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6 守るべきもの

 高天(たかま)博信(ひろのぶ)。この組織犯罪対策部の刑事はいつも沢村俊明に張り込みをかける抜け目のない刑事のひとりだ。  賢正会理事長、沢村俊明の部下の平城(ひらき)(あきら)は、その中でも屈指の武闘派でもある。加えて頭の回転も速く、中谷同様。組織犯罪対策部にとっては厄介な存在だった。 「なにか?」  表情ひとつ変えずにちらりと視線だけを買い物かごから上げた。スーパーマーケットの買い物かごに入っているのは野菜や魚などと言った和食の食材だ。 「やくざがこんなところで食事の買い出しとは呑気な話だな」 「こんなところで絡まないでください、高天さん」  一般庶民も利用する平凡なスーパーマーケットだ。  ヤクザ者にもそれなりの常識的な感覚はある。下っ端のチンピラはともかく、平城はそういう類いの人種ではない。いずれ、幹部候補にのし上がるだろうとまで言われ、その腕と、頭脳に大きな期待が寄せられていることを本人もよく知っている。  賢正会理事長の沢村の側近――中谷にヤクザとしての技術の全てをたたき込まれたことは、組織犯罪対策部の刑事たちにはすでに知られてしまっているから、今更そんなことを平城は隠すこともしない。  少なくとも、彼にもそれなりの表の顔は必要とされていた。  だからその期待に背くわけにもいかない。 「俺にはおまえがその辺のチンピラと変わらないように見えるがな」 「そうですか」  スーパーマーケットのかごを片手にして淡々と高天の言葉に応じながら、内心で嘆息した。  あの、地下駐車場での一件は一応、平城も知っていた。  彼はそのとき、希のために用意されたベンツを磨いていたのだから。  どんな時であれ、希に――そして沢村俊明に恥をかかせることなどあってはなならない。だから、車の手入れひとつ手を抜いてはならない。 「あなたのせいで、希さんがあんな状態になったんです。少しは責任というものを感じていないんですか?」  いわゆるマルボウと呼ばれる刑事を相手に一歩もひかない青年は、とても三十路を越えたばかりには思えない。 「……――」  ヤクザの女。  沢村俊明の恋人。  沢村に同性の恋人がいることは組織犯罪対策部のほうでも公然の情報で、その名前も知らないわけではなかった。ただ、ほかの刑事たちと違って、沢村の愛人などには関心を持っていなかっただけだ。  中には、沢村の愛人である小鳥遊希に捜査の手を伸ばしている者がいることも知っている。もっとも、大物の人種であればあるほどベッドで重要な秘密など漏らしたりはしない。  諜報の世界では当たり前の現実だ。  第一次世界大戦で名の知れたマタ・ハリがそうであったように。  沢村だって同じだろう。何年も付き合いを続けている恋人相手ならば、なおのこと重要な秘密を話すわけもない。  わかっていながら、伸ばす手を自分の意思とは関係なく止められなかった。  いくら、小鳥遊希が沢村の恋人であっても、彼は一般人だ。やくざ相手は慣れているつもりだったし、やくざと、その外側にいる人間の違いも理解している。  なぜ、自分が止められなかったのか高天にもわからない。  ただ沢村の隣を歩く小鳥遊希を見て、無意識に伸ばす腕が止められなかった。  誰よりも、自分にとって大切な相手だと高天は感じて衝動的になった。 「サロン・キティを知っていますか?」  無表情のまま、平城が言った。 「……あぁ、第二次世界大戦の時の」  ドイツ軍――ナチス親衛隊が作ったという諜報用の組織だ。  要するにやっていることはマタ・ハリのそれと同じだったというが、マタ・ハリが枕営業で失敗した現実は、サロン・キティによって実証された。  要するに、諜報部員たち――あるいは重要機密を握る者はそれをベッドの上では漏らしたりすることはない。 「希さんに張り付いてもなにも出てきませんよ」 「別に俺は、沢村の女に張り付いてるわけじゃねぇよ。俺が張り込んでるのは沢村だ」 「そうですか」  特に感慨というものを感じさせることもなく、平城は真顔のままでレジを通過する。