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2 取り替えっこ

 夢を見ていた。  強烈な、そして圧倒的な存在感を持つ彼に惹かれた。  けれどもきっとそれだけではない。  男が裏の世界の住人であることを知りながら、彼に惹かれたのはきっと自分も同じ場所に立っていることを自覚していたからだろう。  何度か大学病院で彼を見かけるそのたびに、心が惹かれていき、最初の出会いと、数回言葉を交わした後――たまたまひとりきりで構内を歩いていたところをばったりと出くわして、心臓の鼓動が早まった。  とっさに手にしていたファイルを取り落とし、着物の裾を翻すとそのままきびすを返して彼の前から逃げ出した。  顔に血が上っていたことなどもちろん自覚してなかった。 「おいおいおい、どうしたんだ」  わざわざヤクザの男が希の落としたファイルを手にして、早足で追いかけてきたのもいけない。 「……――っ、ち、違うんです。すみません」 「小鳥遊、そう動揺するな。どうしたんだ、今までだって何度も顔を合わせてるって言うのに」  ――そうだ。  何度も顔を合わせている。  時折言葉さえ交わした。  けれども、その時までは自覚などしていなかった。  気さくな物言いに、口元を押さえた希は「ほら」とファイルを手渡されて、咄嗟に受け取った。  指先がかすかに触れあっただけで、鼓動はさらに早くなる。 「顔が赤いな、熱でもあるのか?」  友人と共にいるときに会う彼と、たったひとりだけでいるときに出会う彼とでは、なぜだかその表情すら異なって見える気がして、思わず壁に顔を向けて、沢村に背中を向けた。失礼な態度をとっていることはわかっていたが、彼の顔を見ていると声が出なくなるような気がした。 「まがりなりにもこれからお医者の先生になるんだから、体調管理くらいしっかりしろよ」  どちらが先に、というわけでもなかったのかもしれない。  どちらともなく互いの存在を意識していた。 「それにしても、おまえはいつも和服なんだな。実習のときは白衣だからそれらしく見えるが、服は和服だけなのか?」  なにげなく言ってくる男の視線が自分を見ていることを感じ取る。  きっと頭の先からつま先まで全てを見ている。 「……僕は、子供の頃からこんななので、洋服の選び方がわからないんです……」  答える言葉が震えた。 「それにしたって金がかかるんじゃないか?」 「まだ、学生の身ですから、そんなに自分で買うことがないのでわかりません」  そんな希の言葉に、沢村は「ふぅん」と応じてから、大きな手を希の肩に手をかける。 「それはともかくとしてだな。俺は話し相手の背中を見てしゃべる趣味はないんだがな」  ぐるりと、強い力で体を翻された。  彼の高い体温を肩に感じて、青い瞳が瞠目した。 「す、……すみません」  相手は暴力団の幹部格だ。  手を上げられれば、希には抵抗のすべがない。仮に、小鳥遊家の人間としての能力を持って生まれていれば、暴力から身を守ることができたかもしれないが、少なくとも腕力的にも、小鳥遊家の人間としても非力極まりない希には彼を怒らせればどんなことになるのかも想像がつかなかった。  いくら顔なじみでも、突然変貌するのが暴力団に属する人間たちだ。  もしも、彼の世代の小鳥遊家の親族である桜龍ほどの体術を身につけていればどうにかすることができたのだろうか。  ちらりとそんな思いが頭をよぎった。 「顔が真っ赤じゃないか」  気遣うような男の声。 「どうした、急に俺から逃げるなんておまえらしくないぞ」  頬を片方の手のひらで覆われて、希は動揺した。  この、心臓の早さなはんだろう。  なぜ、かれと面と向かうと言葉が出てこなくなるのだろう。 「俺は、堅気には乱暴しない。心配するな」  まぁ、堅気の連中が俺たちの世界に片足突っ込んでくるなら話は違うがな。そう続けてから、長身を少しだけかがめるようにして、それでも俯こうとしてしまう青年の青い瞳を覗き込む。 「友達に、なにか妙なこと吹き込まれたか?」 