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囚の章 1 箱庭
――こっちへ、おいで……。
まるで、子供が誰かに手を引かれるように。
「彼」は言われるがままについて行く。
どこが夢見心地なのはなぜだろう。そう「彼」は考えた。
「”あなた”は決して知らない人について行ってはいけません。いいですね?」
あれは、確か幼い「彼」に母が言いつけた言葉だった。誘拐などの危険性が高い幼児だった時分によく目線をあわせた母がそう言っていた。
それなのに、どうして自分はこうして知らない誰かに手を引かれて歩いているのだろう。そもそもきっかけはなんだったのだろうか、と、彼はぼんやりとする頭でかろうじて考える。
……確か、そうだ。
病院内で声をかけられたのだ。
以前、彼の患者だったという男は、院内のロビーで缶コーヒーを手渡してのんびりとくつろいだ様子で世間話のついでのように最近の自分の体調のことを報告してきた。
「悪いけれど、外来の患者さんはたくさんいて覚えきれないんだ……」
彼――希が話し込む男にそう告げた時、ぐにゃりと視界が歪んだ。
「大丈夫、そんなに強い薬じゃないし、依存性の高いドラッグや麻薬でもないからね」
低い男の声。
どこにでもいそうな中肉中背の男だ。
色の薄いサングラスをして、左のまぶたに古い傷跡が残っているのが印象に残った。本当に男は希の患者だったのだろうか?
わからなくなって、希は手を引かれたままで左右にかぶりを振った。
「良いものを見せてあげるよ。”あなた”だけに、特別に。一番最初に。先に誰かに発見されてしまったら面白くないだろ?」
――……無為の子、の僕が”特別”?
確かに、小鳥遊家にあって、無為の子というのはある意味では特別なのかもしれない。けれど男の言う「特別」というのはそう言った類いのものではないことは、若干鈍い希にもすぐにわかった。
だけれども、体に力が入らず時折ふらついて倒れそうになる。
そんな希を優しく抱き留める男は、恋人の腕ではなくてそれが希に全身総毛立つ思いをさせる。どこに連れて行かれるのか、なにをされようとしているのか、男の意図がわからなくて混乱する。
きっと、終業時間にぴったり合わせて車を着けてくれる、沢村が自分につけてくれたボディガードの平城が心配しているに違いない。だから早く帰らなければと思うのに、希は今、自分がどこにいるのかさえもわからず、そして時間の感覚も失っていた。
悪い薬を盛られたのだ。
薄暗い廃工場のようなところに車で連れてこられ、今は男に支えられながら辛うじてその長い廊下を歩いていた。
「……っ! くそ……っ! やられた! どこのどいつだ、俺の作品を台無しにしやがった野郎は!」
突然男のそれまでの優しげな声色とは打って変わって、激しい口調の罵倒が聞こえた。男は希から離れ、暗い部屋へと駆け込んだ。もちろんそうすれば希は立っているのもやっとのことでぐらぐらとゆれる視界を――揺れる体を、壁にもたれかけさせるようにして、男の駆け込んだ室内を覗き込んだ。
そこにあったのは……。
大きな水槽だろうか。
中には人間の骨のような者が沈んでいる。
肉片と、酸だろう液体に混ざり込んでいるのは溶け出したタンパク質や、組織片だ。それくらい、医者である希には一目でわかった。だが、現状を今の希には素早く理解することなどできない。
くそ、くそっ、くそっ、という男の罵る声が聞こえる。
骨格標本ではない。
人間の、骨。
ただ、その人間の骨には頭――頭蓋骨がなかった。
「せっかくおまえに見せてやろうと思ったのに!」
