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3 Eustoma

「今日は休みだったな」  男の優しい声に希は差し出されたコーヒーカップを受け取った。  どうせ沢村が煎れたものではないのだろうが、そんなことは付き合っている間にとっくに知っていることだったから、今更それについて希もなにも言わない。もちろん希から沢村に好意を伝えて、ふたりの付き合いが始まってからは驚きの連続だった。もっともそれは沢村にとっても同じで、小鳥遊家という旧家にに生まれた希の生活習慣や常識は男を驚かせてばかりだった。  今では沢村の生活空間の中に当たり前のように希の着物をしまう桐の箪笥がおいてある。高価な着物と帯を彼のために準備してやるのは沢村のすさんだ生活の中のささやかな楽しみだった。 「はい」 「俺も休みにしたから、今日くらい一日一緒にすごそう。連れて行ってやりたいところもあるしな」 「……僕のために、そんなことまでしてくださらなくても……――」 「おまえのことだから”してやりたい”んだよ。おまえが気にするようなことじゃない。それに、おまえ、今日が何日か覚えているか?」 「えっと……、七月十七日……あ」 「おまえの誕生日だ。恋人の誕生日を祝ってやらない男ほど無粋な奴はいないだろ」  もやもやと桜龍のことを考えることが多かったせいで、自分の誕生日などすっかり忘れていた。そもそも、三十路手前にもなれば、誕生日など余り意味がないのが一般的だ。 「……――ありがとうございます?」 「そういうことだ。十一時になったら出かけるから準備しておけよ。おまえの着替えはいつものクローゼットに置いてある。箪笥の一番上の段をあけてみろ、おまえに似合うと思って買っておいた」  なんでもない口調で告げられて、希は彼の言動に思わず目を瞬いた。 「あと、おまえが着ていたものは後で洗って届けさせる」  着物の手入れというのは金がかかる。  いわゆる沢村の「洗って届ける」というのは、本格的な着物の洗濯をしてくれるということなのだろう。 「おまえには、最高級のものが一番似合う」  まだ、肌襦袢と長襦袢の前が開かれたままの希の胸に手のひらを這わせるようにしてから、顔を近づけた沢村がそっと耳元にささやいた。 「……っ、き、着替えてきます」 「あぁ、そうしろ」  ボッと顔を赤らめた希の様子に喉を鳴らして笑った沢村は、ベッドから降りようとしてそのまま膝が砕けた恋人の体を支えてやった。 「あ、……ありがとうございます」 「いや、おまえの世話を焼くのは俺の楽しみだから気にするな」  下半身に感じる鈍い痛みは、沢村が愛した気持ちそのままだと思うとそれすらも希の心を温かくした。もっとも、その行為を思い出すとつきあい始めた頃と同じように顔が赤くなるのは止められない。 「……一番上の箪笥」  言われたとおり、開くとそこには真新しいたとう紙に包まれた着物があった。  そっと取り出して、たとう紙を開くと正絹の沙の白い着物が現れる。足下には波がうねるような装飾が施されていて、どこか女性的だ。きっと、沢村が職人に仕立てせた一品ものだろう。  一緒に包まれていた帯は藍色で希の青い瞳とよく似ている。それが白い着物をさらに際立たせる。  さらに同じ生地で作られた羽織が準備されており、誰から見ても希の容姿を引き立てるために作られたものだということがわかった。戸惑いながらも袖に腕を通し、慣れた仕草で着付けを終えると、ウォークインクローゼットから出てくると、いつものようにスーツ姿の沢村がたばこを吸いながら、膝を組んでソファに腰を下ろして待っていた。 「……俊明さん」  呼びかける希に、沢村が振り返る。 「似合いますか?」 「俺がおまえに似合うと思って仕立てさせたんだ。似合わないはずがないだろう。それに、思った通りだ……、その生地だと色気が増す。このままここで押し倒したくなるな」  くつくつと笑った沢村はなめ回すように希を見つめて、その着物を脱がせるところを想像した。そんな彼の想像が伝わったのか、希はかっと白い肌を上気させる。  互いが、互いを求め合う。  当たり前のように。  薄手の光を通す沙は、希の日本人離れした美しさを際立たせる。  思った通りだ、と言いたげに大きく頷いた沢村がたばこを灰皿に押しつけてもみ消すと、腕時計を見てから立ち上がった。  