「……そうじゃありません」  やっと聞こえるような声で呟いて、希は胸を押さえようとしてあげた手を、男の頬を覆っている側の反対の手で優しく手首を捕まれる。 「なにか俺がおまえの気に障るようなことでもしたか?」  やくざの男が自分などというちっぽけな存在を気遣ってくれる。  生まれた時にはすでに、小鳥遊として、「不用」という烙印を押された青年は、人間として誰かに必要とされる仕事に就きたかった。  小鳥遊として不用な存在であっても、小鳥遊家の血筋は、女を殺す。  だから、昔は希のように「不用」の烙印を押された子供は、生まれてすぐに殺されるか、座敷牢に死ぬまで幽閉され飼い殺しにされるかのどちらかだった。  ――いらない子。  現代に生まれた両親はそんなことを言ったりしない。姉も、弟のことを卑下するようなことはしない。世間的に見ればごく一般的な家庭だった。  それでも、希のように「不用」の烙印を押された子供は戦後、何人も生まれていなかった。 「僕みたいな、意味のない人間なんて、あなたには必要ないでしょうから……」  今現在――、小鳥遊に属する人々は、数十年ぶりに産まれた「不用の子」の存在に対して寛容だ。それでも、不用とされた子供に植え付けられた劣等感など消えはしない。  小鳥遊でありながら、子供を残すことも忌避され、小鳥遊家の外の女性と恋愛をすることもかなわない。自分は人間として、――そして小鳥遊として意味を持たない存在なのだと思い知った過去。  屈辱的な――。  小鳥遊の誰もが彼を「かわいそうに」と腫れ物を扱うように接し、その周囲の行動が幼かった彼をさらに傷つけたこと。  そして、何よりも彼を傷つけたのは、同じ世代に「桜龍」がいたことだ。  「不用」の烙印を押される子供が生まれることはそれほど多くない。せいぜい一世紀に三人から四人だった。けれども龍をその身のうちに秘めて生まれる子供はもっと少なかった。桜龍の前に龍を宿して生まれた子供は、江戸時代よりさらに前、戦乱の世まで遡ったという。  かつて、龍を宿す小鳥遊家の人間は、玉体を守るために京都に仕えたと伝えられる。しかし、現代にあって、その必要性は問われない。むしろ小鳥遊がいては困るのだ。魔術や呪詛にとらわれた原始的な国家であってはならない。  そうして、明治時代に小鳥遊と玉体は切り離された。  だが国家運営という観点からは切り離されず、闇の社会から日本という国を同様に和泉家と支え続けている。  生きている意味がない。  戦前であれば、あっさりと殺されていただろう。  そんな事情など沢村は知らない。  けれども、希の中に住み続ける劣等感とも自己卑下とも言えるものはトラウマのように棘となって魂の奥に突き刺さって消えないのだ。  誰にも必要としてもらえない子供。  希が生まれた時、自宅の庭になぜかトルコキキョウが一輪だけ花をつけていた。  どこから種が飛んできたのか。  それすらもわからない。  だから、彼は「希望(のぞむ)」と名付けられた。 「意味がない?」  どうしてだ、と問いかける沢村に必死で頭を横に振った希に、ヤクザとは思えないほど優しく笑いかけた。 「人間誰だって生まれた時には意味なんてないさ。その人生にどうやって意味を見つけ出すかは人それぞれだろう。俺みたいな悪党も、おまえみたいな清廉な奴も」  沢村が告げる言葉はもっともだった。  小鳥遊という家柄を除けば。  わかっている、小鳥遊に生まれなければ人生の意味を自分で探していけたかもしれない。それでも、希は小鳥遊に生まれてしまった。  同世代が集まる席に着いても、希は遠縁の従姉妹兄弟(いとこ)たちから、侮蔑の眼差ししか受けてこなかった。そんな希に上座からやってきた桜龍が、下座の希の横に腰を下ろした。 「こんにちは」  桜龍は、遠縁の親戚筋の中でも格が違った。  見ているだけで圧倒される。  年齢は、希よりも三つほど下だったと記憶している。 「わたくし、桜龍というの。あなたは?」  無邪気に問いかけられた。 「……僕は、希、です」 「希さんはお医者様になるための勉強をしてるって、お父様に聞きました。