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6 龍の守り手

「お久しぶりです、お母さん」  その日、希は実家に戻っていた。  たいしたことではない。  報告のためだ。 「どうしたんですか? お仕事の方は順調なの?」  息子の恋人が極道者であることなど、我関せずと言った口ぶりはいつものことだ。実際のところ、母親――巳鶴(みつる)にとって些細なことだった。  小鳥遊家の人間で、極道などよりももっと危険な相手との恋に落ちた者いる。それを考えれば巳鶴にとって息子の恋人がただの人間でせいぜいやくざだと言う程度は問題にもならなかった。 「お父さんに報告があって来たんですが」 「……颯さんなら、茶室のほうにいるから、そちらに行ってごらんなさい」 「お客様がいらっしゃっているとか、そういうことではないのですか?」  尋ねられて巳鶴は口元に指を当ててクスクスと笑うと小首をかしげて見せた。 「きっと”風の便り”でもあったんでしょうね、今日はおひとりですよ」 「わかりました、行って参ります」  玄関を上がった息子に、巳鶴はほほえんでからきびすを返した。  成人した息子に今更べったりの母親というのも奇妙な話だ。それをわかっているし、希にとって巳鶴がコンプレックスのひとつの原因だとわかっていたから、深く追求したりはしない。 「……希か、入りなさい」  音もなく廊下を歩いて茶室の前まで到着した時、その内側から壮年の男の声が響いて希は思わず視線を下げた。  相変わらず、この父――颯には希の行動などお見通しなのだろう。 「失礼いたします」  やはり着流し姿の父親は、いつの間にやらたてていた茶を、すっと彼の座るだろう畳の前に差し出した。 「頂戴いたします」  颯の立てた茶で一服すると、背筋を正した希は「お父さん」と切り出した。 「数日前に、桜龍さんにお会いしました」 「……それで、どんな様子だったかね?」 「桜龍さんが警察官だということは、お父さんもご存じですよね」  確認を取ってから、希はじっと父親の瞳を見つめてその反応を観察した。  万が一の場合に備えて、希は桜龍の主治医になっている。 「長老会から、今年は特に気をつけるよう連絡があったとのことです」 「……長老会から?」 「はい。桜龍さんは、現在の小鳥遊家でも特別な存在です。僕にできることがあるのでしたらもちろんそのときは全力を尽くす所存です」  桜龍を含めた若い世代が言う「おじいさま」というのは特定の人物を指しているわけではない。  いわば、若い世代にとって長老会に属する小鳥遊家の頭脳とも呼べる集団こそが、彼らにとっての「おじいさま」なのだ。  その長老会のもとで蝶よ花よと育てられた桜龍が選んだ職業は警察官だった。  小鳥遊家の人間たちは、その事実を知っているからこそ、彼女に危惧を抱く。 「なるほど、それで? 希がこうして出向いてきたということは、なにか動きのひとつもあったと言うことなんだろう?」 「現在、桜龍さんは今世間を騒がせている例の事件――女性が誘拐されて殺される、というあの事件を追っている様子です。念のため、小鳥遊の中枢に報告をいれたほうが良いと思いまして、こちらに寄せていただきました」 「そうか……、わかった」  硬い表情のままで希の言葉に頷いた颯は、それからふと思い出したように下げていた視線を上げた。 「希、おまえは自分の出生を決して好いてはいないと思っているが、わたしは鷲鷹(しゅうおう)君のように、将来をさだめられた子供を持たずに済んで良かったと思っているんだよ。だから、希。おまえは常におまえらしく、今の愛した人を大事にしなさい。仮にそれで希と”彼”が理不尽な方法で裁かれるようなことがあれば、小鳥遊だけではなく、和泉もおまえたちを理不尽な暴力から守るために力を貸してくれるだろう。だから、おまえは負けてはいけない」 「……お父さん」 「なんだ?」 「僕は、和泉家のなんなのですか?」  