こっちへ来い、と今度は激しい怒りを内包した声で怒鳴りつけられて、その衝撃が脳に響いて希は全身を硬直させて立ちすくむ。なにが起こったのか、理解できなかった。強い力で二の腕を捕まれて引きずるように、男に水槽の前に立たされた。
「せっかく、おまえに俺の完璧な芸術品を見せてやろうと思ったのに……、どこかの誰かが頭を持って行きやがった……」
目の前の、四方が透明な板で覆われた水槽のようなもの。
その中につるされるような形で束縛され、四肢をがっちりとつながれた女と思しき骨と肉のかけらが液体の中で揺れていた。
それを目の当たりにした希は茫然自失の状態でかくりと床に膝を着く。視線は女の溶けた体から離せない。
「よく見ろ! これで頭があれば俺の完璧な芸術品だったんだ!」
希の金色の髪を引っ張り上げて男は、水槽の中のそれを希にことさらに見せつける。
「……なんで、こんな……、ひ、どい」
「せっかくのいい女だったのに、頭がないせいで台無しだ!」
いったいこの男はなにに怒り狂っているのだろう。
なぜ、男は自分にこんなものを見せているのだろう。
それら全てが希にはわからない。
そして、それから余りにも強すぎるショックで、その場で意識を失って床に倒れ込んだ。最後に不穏な言葉を聞いたような気がする。
――……さぁ、別嬪さん。今度はおまえをどんな芸術品に仕立ててやろうか……。
*
「申し訳ありません、理事長……っ」
「病院はオープンな場所だ仕方ない。おまえの責任じゃない」
希が院内にはいないとわかった時点で、平城旭は沢村のマンションへととって返した。
組の用件がない限り、沢村への連絡は自宅のマンションか、沢村商事と決まっていた。
「それより、誰にどこへ連れて行かれたかのほうが問題だ」
病院は、誰でも出入りできる不用心な場所でもある。
多くの暗殺事件も病院で行われた。
夜間も扉は開かれており、誰でも簡単に出入りすることができる。
そんなところで希は働いているのだ。
「小鳥遊希先生ですか……? タイムカードは押されていませんから、まだ院内にいるはずですが」
待てど暮らせど病院から出てこない希の所在を聞くために、院内のロビーで尋ねると、カウンターで患者の案内をこなしている事務員は、平城が小鳥遊希の関係者であると言うとそう告げた。
それにしても遅すぎる。
終業時間はとっくに過ぎて二時間も平城は待っているのだ。
それなのに、音沙汰がまるでない。
「医局にも連絡してみましたが、そちらもいないそうです」
事務員は医局にも連絡をとってくれたらしい。
そう言われた瞬間、平城の整った顔から血の気が引き、そのまま事務員には礼の一言も言わずに早足で踵を返して今に至る。
誰かがなにかの意図で希を連れ去った。
「GPSで希の居場所を探せるか?」
「今、やらせています」
中谷の冷静な声を受けて、沢村はいらいらと組んだ足を揺らして視線を彷徨わせた。
そうだ。簡単なのだ。
希は人を疑うと言うことを知らない。
だから、恋人同士になってからは、なおさら放っておけなかった。
誘拐されたということなのか。それでは、いったい誰に? 何の目的で? それがわからない。希にはそもそも組の重要な案件は教えていない。陳内会が関東進出を狙っているという話は耳にしていたが、それと関係があるのかどうか。
「陳内会と連絡はついたか?」
「はい、あちらの若頭――結城 孝美 と連絡が取れました!」
モバイルを手渡してくるのは常磐幸哉だ。
沢村の恋人の失踪、という事件を受けて歌舞伎町から駆けつけた。
もはや、組織犯罪対策部に慌ただしい動きを捕まれたところで関係なかった。
「俺が賢正会の理事長の沢村だ、結城、おまえのところの下っ端が希に接触していたという裏は取ってある。おまえらが、希を拉致したのか」
「おいおいおい……、沢村さん。どんだけ焦ってんのか知らないが、最初から俺たちのやったことにしてくれるのはお門違いな話じゃないのか?」
