14 / 35
4 二条
警視庁の廊下を歩く桜龍と高橋は思わず足を止めた。
前方から向かってくるように歩いてくるのは、遠野 弘庸 だった。キャリア組の警視で今回の事件の捜査の指揮を執る管理官でもある。
素早く敬礼したのは桜龍のほうだ。
一歩遅れて、高橋が敬礼をする。
その姿を認めて、遠野警視は返礼を返してきた。
「外回りご苦労だったな、小鳥遊、……と高橋」
とってつけたように高橋は名前を呼ばれてぶすりとかすかに表情をゆがめたが、キャリア組の上司を相手に論争したところで、無駄なことは知っていたからあえてそこは口を噤んだ。
「遠野管理官もお疲れ様です」
にこりと笑った桜龍に片方の眉をつり上げた遠野だったが、一瞬だけなにか考え込んでから、臆することもなく自分に近づいてくる女刑事を眺めていた。
キャリア組の管理官、というだけで、捜査一課の刑事や所轄の刑事は嫌悪の空気をあらわにするというのに、桜龍は違った。
もっとも、遠野自身、さらに上層部の命令によって小鳥遊桜龍を無下にすることができないという現実もあるにはあった。
東京大学法学部卒業のエリートがなぜこんなところでノンキャリア組として警察官として仕事をしているのか、遠野にはさっぱり理解ができない。
――小鳥遊桜龍は、丁重に扱うように。これは厳命だ。
呼び出された遠野は、警察庁長官にそう強い言葉で告げられた。
「どういうことですか?」
一介の警部だという小鳥遊桜龍という刑事を丁重に扱えという、言葉の意味がわからない。
「そのことについては、遠野警視。君が知るべきことではない。君が理由を知らなくてもかまわない。黙ってわたしの命令に従い給え」
理不尽で不可解な命令を受ければ誰だって面白くないというのは、キャリアもノンキャリアも同じだった。しかも、本来であれば小鳥遊桜龍にはキャリア組になれるだけの実力があったらしいというではないか。
「……遠野管理官、お話があるんですが」
何度か名前を呼ばれたような気がする。
左右の異なる色彩の瞳に見つめられて、思わず思考の底に引きずり込まれるところだった。
「それは、ここでできる話か?」
「……いえ」
口ごもってから首を横に振った彼女はちらりと自分の相棒を振り返った。
「俺は報告書を書きに戻るから、終わったら来いよ」
「……ありがとうございます、高橋さん」
そそくさとオフィスへ向かう高橋を見送ってから、桜龍は遠野の反応を伺った。
一介の刑事でしかない自分の話など、警視である遠野が聞いてくれるだろうか。そんな不安が胸をよぎった。
「そこの会議室でいいか?」
「……あ、はい」
桜龍の提案に思いの外あっさりと頷いた遠野は、返事を聞きながらすぐ手前にある会議室の扉を開いた。室内の明かりをつけ、会議室の真ん中に近いパイプ椅子をふたつ引いて遠野は桜龍を招く。
「座れ」
言われて桜龍はおとなしくパイプ椅子に腰を下ろした。
日常的に和服と袴という目立つこと極まりない刑事の前に、会議用の長テーブルを挟んで遠野も腰を下ろす。
「それで、話というのは?」
「管理官は、今回の連続殺人をどのように捕らえておいでですか?」
女性誘拐殺人事件――。
ちまたではメディアがこぞって取り上げている話題でもある。
その事件を遠野の指揮のもと、刑事たちが連日足を棒にして捜査している。
「言ってることの意味がわからないが」
「……すみません、少しはしょりすぎました」
つまり、と彼女は続けた。
「今回の連続殺人は、確かに予想できる範囲内で犯行に及んでいます。日本でもまだ稀ですが、この一連の犯行が”予想できる範囲内”のものであるとしたら、本官はこれを快楽殺人であると考えております」
同じタイプの被害者。
同じような殺害方法。
「おそらく、犯人は複数ではなくひとり――」
「なにが言いたい」
「つまりこれが快楽殺人であると仮定すれば、一人目の被害者と、二人目の被害者の死亡日時は約半年の期間が空いています。三人目は二人目の死亡日時から四ヶ月後。アメリカのプロファイリングを参考にすれば、この一人目の被害者が”一人目”ではなく、二人目、あるいは三人目という可能性もあるのではないでしょうか」
告げられた言葉は衝撃的だった。
「快楽殺人をする人間は、概してその犯行がエスカレートしていくと言います。一人目と二人目が半年の期間を経ているのであれば、もしかしたら……この一人目の前の一年ほど前に別の誰かが殺されていてもおかしくありません」
快楽殺人犯というものは幼少期に虫や動物などを殺しているケースも多い。
そしてそれらの行動が性的衝動と重なると、大変な事態を引き起こす。
「この事件、過去の事件も洗い直してみる必要性があると思うんです」
「小鳥遊警部、そんなこと私が気がつかなかったと思わなかったのか?」
「……え? あ……、失礼しました」
「とはいえ、確かに過去の失踪事件は当たってみる価値はあるかもしれない。参考になっ……」
