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2 因果律

 警察に通報してからが大変だった。  なにぶん、結城も沢村も、広域指定暴力団とされる組織の幹部である。  すぐさま警視庁捜査一課と組織犯罪対策部四課が飛んできたため、当然のように所轄は良い顔をしなかった。  これが他県で発生していれば、警察組織にとってはもっとややこしい事態になっていただろう。 「よく……、覚えていません」  意識を取り戻した希は、刑事の取り調べに素直に応じて、狭い個室の中でそう言った。「だが、犯人の顔は見たんだろう」  暴力団の幹部の関係者とは言え、一介の医師であり、世間で言うところの一般人だ。しかも誘拐された被害者でもあるため取り調べ事態はそれほど激しさはない。 「――……顔は、見ました。でも、本当によく覚えていなくて……。缶コーヒーを渡されたんですが、なにか薬が入っていたらしくて、それからのことはほとんどわからないんです」  ひとつひとつ丁寧に思い出すように語る青年医師はまだ酸で溶けた女の死体を目の当たりにしたショックが抜けていないらしく、血の気が引いたままだ。 「どうして最初に警察に通報しなかったんだ」 「……え?」  刑事の問いに、ふと希は違和感を覚えたように青い瞳をしばたたかせた。  形の良い眉をそっと寄せてから俯いて考え込むと、しばらくしてからようやく顔を上げた。そこには困惑が浮かんでいる。 「俊明さんが、僕のことを探して見つけてくれたんじゃないんですか?」 「おいおいおい、自分のやったことも忘れたのか? それとも賢正会をかばい立てしてるつもりか?」 「……僕がやったこと? ……――まさか、僕が殺人をして……? それで?」 「……――」  自分が人を殺したのか、という最悪の事態を想像したのか小鳥遊希は青い顔からさらに血の気が引いていく。  そんなことは考えたくもない。  希の瞳からは彼の思いが伝わってくる。 「そうじゃない。おまえは仏さん……、遺体の第一発見者らしい。それを陳内会の結城が警察に通報してきたんだ。だが、おまえはその前に自分の恋人――沢村のところに電話をしたそうじゃないか。それを、どうしてなんだ、と聞いているんだ」  そもそもこの明らかに気の弱そうな青年が、殺人を実行したとは考えがたい。なによりも、陳内会の若頭である結城も、そして賢正会の沢村を筆頭とする幹部たちも小鳥遊希は何者かによって拉致されて、取り乱した彼が沢村俊明に助けを求めてきたということは彼らの証言で一致している。 「僕が、俊明さんに電話をした……?」  呟くようにそう言ってから、口元を手で押さえた。 「覚えてないのか?」  確かに、あり得ない話ではない。  殺人事件の凄惨な遺体を目の当たりにしたことによって、一時的、あるいはそこにまつわる一連の事柄だけを忘れることはおかしな話ではない。しかし、第一発見者が覚えていないとなると、この一連の誘拐殺人事件が一歩前進したかに見えただけで、再び暗礁に乗り上げたようなものだ。 「おい」 「……はい」 「おまえを例の場所に連れてきた男の顔は覚えているか?」  皮膚も、肉も、脂肪も、そして内臓の半分が溶け出した女の亡骸を見た彼に、刑事の男は率直に問う。 「……――、わかりません」  長い沈黙の後、希は怯えた口調でぽつりと呟いた。  ふわふわと宙に浮かぶような意識の中で、男はなにかを言っていたような気もするが、それすらも希は覚えていない。少なくとも意識の上層側では、一連の流れが把握できない。覚えていることと言えば、男に缶コーヒーを差し出されて飲んだことだけだ。その前後からの意識が曖昧だ。  取調室の隣、鏡になっている窓越しからそんな警官と小鳥遊希のやりとりを見つめていた組織犯罪対策部四課の高天は眉間にしわを寄せて着流し姿の青年を奥歯を噛みしめた。  「彼女」に殺人などできるわけがない。  ――二条は優しい人だった。  覚えてはいないはずの記憶のかけらが、希のことだけをひらりと降りかかる花びらのように思い起こさせた。