな黒塗りのベンツが通り過ぎていく。  ベンツが殺人犯の車ではないだろうが、なにやらきな臭い。  高橋がベンツに向かって歩き出そうとした時には、すでに車はふたりの視界から消えていた。 「あのナンバープレート、大阪でしたね」 「……だな」  関西の陳内会が動き出していることも気にかかる。それ自体はおそらく組織犯罪対策部のほうでも既に知るところだろう。  賢正会も、関西の陳内会が関東に進出してこようとしていることに警戒を強めている。ただでさえ警視庁を含めた各県警は連続女性誘拐殺人事件の捜査でてんてこ舞いを強いられているのだ。そこに賢正会と陳内会の抗争でも始まったとあっては目も当てられない事態になるだろう。 「一応、組対のほうに報告をいれておくか」  どうせあの、捜査一課よりも荒っぽい連中に罵倒されることはわかっているが、それらしい動きを目撃してしまった以上は黙っていることなどできはしない。  犯罪は、後から捜査するのではなく、未然に防がなければ意味がない。  被害が出てからでは遅すぎる。 「それにしても、前から思ってたんだが、つくづくおまえの頭、目立つよな。犯罪者どもに避けて歩いてくださいって言ってるようなもんじゃねぇのか?」 「そんなこと考えるのは常習犯くらいですよ」  黒い髪に二房の白い髪がある。  まるでモデルの髪型のようだ。  目立って仕方がないと高橋は思う。  仮に、その目立つ容姿のせいで襲われても、彼女には自分の身は自分で守るだけの技術があった。  だから高橋もそれほど心配などしていなかったし、する必要もないと感じていた。  おそらく本人もそう思うから、染めたりするようなことをしないのだろう。

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