遠野が言葉を言い終えようとしたそのときだ。
ずしんと、大きな縦揺れを感じた。
「……なんだ、そこそこでかい揺れだな」
――震度四くらいか。
ぽつりと呟いた、彼に対して、桜龍はかすかに眉をひそめた。
背筋を駆け抜けた雷のような衝撃は、きっと目の前にいる遠野にはわかり得ない。
むしろ、それを理解することができる人間のほうがよほど珍しい。
揺れはすぐにおさまった。自分のモバイルを取り出して遠野は震度と震源地とマグニチュードを確認すると桜龍に目を向ける。
「震源は埼玉南部らしい、最高震度は五だそうだ」
「……そうですか」
「とりあえず、さっきの話は頭にいれておく。おまえも報告書を書かないとまた徹夜になるぞ」
「承知しました」
震度五程度であれば、日常茶飯事だ。
特に日本人としては大騒ぎするほどのものでもない。
「失礼します」
椅子から立ち上がった桜龍は再度遠野に敬礼をしてから、着物の袖と、袴を翻す。
嫌な予感がする……――。
*
いつも通りの時間に希は目を覚ました。
目覚まし時計が必要なわけでもない。浴衣の乱れもほとんどなく上半身を起こした彼は、文机に置いてある時計に目をやった。
沢村俊明によって与えられた屋敷での生活ももう半月になる。
うだるような暑さだが、屋敷林を駆け抜ける風はその暑さからも屋敷を守っていた。アスファルトで固められていない地面は、熱を吸い込み、夏というのに存外穏やかな日常だった。
――おまえが仕事をする必要なんてないんだぞ?
沢村は希にそう告げた。
「わたしには、小鳥遊の病院にいなければならない義務がありますので」
優秀な医師でありながら、手術に入ることもごくまれで、研究に主な時間を費やす毎日を送っている。
端から見れば、財力のある恋人がいるならば仕事などしなくても良いだろうと思うかもしれない。
しかし、「不用」と烙印を押されながら、希には小鳥遊家の人間としての義務があった。
警察官となって働いている桜龍を見守ること。非力な希には桜龍にしてやれることなどほとんどない。だが、彼女の名前の伝わるものから推測するに、彼女を見守る――監視する人間というのは必要なのだ。
「そうか、まぁ、いい。好きにしろ」
非力な希だったから、彼は大概の場合、外科医の割には定時で上がることが多い。それも小鳥遊総合病院の上層部から命じられたものだ。
「希君、君は医療に熱心に携わる必要はない。万が一、桜龍が最悪の事態に陥ったとき、そこに駆けつけられるよう、常に体をあけておかなければならない。わかったね」
「はい……」
人を救いたいと思い医師になったというのに、結局、希は小鳥遊と家にとらわれる。
自由のきかない――まるで鳥かごの中にとらわれた鳥のようだ。
ため息をつきながら、病院の通用口を出たところで、ぴったりのタイミングで黒いベンツが路上に滑り込んできた。そして、いつものように運転席から降りた平城旭が後部座席の扉を開いて希を招く。
「乗ってください」
「ありがとうございます」
「今日は理事長のところへ一度立ち寄ります。お帰りが何時になるのかはわたしにはわかりかねますが、駐車場で待機しておりますので、お帰りになるときはメールをいただけると助かります」
「わかりました」
誕生日プレゼントと称して、屋敷を丸ごともらってから、希は沢木に会っていない。おそらく忙しいのだろう。
彼には表社会の稼業と、裏社会の稼業のふたつがある。
「俊明さんは、お忙しいんですか?」
「……はい、組対 の連中に目をつけられているというのもあるのですが、理事長補佐のところでなにやら問題が生じたらしいと言うことです」
そのふたつの顔があることを承知で希は沢村と付き合っていたし、小鳥遊家の希の家族も承知しているから、そのあたりに希が後ろ暗い気持ちを抱くことはない。
道は大きく離れていても、希と、沢村はある意味で同じ穴の狢 だったからだ。
「そうですか……――」
嘆息した希に気遣ったのか、「ですが」と平城は続けた。
「今のところ、理事長が組対につけ込まれるようなへまをするようなことはありません。慎重に動いておりますから……、それに、警察内部にも情報屋を送り込んでいますので、希さんが心配されるようなことは理事長には起こっていないですよ」
安心させるように平城が告げる。
自分の恋人が指定広域暴力団の幹部である以上、警察に彼らが追われているのは当然のことだ。それでも沢村は、沢村の言葉通り希を絶対に離しはしないし、希が心を痛めるようなことを希の前でするようなこともないだろう。
「そうですね、心配が過ぎました」
微笑を浮かべた希をバックミラーで確認してから、平城は沢村のマンションへと車を向けた。
いつものように、地下駐車場に入りエレベーターの前で待っていたらしい兄貴分である中谷に希を引き渡す。