沢村が選ぶ着物はどれも高級品ばかりだ。  実家にいた頃も、自分で買うようになってからも、沢村が選ぶ以上のものなど身につけたことがない。だから、彼の選ぶ着物に腕を通すときはいつも胸の鼓動が早くなった。  ――いらない子、としての烙印を押された自分にこんな高級品を身につける資格があるのだろうか、と。 「そろそろ時間だな」  ちょうど十一時になる頃だった。  ノックが三回鳴った。 「入れ」 「理事長、下に車の手配をいたしました」 「わかった」  権力を持つ人間としての言葉。  それこそごく当然の。躊躇などひとかけらもなく彼が短く命じると、ドアノブを回して入ってきた中谷が最小限の言葉で伝えるべきことを沢村に伝えた。 「行くぞ、希」 「……――はい」  多くの者たちを束ねる立場にある人間が取る行動。  それを知らない希ではない。  だが、それは沢村と付き合う前の希が知るべくものではなかった。それは希の取るべき態度では決してなかった。希には不釣り合いなもの。  たとえば桜龍であれば、それを当然のものとして受け入れられたものなのかもしれない。だから、希は沢村と付き合いだして初めてそんな風に大切に扱われた。侮蔑を受けるわけでもなく、卑下されることもなく。沢村の恋人として誰よりも大切に、沢村の部下たちからも当たり前のように大切にされた。  そんな体験は初めてだった。  権力者として堂々と歩き出す沢村に、中谷は希に対して小さく会釈した。中谷は先に行けと言っているのだ。沢村に一歩下がってついて歩く希の後ろを、ふたりを守るようについていく中谷の存在。  三人はエレベーターに乗り込むと、そのまま地下の駐車場に出ると開いた扉の前につけられた黒塗りのベンツに乗り込んだ。  希の定位置は運転席の後ろ。  沢村は助手席の後ろに座る。  運転席に座るのは希が見慣れない青年だった。助手席に座った中谷が口を開く。 「希さんの護衛には、平城(ひらき)を着けます。それでよろしいですか? 理事長」 「おまえの人選なら間違いないだろう。任せる」 「希さん、よろしくお願いします」  顔立ちの整ったいかにも秀才然とした若者で、希とそれほど年齢は変わらないと思われた。中谷と同じように黒いスーツを身につけ、濃紺のネクタイを締めている。 「こ、こちらこそ……?」  どういうことだろう。  希は困惑しながらぺこりと頭を下げた。  卑屈な感情に陥りがちの希はどうしても自分がこんなにも大事にされることに未だに慣れずにいる。 「ところで、親父にはまだ希のことはばれていないだろうな?」 「大丈夫です。今のところ、理事長の愛人は女だと思っているようです」 「だろうな」  遠目であれば、希は充分に和服姿の女で通用する。  だが、羽織を身につけている時は注意が必要だった。  運転席でステアリングを握る平城は、エンジンをかけて、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。ヤクザとはとても思えない丁寧な運転だ。 「平城はわたしが、この手で全てを教え込みました。なにがあっても絶対に希さんのことを漏らしたりはしません。ですからご安心ください」  名前は平城(ひらき)(あきら)だと、青年は告げた。  それ以上のことを言わないところは、中谷自身が仕込んだとあってどこか中谷と似ている雰囲気を持っている。 「いざというときは、役に立つ男です」 「わたしのことは呼び捨てにしてくださってかまいません、希さん」  感情を余り感じさせない声で自己紹介を終えた彼は、それから車の運転に集中したようだった。 「これから行くところは、おまえも気に入ると思うぞ」  中谷と平城の存在を気にかける様子もなく、希の肩を抱き寄せた沢村が笑み含みで告げた。その笑みの理由がわからない。  誕生日だから、と沢村は言った。 「俊明さん、この着物は、誕生日プレゼント、……ですか?」  本来、小鳥遊家にあっては、希はこんなにも高価な着物を身につけられる身分ではない。だから、尋ねてみた。 「そうだ。俺は、俺の恋人がひどい格好をしているのは我慢ならないタチなんでな」 「……あ、ありがとうございます」  彼に大切にされていると思い知らされる度に感激が心の奥からあふれて言葉が見つけられなくなる。どの着物もそうだ。