「黙れ、つべこべ言わずに聞かれたことだけ答えろ。希を拉致したのか、それともしてないのか、どっちだ」
威圧的な沢村の声に、対する結城のほうは落ち着き払っていた。
「……やれやれ、賢正会の若頭さんともあろうお人が、何の理由もなく疑いを向けてくるとは、少しばかり早合点しすぎじゃないのか?」
「何の理由もなくヤクザが一般人に近づくとは思わないだろ」
「賢正会の若頭の恋人なら、一般人とは言えないんじゃないか?」
そう言ってから、結城は少しだけ電話の向こうで考え込むようにしてから、言葉を続けた。
「とにかく落ち着けよ。少なくともウチじゃない。確かに、若いのに小鳥遊希と接触はさせた。だが少しだけ話しただけだと奴は言っている。それに、俺だって沢村さんの恋人が行方不明だなんて寝耳に水で、この電話でたった今知ったばっかりだっての」
「……そうか、わかっ……」
わかった、と言いかけたそのときだ。
沢村のプライベートのほうのモバイルが着信を告げる。
画面に表示された文字は、「小鳥遊希」。
「結城、ちょっと待ってろ」
「はぁ……?」
結城との電話をそのまま通話状態にして、沢村が自分のモバイルを取ると、着信を受ける。
「沢村……」
沢村だ、と言いかけた時だ。
「と、俊明さ……っっ! 助けて……っ! 女の人が死んでて、僕、どうすれば……っ」 俊明さん、俊明さん、と何度も繰り返す愛しい希の声に、沢村は結城とつながっている電話に「世話になった」とだけ言ってから通話を切った。
「すぐに行く。待ってろ」
希を安心させるように、電話は通話状態にしたままで充電電池をつなげて、中谷と常磐に顎をしゃくった。
「車の準備は下にしてあります」
平城の声が飛んだ。
「よし、中谷、運転しろ。常磐はナビゲーションだ」
「理事長……、わたしは……」
「おまえはここで希を待っていてやれ。平城」
ふたりの側近と共に車に乗り込んだ沢村は、パソコンの画面に映し出された位置情報を性格に伝える常磐と、それをもとに運転する中谷のふたりの間。後部座席の真ん中にどっかりと座ってフロントガラスの向こうを沢村はにらみつけた。
耳に押し当てた電話からは泣きじゃくる希の声が聞こえてくる。
「……早く、早く来て……」
「すぐに行く。今、向かっている。心配するな」
震える声が、希の恐怖を物語っているようでそれが沢村を不安にさせる。どんなひどい目に合わせれたのだろう。
「大丈夫だ、俺がここにいる」
ことさらに優しい声で宥めながらも、沢村の瞳は厳しく細められている。
「……と、し、あき、さん……」
しゃくり上げて鼻をすする音が聞こえる。
お人好しで、人を疑うことを知らない彼。
「希……、大丈夫」
それから二時間ほどたってたどり着いたのは深い山の奥にある工場だった。
どうしてこんなところに工場があるのかと不審な思いに駆られるような場所で、沢村と中谷、そして常磐が高い塀に囲まれた、その入り口――半開きの鉄扉に手をかけたそのときだ。
「よぅ」
「……理事長、陳内会の結城です」
堀の深い顔立ち、ざんばらに伸ばしっぱなしにされた長い黒髪と黒い瞳。羽織袴で腕を組んでいる姿は、明治時代に回帰したようにも思わせた。年齢は沢村よりも少し下くらいだろう。そして結城の隣には、やはり側近らしき男がいる。
さすがに組の若頭ともなれば、単独行動などもってのほかだ。
「おまえらが動き出したって連絡が入ったから、俺も追っかけてきたんだぜ。感謝しろよ」
「……希に指一本触れて見ろ、殺してやる」
沢村の恫喝はそれこそ一般人であれば失禁でもしそうな勢いの恐ろしさが込められているが、そんなものは同業者の同レベルの人間相手に効くものでもない。