支払いはカードだ。 「俺は魚が新鮮なうちに帰りたいんですが」 「……あぁ、そうしろよ。俺はヤクザの女になんぞ興味はねぇんでな」 「ありがとうございます」  白いスーパーマーケットのビニールの手提げ袋をぶらさげて、平城旭はベンツに乗り込んだ。 「おい」  運転席の扉を閉めようとした平城を高天が呼び止めた。 「なんでしょう」 「俺と同じマルボウで谷口康仁(やすひと)ってやつがいる。そいつに気をつけろ」 「……なぜそんなことを俺に教えてくれるんですか?」 「俺と違ってあいつは手段を選ばない。一般人相手でも、手を抜かないからな」  つまるところ、それは沢村を引きずり出すためなら「一般人」である希を利用するだろうということだ。 「いいんですか? そんなこと俺に教えても」 「あのきれいな兄さんが、賢正会の中枢に関わっているとは思えねぇからな。谷口はなにをするかわからな狂犬だ」 「わかりました」  谷口康仁。  その名前は知っている。  組織犯罪対策部の刑事のひとりで、かなりの事情通だ。おそらく誰かしら情報屋を持っているのだろう。そしてそのやり口が暴力団顔負けの汚い手段を選ばないことも知っている。  沢村の側近、中谷克也ほどの情報収集能力は平城には残念なことに持っていないが、それもやむを得ない。仮にも法曹界に身を置く中谷と平城では社会的立場というものが違いすぎる。 「谷口か……」  ベンツを滑らせるように走らせながら、平城はじっとフロントガラスの向こう側を見つめた。  考えなければならないことは山ほどあった。  彼の役目は、沢村俊明の恋人である小鳥遊希をどんなことがあっても守ることと、その身の回りの世話をすることだ。  料理の技術は特に学んだものではない。  たまたま母がカリスマ料理研究家で、父親がレストランのシェフだっただけだ。父親のレストランには確か星がついていたような気もしたが、幼かった平城にとってどうでも良いことで、家庭を顧みない両親の間で、ごく普通に平城は中学生に入る頃になってから、わかりやすくぐれて道を踏み外した。  それでも根は優秀だったおかげで、ぐれてタチの良くない連中とつるんでいても、学校の成績は常にトップクラスで、大学も修士課程まで進んだ。  専門は社会学だ。  当然、学部は政経学部だった。  大学でもよく女子学生たちからよくもてたような気もするが、その頃にはすでに極道の世界に片足を突っ込んでいたため、余りにも忙しくて恋愛どころの話ではなかった。もしかしたら、自分は女という人種に興味のない人間なのかもしれないと考えたこともあった。  正直、女の裸を見たところでなにも感じなかったし、学生時代はゼミ仲間とそれなりの盛り場にも連れだって足を運んだこともある。  けれどそこにいたのは、男に媚びを売ることしか知らない女たちの卑しさしか見て取れなかった。だから、そんな女たちに関心を持てなかった。  玉の輿に乗るには、自分が美しく誰よりも目を引く宝石にならなければならない。  大概、付き合いというものは互いの格に見合った人間同士だ。  子供の頃から冷めた視線で大人の世界を見てきた平城は、大学で仲間同士の付き合いを経験してそれを悟った。  そういうものなのだ、と。  つまり、彼が付き合ってきた友人らしきものも馬鹿の集まりだったということだ。そのことを悟った瞬間、彼は大学で付き合いのある仲間を侮蔑の目で見るようになった。  この世界は俗物ばかりだ。  両親たちのように、地位と名声があっても皮を剥げば俗人でしかない。  そして、自分も――。  就職先に「沢村商事」を選んだのは偶然だった。  そのとき、たまたま急速に業績を伸ばしつつある会社で将来性を感じた。その話を両親にした時、母はヒステリーを起こしたように沢村商事への就職に大反対した。  修士課程を終えて博士課程に進み、その間に就職するかどうかは考えれば良いのではないかと、つまらないことを言っていたような気もする。  博士課程に進むなら、金も出してやるとかなんとか。  