自分と一緒にいるよりも、中谷と一緒にいてくれたほうが平城には安心できた。平城には自分が若すぎるという自覚もあったし、まだ中谷のように人を束ねるように人望を得ることは難しいことだ。
「遅かったな」
「すみません、今日は病院の院長と、理事長と話し合いがあったので……」
口ごもる希に、手にしていたグラスの中のアルコールを喉に流し込んでから、唇の端をつり上げて沢村が笑う。
「冗談だよ、おまえの顔が見たかった……、希」
革張りの豪華なソファから立ち上がった沢村が、和服姿の恋人を抱き寄せた。胸元から手を差し入れて、敏感な乳首に指先で触れてから、沢村は希の感じやすい耳の後ろにべろりと舌を這わせた。
「……っ」
ぞくぞくと、快楽の前兆のような感覚が背中を駆け下りた。
「食事の予約をしてある、これから行くぞ」
「っふ、――……ぁ」
片方の乳首を差し込まれた手でなで回すように刺激され、こねるように摘まれればもう抵抗などできるわけもない。
快楽に流されやすい体は正直だ。
「お楽しみは、食後にたっぷり……な」
彼に与えられる快楽が脳裏をよぎる。
希の胸元から手を引き抜いた沢村は、希の肩を抱いたままでエレベーターホールに通じる扉を開くと、奥の廊下に短く、明瞭な声で中谷を呼んだ。
「例のところだ」
「はい」
エレベーターで同様に地下の駐車場に出ると、中谷の車にゆっくりと歩いて行く沢村は唐突に響いた男の声に鼻から息を抜くと不機嫌そうな顔を隠しもせずに振り返る。
「なんだ、高天 さんじゃねぇか。組の連中が見張ってただろうによくこんなところまで入ってこれたな」
「おまえのところは、出入りがあるときはバレバレなんだよ、普段は組員なんてそんなに侍 らしてないだろう」
白髪の交じり始めた三十代後半の男だった。
目つきは悪い。
つり上がった目と、日に焼けた肌。
どちらが暴力団なのかわからないような瞳の鋭さとは対照的に、その彫りの深い顔立ちは整っている。
「今日は俺の恋人の護衛のためだからな。ただでさえ、関西の陳内会の動きも目立ってきてる時期だ。汚い連中のよく使う手を知ってるだろ、マルボウさんよ。それにやくざに恋人がいるのがそんなにおかしなことか?」
薄暗い地下で対峙する沢村と、高天と呼ばれた男はにらみ合うように立ち尽くす。
「おまえさんところの店のホステスが、行方不明だという件はもうとっくに知っているんだろう?」
「俺の店じゃない、常磐の店だ」
「どっちも一緒だ。沢村、俺を馬鹿にしてんのか」
「……――面倒臭いな。俺はこれから恋人とディナーの予定なんだ。面倒な話は勘弁してくれないか。話は今度昼間聞いてやるから、うちの社に来いよ」
そう言って、沢村は中谷を促した。
一歩引いて歩く希が、よれたスーツを身につけた「高天」という刑事とすれ違ったそのときだった。
「……二条!」
高天が文字通りはじかれたような一瞬の動きで、言葉と同時に希の着物の袖から覗く細い手首を掴んだ。
「――……ぁ」
高天と、希の視線が交錯する。
「……希!」
動揺して掠れた声を漏らした希は、日焼けした肌の、整った顔の男の褐色の瞳を見つめ返す。
中谷も、沢村ですら希の、そして高天の視界に入っていないように。
思わず希を守ろうとして手を伸ばしかけて声を荒げた沢村の動きも固まった。なぜなら、希が今まで見たこともないような顔をしていたからだ。
「……――あ、ぁぁ……」
ぼろりと大粒の涙が希の目からこぼれ落ちる。
硬直した希を強い力で引き寄せ、高天が胸の中に抱き寄せる。
おそらく、それはどちらも無意識の行動だ。
沢村は元々、組織犯罪対策部の刑事である高天の存在を知っていたが、今までどうした偶然か、高天と希が顔を合わせることはなかった。
「……ひ、すい様」
小さく震える声で男の名を呼んで、次の瞬間、地下に希の絶叫が響き渡った。
魂と魂を結びつける。
やがて地下の壁に反響した希の声が、しんと静まりかえった時、高天の腕の中で希の細い華奢な体はかくりと力を失った。
「希をよこせ!」
我に返った沢村が高天の腕から思い切り希の体を引き寄せて、そのままの強さで抱き上げる。
「悪いが、お開きだ。高天、おまえの用は後でじっくり聞かせてもらおう」
ドスをきかせた沢村の低い声が静かに響き、高天にくるりと背中をむけた。
「中谷、来い」
下ってきたエレベーターに乗り込むと、再び最上階の自宅へと帰っていく。
高天は希を――二条、と呼んだ。
そして希は高天を――翡翠、と呼んだ。
翡翠――。
それはうなされる度に希が呼んだ名前であることが、沢村を苛立たせる。沢村ではない男の腕に抱きしめられ、絶叫して意識を失った希。
なにがあったのかはわからない。
それでも、希が大きなショックを受けただろう事実は変わらない。
高天という刑事はいったい何者なのか、と不快に思いながら、沢村は寝室のベッドへと希を運ぶとそっと失神した恋人をおろした。
ともだちにシェアしよう!