お医者様を目指されるなんて、素敵ですね」  桜龍が希に話しかけたことによって、小鳥遊の同世代の集まる交流の席の空気が変わった。 「わたくしなんて、お兄様たちが四六時中くっついているんですもの、とっても窮屈でならないんですよ」  唇をとがらせた桜龍に、背後から近寄ってきた桜龍の兄がふたりそろって、軽い力でぽかりと桜龍の頭をたたいた。 「俺たちはおまえのことを心配してやってるんだ。それを窮屈とはなんだ」 「だって……、お兄様、学校の送り迎えまでしてくださるじゃない。お友達にからかわれて、一緒に遊びにもいけませんし……」 「カラオケとかどうせそんなやつだろう。そんなもん、いくら友達相手でもつきあう必要はない」  黒い髪に白い房が二カ所まざっていて、瞳は白灰と藤色だった。  金髪の希よりはあまり目立たない。 「わたくしたち、取り替えっこできれば良かったのに……」  ぽつりと桜龍が意味深な言葉を呟いた。  その言葉の真意を、希には年月を重ねても理解ができないでいる。  龍を秘めた小鳥遊家の懐刀。  どこかさみしげな桜龍に、希は「そうですね」とは言えなかった。 「……僕、あの……――」  目の前にいる誰よりも強靱な男に、いつの間にこんなにも恋心をいだいていたのか。 「おまえはおまえだ。おまえという”価値”がある」  告げられた瞬間、思わず希は男の背中に両腕を回して抱きついていた。  男を好きになるような趣味はなかった。それでも、目の前にいる男に縋らざるを得なかった。 「おい……」 「……す、好きです」 「小鳥遊?」 「沢村さん、あなたのことが、好きです。好きなんです。ずっと好きだったのかもしれません」  もう自分でもなにを言っているのかわからなかった。  「いらない子供」という烙印を押され、泥沼のような場所に足をとらわれた自分を、彼の強い力で引きずり出してほしかった。  彼ならきっと自分を引きずり出してくれる。  そう思った瞬間、秘め続けた思いは言葉になってあふれ出す。 「……俺も、おまえが好きだよ」  情熱的な希の愛の告白に、驚く様子もなく沢村俊明はきつくしがみついてくる青年の顎をそっと引き上げるとそのまま重ねるだけのキスをした。  それが、希にとって初めてのキスだった。 「慎み深くて、奥ゆかしい。それなのに、おまえの目は俺を見るときだけ、縋るようにこの青い目を潤ませる。本当におまえは、男を落とすのがうまいな」  冗談まじりの彼の言葉に、希は沢村のスーツを身につけた背中を抱きしめる腕にさらに力をこめた。   * 「……目が覚めたか」  低く落ち着いた声に首を回す。  体はすっかり清められているようだ。きっと泥のように眠っていたのだろう。 「……――好きです」 「知ってる」 「あなただけが、僕を必要としてくれる……」 「……俺にはおまえが必要だ。だからなにも心配いらない」  金色の髪を男の指で梳かれて希はその心地よさに目を閉じる。 「どうか、捨てないで……」 「大丈夫だ、どうした。怖い夢でも見たか?」 「……怖い、夢。……怖かった」  生まれ落ちた瞬間に押された烙印は消えない。 「僕にはあなたしかいない」  一途な恋人に、沢村はそっとベッドの端に腰掛けていた体を傾けて、震える唇に口づけた。そっと舌を差し込んで、彼の不安がる舌を絡め取る。  唾液を交わす音を立てながら長いキスをしてやると、ようやう落ち着いたのか希の体から力が抜けた。 「おまえは”必要な子”だ」  そう告げられて、希の閉じた両目から一筋の涙が伝った。  ”いらない子”ではない。  ”必要な子”だ、と。  沢村が言い聞かせるように告げる。  たったそれだけのことで、希の心は満たされた。  ――いらないって言わないで、いらない子だって言わないで。  いつだったろう。  希は沢村に必死ですがりついてそう言って泣いた。そのことを、沢村は覚えていた。  それがうれしくてたまらない。 「俺も、好きだよ。……希」

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