「彼女」を傷つけたのは自分だと言うこと。罪の意識が小鳥遊希と出会ったときに高天の意識に浮かび上がった。  共に存るべき人を、ひどいやり方で傷つけ、そして自分だけ先に逝ったこと。  覚えていないはずの、その記憶。 「……二条」  口の中で、誰にも聞こえないように呟いた高天は、しばらくしてから取り調べが終わる頃に、隣室を出た。 「申し訳ありません」  頭を下げた青年医師に、取り調べを行っていた捜査一課の刑事がなにかを告げているが、高天には聞こえなかった。  金髪碧眼の彼を凝視する。  姿形は全く違う。  覚えていなくてもそれはわかる。  魂に刻まれた、絆を強く結んだ相手。一目見ただけで、それとわかった。  彼は、高天が探し続けていた二条なのだと。  すでに取り調べを終えてロビーで待っているだろう、賢正会の理事長、沢村俊明のところへ足を向けようとした小鳥遊希に、そこでようやく我に返ったように高天は咄嗟に小走りで駆け寄るとその細い手首をとった。  その感触を覚えている。  触れたことは初めてなのに。 「組対四課の高天だ、少し小鳥遊希を借りる」 「あぁ、捜査一課(こっち)の用事は終わったから構わんぞ」 「……え?」  手首を掴む高天の力は思いの外強くて、そのまま希を引っ張っていく。  組織犯罪対策部――マルボウの刑事の強引さに、困惑した希が不安げに高天の横顔を見上げた。 「ここに入れ」  開けたそこは会議室かなにかのようだ。誰もいない室内は暗く、少しだけ空気はひんやりとしている。 「あの……?」 「自己紹介がまだだったな、俺は高天博信。組織犯罪対策部の四課の刑事だ」  早口にそう告げて、明かりもつけない高天の様子に戸惑った表情の彼を扉の脇の壁に押さえつけて、片手で扉の鍵を閉めると窓から差し込む月明かりだけの室内で、高天は希の瞳を覗き込んだ。  こうしてみると、彼の瞳が「かつての」黒い瞳を思わせる。  そもそも、その「かつて」とはいったいいつのことだろう。  覚えていない自分がひどくもどかしくて、高天は内心で自分自身に苛つきを隠せずにいた。そして、「かつての」ように、ひどく「彼――高天」に対して鋭い「彼女」はそんな彼の苛立ちを感じ取ったのか、どこか戸惑った様子で頭ひとつ分高い上背の高天を見上げて何かを言おうとしたのか唇を薄く開いた。  衝動は、もう止められなかった。  「かつての」彼らを縛り付けていた掟は存在しない。  ずっと彼は彼女に焦がれていた。  子供の頃から、彼女は彼にとって完璧な女性だった。 「……――っ!」  衝動的に小鳥遊希の顎を引き上げ、腰を抱え上げてやれば彼は草履でつま先立ちにならざるを得ない。突然の高天の行動に、咄嗟の反応が遅れた希はそのまま強くかき抱くように抱きしめられて、顔を傾けて唇を重ねてくる男に大きく両目を見開いた。  ぬるりと入り込んだ舌が希の口内を蹂躙する。  希の舌を絡め取り、唾液を交換して深く、長い口づけは情熱的で希は抵抗しようとしていた腕から力が抜けていくのを感じた。 「好きだ、二条」  小鳥遊希が、賢正会の理事長の恋人であることもわかっている。  それでも思いを止められない。 「ずっと、……ずっと本当は好きだったんだ」  だから二条に後を追ってほしくなかった。  慣例なんてどうでも良かった。  幸せになってもらいたかったのに、結果的に、高天は二条を苦しめた。  その思いだけが胸に切々とわき上がってくる。  それは、記憶ではなく、感情だ。 「……んぁ」  深く長いキスの合間に吐息を漏らした希の体をさらに強く抱きしめて、高天は無意識にそっと長い足を着流し姿の彼の両足の間へと差し込んだ。  男女という関係性でもない。  同性愛とういう関係性でもない。  もっと魂の深い部分で強く結びつけられている。  それを高天は意識下で感じたというよりも、もっと深いところからわき上がってくる衝動に性急な行為が止められなかった。  