沢村が選ぶ希の着物は最高級のものを選んでくれる。だからといって特別財力を見せつけるわけでもない。  彼にとっては当たり前の出費なのだろう。  それからしばらく車に揺られて、希がうとうとと沢村に体を預けて眠りかけた頃、静かにベンツが止まった。  気がつけば郊外の緑あふれる小高い丘の上に連れてこられていた。 「……こ、こは?」 「おいで」  手をさしのべられて、沢村の手のひらに自分の手のひらを希が重ねる。 「わたしは裏に回っています。なにかありましたら、連絡をください」  平城は運転席から出ると、そのまま歩き出して木々の間に消えていく。 「わたしはここでお待ちしています」 「なにか動きがあるようならいつでも呼べ」 「は……」  林の中の細い道を希は沢村に連れられて歩いて行く。  いったい彼はどこに連れて行こうというのだろう。  希は訝しんでそっと沢村の横顔を見上げた。  数分歩くと開けた土地が姿を見せ、そこが屋敷林に囲まれた今時では珍しい純和風の二階建ての屋敷だった。  見ただけでわかる。  これは普通の大工の建てたものではない。  宮大工によって建てられた屋敷だ。 「ここ……」 「平城を自由に使って良い、ここがおまえへのプレゼントだ。この山を含めてな」  もちろん、と沢村は続けた。 「おまえが屋敷の掃除をする必要もないし、山の管理をする必要もない。そんなことは全部業者を手配してやる。平城はおまえの護衛だ。俺と中谷が動けないときもある。そんなときは平城を頼るんだ。いいな?」  立派な屋敷だった。  これは、小鳥遊一族の本家にも劣らないのではないだろうか。  やや呆然と屋敷を見上げていた希は沢村に手を引かれるままに屋敷へと入った。 「気に入ったか?」  本来であれば座敷牢で飼い殺しにされてもおかしくはない自分に、こんなにも立派な家を与えてくれる彼に思わず希は沢村の腕にすがりついた。  希の感覚が追いついてこない。  同じ世代の小鳥遊の親戚たちよりもずっと贅沢な環境にいる。  それが希を困惑させた。 「……きれい」 「あぁ、おまえの好みで造ってやったからな」 「この屋敷からなら、おまえの勤め先まで車ならそれほど時間はかからないだろう。平城が同居することになるが、あの男は中谷が目をかけて育てた男だ。おまえには指一本触れない。どうだ? ここに住む気はないか?」  優しくささやく沢村の腕に、希は顔を押しつけた。  今までのマンションでは沢村が会いに来るにも人の目がありすぎる。 「今のマンションはもう残りの支払いは済ませてあるから、なにかあればそのまま使えば良い。こっちの屋敷は、着物も全部用意してあるからいつでも使える。気に入っただろう?」  希の内心を見透かすように続けた沢村は、希の震える肩をそのままにして顎を引き上げると、そのこめかみに口づけた。 「……とても、素敵です」  こんな家に住める時がくるとは思っていなかった。 「でも、いいんですか?」 「おまえは俺の恋人だ。恋人に尽くすのは男の甲斐性だろ?」 「……――っ」  言葉が見つからなくて、今度こそ希は華奢な腕で力一杯沢村に抱きついた。  自分の人生を、あきらめたのは十代の初めの頃だ。  自分の人生にはなにもないと、思っていた。  小鳥遊という名を持つ医者として、飼い殺しにされるだけだと、思っていた。  それでもいいと、諦めていた。 「……――うれしい」  溢れ出した涙が止まらない。 「その言葉が聞けて安心したよ」  愛されている。  それがうれしくてたまらない。  贅沢なんてしたいわけではなかった。  けれども、小鳥遊家の人間たちと同様に、人並みに、あるいはそれ以上に諦めていたものを与えてくれる彼の存在がうれしくて、涙が止まらない。 「おまえの部屋は万が一を考えて二階にしてある。平城の部屋は玄関の左横だ。だが、物騒だからあまり入らないほうがいいぞ。おまえの心臓に悪いからな」  含みのある口調でいたずらっぽく言われて、希は自分を見つめてくる沢村を見つめ返した。 「愛してるよ」  そう告げられて再び唇を重ねた。  広い玄関に二人で抱きしめ合って舌を絡ませて濃厚なキスを交わす。 「俺が、おまえの人生を背負ってやる。だから、なにも心配するな」 「……はい、……はい」

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