両親からの愛情などかけらも感じたことのなかった平城は、修士課程を終えてからそこで両親とは縁を切るような形で独立し、しばらく後に独立戸籍になった。  初めは修士号を持つ人間とは思えないような貧相なアルバイトから初めて、ぼろぼろの木造アパートに暮らしていた。そうしてある程度の資金を貯めて、彼は沢村商事へと就職した。  そこが広域指定暴力団の根城だったと気がついたのは、それから一年ほどたったことだったが、精神的に荒みきっていた彼にとってもはやどうでも良いことでしかなかった。 「おまえは頭が切れるな。社会学の修士号を持ってるのにこんな会社に就職するなんて、頭のねじが二、三本飛んでるんじゃないか?」 「……そうかもしれませんね」  先に声をかけてきたのは沢村のほうだった。  まだ一年ほどしか働いていない新人に絡んできた。 「どうしてうちなんかを志望したんだ?」 「……沢村商事は急速に業績を伸ばし、将来性を感じました。だから、そのために自分の知識を活用できればいいと思っただけです」  平城旭はやはり今と変わらず当時も愛想のない青年だった。 「なるほど、なかなか肝が据わってそうじゃないか。どう思う? 中谷」 「はい、社長のおっしゃるとおりです」  社長の沢村も、その秘書だという中谷という男も、平城が考える以上に若かった。 「こいつは秘書ってのは肩書きだけで、うちの顧問弁護士なんだ。なにかわからんことがあったら、いつでも相談してかまわんぞ」  平城に向き直った沢村が告げる。 「……はい」 「あと、中谷」  ちらと肩越しに沢村は背後の秘書だか顧問弁護士だかという中谷という男を見やる。 「これだけ肝が据わってれば充分”あっち”のほうでも使えるだろう。いろいろ教えてやれ」 「承知しました」  わけのわからない会話から、しばらくして平城旭は沢村商事の裏の顔を知ることになるが、それでも彼の顔色は全く変わらなかった。  冷ややかな、そしてどこか達観したような眼差しは、彼が小学生の頃から変わらない。 「人の心の本質など、そう簡単に変わるものじゃない」  ステアリングを握った平城は、思い出した自分の過去に唇をかすかにゆがめて苦く笑った。  平城の両親は、自分たちが思うところとは別のところで、旭という化け物を作り出してしまった。しかし、それは彼らの責任であって、平城の責任ではない。罪を償うべきは、彼らなのだ。 「馬鹿な奴らだ」  自分の両親を薄く笑う。  とりああえず、自分が暴力団という巨大な犯罪組織に入ったことに対して青い顔をしたところを見れなかったことだけは残念でならないが。  きっと彼らは、自分たちの名前に汚点がついたことに青くなったに違いない。  絶縁し、独立戸籍になったところで、彼らが自分を生み出したという事実は変わらない。育児放棄に近かった母親と、それを咎めることもせず、自分の仕事に邁進していた父親。現代風に言えば、児童虐待にもはいりそうなものだが、世間的には学校にも出していたし、食事も与えていた。暴力も振るわなかったし、傍目には何ら問題はない。  それでも、平城の心は孤独だった。  入学式にも、運動会にも、卒業式にも全く顔を見せなかったふたりの男女。  その男女から自分が生まれたことに吐き気を感じる。  だから、うれしかった。 「……おまえが希を守ることを、俺は期待している」  ほかでもない、尊敬する沢村に言われたことがどれほどうれしかっただろう。  期待していると、告げられたとき。  沢村のために希をこの手で力の及ぶ限り守り抜こうと決意した。 「感謝するなら、料理をどっかで学ばずにすんだことくらいだな」  プロのコック顔負けの和食とフレンチの料理の腕前を持つ平城は、そういった観点からも沢村から彼の恋人である小鳥遊希を任されたのだ。  それで良かった。  それまで中谷の舎弟ではあったが、それ以上の存在ではなかった。  沢村に期待されることがどれほどうれしかっただろう。 「必ず、俺の力の及ぶ限り……」  希を守り切る。  そう心に誓った。

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