力の抜けた彼の体を片手で支えながら、高天のもう片方の手は、和服の前を割って下着越しに希の性器に触れる。すでにゆるく立ち上がりつつある「二条」の反応がかわいらしくて、そしてうれしくて下着に差し入れた手のひらで的確に感じる部分を探り当てていく。  そう……――。  知っている。  二条が感じるところは知り尽くしている。  硬く張り詰めていく性器の先端を手のひらで揉み込むようにしてやりながら、時折指先でそっと勃ちあがった裏筋をたどってやれば力の抜けた希の体は高天の胸にもたれかかってきた。  あの時は許されなかった。  こうしてふれあうことなど。  それは禁忌の想いだった。  唇を続けながら、希の下着を床に落とした高天は声を自分の唇で奪い尽くしながら、軽々と片足を引き上げると、希の性器から吐き出される雫を後ろのそこに塗り込めて二本の指を差し込んでほぐしてやると、そうして片手で器用に自分のズボンの前をくつろげるとすでに触れてもいないのにすっかり立ち上がったペニスを押し当てる。 「……好きだ、好きだ……、二条」 「……ふ、ぁ……っ!」  めり込むように入り込んでくるまだ二回しか会ったことのない男の性器に、希の意識の深い部分が共振した。 「……ひ、すい様」  両方の腕でかろうじて高天の首に腕を回して根元まで挿入されるペニスがずくりと希の中でさらに大きくなった。 「ぁ、あぁ……っ」  声が止められない希の唇を再び高天が自分の唇で塞いで、その音を飲み込んでやればしめった音と、衣擦れの音だけが静かな室内へ響く。  強くしがみついた希の腕に、やがて、抽挿はリズミカルに、一定の間隔から激しいものへと変わっていった。  頭の片隅では高天もわかっていた。  あまり長引くと察しの良い沢村俊明がどう出てくるかわからない。  それでも「二条」を自分のものにしたい。  ふたつの意識がせめぎ合い、その焦りは強烈な快感を生んだ。  今にも達しそうな希のペニスの先にぐるりと思い切り親指でこすり上げてやりながら、高天は唇を重ねたままくぐもった声を上げるとそのまま、希の中で達した。  射精の脱力感にがっくりと高天の腕の中に落ちてくる体を抱き留めながら、行為を続けたい想いを押し殺し射精で萎えた自分のペニスを抜き出すと、希の体を軽く清めると彼の下着と着物を手早く直す。  どうして自分が和服の着付けを知っているのか、それすらもわからないまま、希の服装を元通りにしてやると、青年の肩を抱いて鍵を開けて部屋を出た。 「ここで待っていろ」  ソファの置かれた部屋へ彼を案内してから、高天はネクタイを直して沢村らの待つロビーへと向かった。 「小鳥遊希は、明日、警察のほうで精密検査を受けてもらうことになった。容疑者という扱いじゃないが、今日はあなた方にはお引き取りになってもらい、明後日、身柄を受け取りにきてもらいたい」  そんな高天の言葉に、沢村はわずかに眉をひそめてから「わかった」とだけ告げる。  その後ろで、陳内会の結城とその側近だろう男が壁に背中をもたれかけて立っていた。結城の口角がかすかに上がったことには誰も気がつかない。 「希を、居心地の悪い部屋にぶちこむような真似をしてみろ。そのときはしっかり落とし前をつけてもらう」  ほかに何か言いたげだった沢村だが、結局それ以上は言葉にせず、中谷と常磐をつれて一旦警視庁を後にした。   * 「胡散臭い」  中谷の運転する後部座席にどっかと腰を下ろした沢村は、厳しい表情のまま中空をにらみつけた。  高天から、かすかに精液の臭いがした。  なにがあったのかは言わずもがなだが、その相手が問題だ。 「理事長?」 「……なんでもない」  高天はいったい誰と体を重ねたのだろう。  希が呟いた言葉――翡翠。  そして高天の言葉……――、二条。  それが何を示唆しているのかはわからない。だが、高天の存在は、希と沢村の関係に確実な変化を与えるだろうことは感じ取った。  ――希は、俺のものだ。

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