生粋の小鳥遊家の息子の一人としてうまれながら、それだけではなく、幾度となく和泉家が颯と巳鶴に接触していたことを、希が知らないわけではなかった。 「おまえは、小鳥遊の子だ。それだけ肝に銘じておけば良い。和泉との話は、もう”とっくに”終わったことだからな」 「わかりました」  これ以上聞いたところで、颯は口を割らないだろうことは簡単に想像がついた。だから希はそれ以上の追求をせずに引き下がった。 「希」  膝を立てかける息子に颯が呼んだ。 「はい……?」 「桜龍さんのことは、おまえが見守ってやるように」 「ですが、僕は無力な存在です」 「それでいい。大事に至れば長老会が動く。おまえは気休め程度に交流を続けて様子を報告してくれればいいんだ」 「わかりました」  自分は無力な存在だ。  桜龍がうらやましいと、希は思ったこともある。  同じ世代の生まれで、希だけが最も「非力」な存在だった。 「”あれ”は諸刃の剣だ。鷲鷹君には気の毒な話だが、やはり鷲鷹君の娘なのだな」  父親の意味深な言葉に、希はほんのわずかな時間考え込んでから、「失礼しました」と告げて父の茶室を出た。  小鳥遊鷲鷹と、その妻――日向(ひなた)の娘。  鷲鷹と日向には三人の子供がいるが、末娘の桜龍だけが特別な存在だと長老会から言い渡された。そしてそのために、桜龍のふたりの兄は、最大限の努力をもってして末妹を見守り続けてきた。  ちなみに、桜龍が警察官の道を選んだときに大反対をしたのはこのふたりの兄だった。それほど、桜龍が自分の仕事として警察官を選んだことは大事件だった。  ――いつも、自分の命のほうが縮む思いだ。  いつだったか、京都の本家で出会った桜龍の兄がぽつりと言った。  鷲鷹と日向――ふたりはどちらもかなり攻撃的な小鳥遊の能力者で、希の両親である颯と巳鶴ではとても桜龍の両親には及ばないだろう。そして桜龍の兄たちもやはり同様に両親の能力を受け継いだ攻撃型だった。  災いをもたらす「もの」から常に日本国とその玉体を守ることが小鳥遊と和泉のつとめだ。  祈り続ける玉体は、その昔から日本国そのものだ。  近代に入ってからは、危険極まりない能力者たちが海外からも容易に出入りするようになった。それらを含めて日本という国を警察組織とは異なる形で、今も昔も裏側から支え、守り続けている。  ――龍が空を駆けるとき、花は散るさだめにある。  龍が空を駆けるのは二度。龍を操るために生まれた桜龍。  おそらくそれは、きっと誰かを守るときだ。  無意識に、誰かを守ろうとして彼女は内に秘める龍を解き放つ。 「……――この子は、それほど長くは生きられないだろう」  桜龍が生まれたとき、朝日の空に一筋の雲を見た。  普通の人間にはただの雲に見えただろう。しかし、和泉と小鳥遊の人間たちの目には龍が見えた。  今は、特別な能力があるからと言って迫害されるような時代ではない。だから、好き好んで和泉家に逃げ込んでくるような能力者は余りいないが、それでも未だに和泉家も強大な力を秘めた一族だ。  鷲鷹と日向は長老会からそう告げられた。 「鷲鷹、日向……。おまえたちは、この子を充分に慈しんで守って育ててやらなければならない。幼い内は、特にふとした拍子に龍を解き放つことがあるかもしれん」  龍を解き放ってはならない。 「それでも、……人を助けるために命を捨てられるならいいじゃないか」  颯の、桜龍を気遣う言葉を思い出すと胸が痛む。  自分にはないものだったからかもしれない。  人を救うことができるほど、強大な能力を持って生まれれば、小鳥遊という家系の中でこんなにも惨めな思いをせずにすんだだろうに。  ちくりと胸が痛んで、目尻に浮かんだ涙を指先でぬぐった。  泣いてはならない。  希が希として苦しんでいるように、桜龍も桜龍として苦しんでいるだろう。  ふたりの存在は、まるで正反対であるようだ。どちらも、互いを羨んでいる。志した道は共に人のために尽くす道だが、命の道は生まれた時にすでに逆方向へと別れていた。  ”ありとあらゆる”魑魅魍魎から日本を守ることを運められた小鳥遊と和泉の両家には、元来、市井の人々には知られてはならない秘密がある。  その秘密を抱え続けるのは、とても孤独なことだった。   * 「……俊明さんっっ」  沢村が自分の居住空間になっている玄関の扉を開いた瞬間、華奢な青年が彼の腕に飛び込んできた。 「……どうした」  自分の胸に飛び込んできた青年を咄嗟に抱き留めると、その胸に顔を埋めるようにして希は肩を震わせた。 「希……?」  震える肩を抱きしめる。  顎に指を添えて引き上げ、その顔を覗き込むと青い瞳は泣いていなかった。  ――泣いているのかと、思った。 「どうした?」  とてもヤクザとは思えない、優しく、低く響く声で希の耳元にささやいてやれば、希はきつくまぶたを閉じてから唇を震わせた。  今にも泣き出しそうな彼に、沢村はわずかに顔を傾けてから鼻をこすり合わせるようにしながら唇を合わせる。  幼い子供をあやすような優しい口づけに、希の目尻から一筋だけ涙が伝った。 「胸が、痛い……。僕がなにもできないから、だから、誰も僕のことを必要としない。必要としてもらえない。……い様なら、僕のことを必要としてくれたかもしれないのに、もう”どこにも”いない」  半分以上は無意識に口走った言葉だろう。  ――翡翠様。  かすかに沢村にはそう聞き取れた。 「俺がいる」 「……――え?」 「おまえには俺がいる。それでいいだろう?」  唇を合わせたままでそう言ってやれば、先ほど口走った言葉を覚えていないのか、希は瞠目して沢村の鋭く、けれど怪しく光る瞳を見つめ返す。 「俺がおまえを守ってやる。おまえが誰かを守る必要なんてないんだ。おまえは、ただの医者なんだからな。それを恥じることはない」  世間一般的に言えば、医師であるということは充分に社会的ステータスだ。  だから、決して希が自分を卑下することなどないと、教えてやりたい。ヤクザの自分などよりもずっと多くの弱い人々を守るだろう。  沢村は、希が守る弱い人々につけ込み、傷つけ、最悪の場合、死に至らしめる。 「俺にはおまえが必要だ。俺にはないものをおまえは持っている。それで充分だろう?」  大きな手のひらで希の背中をなでてやっていると、激しかった鼓動がやがてゆっくりとしたものに戻っていく。 「おまえがいるから、俺は人間でいられる……」 「僕が、いるから?」 「そうだ」  そう。  希というか弱い恋人がいるから、沢村は人間的な部分を失わずにいられるのだ。希が常に自分を卑下し、無価値だと思い込んでいることは沢村はとっくに気がついていた。  そんな彼が取り乱すようなことが、沢村のマンションに訪れる前にあったということなのだろう。 「大丈夫」  大丈夫――。  力強く言い聞かせるように何度も繰り返すと、どれだけ時間がたってからか、ゆっくりと希の体から力が抜けた。 「落ち着いたか?」 「……――俊明さん」  不安で心許ないときにキスをねだるのは希が沢村にだけ見せる部分だ。 「あなたのそばにいたい、ずっと……。なにもいらないから……」  そんな言葉を告げる希の額にキスを落として、沢村はもう一度無防備な恋人の唇に自分の唇を重ねた。そして先ほどとは異なり、舌を差し入れて、希の舌を絡め取る。唾液を交歓し、長いキスを味わいながら、玄関の扉に彼の体を押しつけてあいているほうの手で彼の帯を無造作にほどいた。 「……ここで?」 「いやか?」 「……――かまいません」  凶暴な彼の愛撫を受けながら、小動物のように震え、それでもその激しさを求める希が、沢村は心底かわいらしいと思った。どうせ、部下たちには希が沢村の恋人だということはばれている。  今更声が聞こえたところで、彼らが動揺したりするようなことはない。  逡巡しつつも沢村の求めに応じた希を、支配者の男はほしいままにむさぼった。

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