「……ぉー、怖……。俺はバイでもホモでもねーし、そこんところは心配すんなよ」
そんな軽口をたたいた結城がちらりと沢村らの足もとを見た。
「靴の人間がひとり、草履を履いた複数の人間が出入りしてたみたいだな」
乾いていない地面にはわずかに履き物をはいた足が出入りしていたことを示している。おそらく、その中の靴の人間は希を誘拐した犯人で、草履のひとりは希だろう。だが、結城は草履を履いた人間が複数人、と言った。
希のことで頭に血が上っていた沢村はそこで冷静に戻った。
車中でずっと希に電話越しに声をかけ続けていた沢村だが、緊張が極まったのかどれくらいしてからか希は沢村の声かけにウンともスンとも言わなくなった。意識を失ったのか。
「乗りかかった船だ、俺も一緒に行ってやるよ」
確かに、なにかしらの事態が起こったときに人数は多い方が良い。それにしたってどうして陳内会が、と沢村は思ったが結局、これ以上希を放っておくことなどできずに、鼻から息を抜くとそのままくるりと結城に背中を向けた。
足跡を注意深く観察しながら沢村と中谷が進み、その後を慎重にあたりを警戒しながら常磐がついてくる。さらにその後ろに羽織袴姿の結城が長い前髪の隙間から、目の前にいる賢正会の幹部たちを観察するように見つめていた。
「理事長、この部屋のようです」
懐中電灯の明かりがついているようだ。
暗闇の中に白い細い腕が伸びているのが見えた。
壁に潜んで腰から拳銃を抜いた中谷は、室内を伺っていると、後ろからついてきただけの結城孝美がドスドスと室内へと入っていった。
「生きてる人間で、潜んでる奴なんていやしねーよ。わかんだろ?」
転がった懐中電灯を手にして、床に倒れ込んだ青年の周囲を照らせば、充電の切れたモバイルが彼の指の先に転がっているのが見えた。
「おいっ! 結城! 貴様……っ」
沢村の剣幕に、結城は怖じ気づくこともなく、今度は希の前にある透明な水槽を懐中電灯の明かりで照らし出した。
「女だな、一応乳は残ってやがる。……これはあれか? 最近ここらで流行りの女を拉致って苦しめて殺すって快楽殺人の。それにしちゃ、頭がねーな」
うつ伏せに倒れ込んでいる恋人を腕の中に抱え上げて、結城孝美の持つ懐中電灯のわずかな明かりに照らし出される恐怖に歪んだ希の頬をそっと優しく手のひらで包んでやった。
「矢崎だ……」
骨だけになった一本の指に絡まる指輪に、常磐はぽつりと呟いた。
数日前から行方不明になっていた矢崎博美。
常磐は沢村に会釈して、電話の許可を得ると、手早く矢崎が死んだことを自分の側近に伝えてから電話を切った。
「かわいそうにな、金貯まったら自分の店を出すってはりきってやがったのに」
「……おい」
ため息をついた常磐がそう言った直後、結城が賢正会の幹部三人に声を投げた。
「ここに死体を置いて、俺たちの痕跡が残ってるのに放って帰るわけにもいかねぇぞ。面倒臭ぇが、警察呼ぶからな。ま、俺らはたたけばいくらでも埃は出るが、これに関しちゃ第一発見者だからな」
賢正会の幹部たちよりもはるかに冷静に事態を把握できているのは、恐らく結城が全くの部外者だからだろう。
「いいな?」
「構わん」
確認をしてくる結城に沢村が頷いた。
「とりあえず、おれはこいつを車に寝かせてくる。あんたは警察がくるまで死体とおしゃべりでもしてたいクチか?」
「美人でスタイルが良くても、肉と皮の半分がなくなってる女には興味ねぇな。俺も外で待つことにするか」
言いながら、結城は自分の側近らしい青年に顎をしゃくる。
頷いた青年は、スーツのポケットから取り出したモバイルで緊急通報を行ったのだった。
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