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5 優しい手
眠れない……。
希はもそりと広いベッドで寝返りを打った。
枕からも、シーツからも上掛けからも、何もかもから沢村の香りがする。それは希にとってこの上なく安心できる香りだというのに、眠れない。
警察では結局、一過性の記憶喪失だろうということで後日、再三の聞き取りがあるかもしれないと言われた。
覚えているのは、四面を透明な板で囲まれた水槽だ。
その中に、女と思しき顔のない遺体が浮かんでいた。足の方から徐々に酸に侵されていったのだろう。胴体はかろうじて肉が残りはしていたが、それでも皮膚も溶け、内臓の一部が酸に晒されて嫌な色と強い臭いを放っていた。
どれほど苦しかっただろう。
おそらく、と、希は思う。
彼女は生きたまま酸で焼き殺されたのだ。
枕に顔を埋めて考え込んだ青年は、金色の睫をしばたたいてから長い黒髪に二房だけが白髪の年下の従姉妹を思い出す。
彼女は警視庁捜査一課の刑事で、現在は都心部を中心に続いている連続殺人事件を追っている。
比較するまでもない。
彼女は生まれた時から特別だった。
無論、希とは全く正反対の意味で特別だった。
「……わたくしは、あなたになりたかった」
いつの宴席だったか、まだ幼い小学生の少女は希の青い瞳を見つめてそう言った。灰色と藤色の瞳の彼女は、睫毛がクリーム色に近い白かったのが印象深かったこと。
小鳥遊桜龍。
なぜ、一族の中でも最も特別だと扱われる彼女が、無為の子と呼ばれる自分に変わりたかったなどと言ったのかは、希にはわからない。
少なくとも、桜龍は小鳥遊の異能力的な意味だけではなく、ありとあらゆる意味で希には持ち得ない優秀な能力と技術の持ち主だ。
彼女であれば、自分のようにそう簡単にさらわれたりするようなことはないだろう。
文武両道とは良く言ったもので、それだけではなく、芸術的な面でも優れた感性の鋭さを持っていた。
鈍感が服を着て歩いている自分とは全く別次元の存在なのだ。
その彼女が、同世代の宴席で、いつでも希には優しく穏やかな笑みを浮かべてくれる。そのことが彼に多くのことを考えさせた。
なぜ、彼女は自分のような存在に気をかけるのか。
それがわからない。
一部では、桜龍が希を婚約の相手として意識しているという、笑い話の種にもならない話は聞いたことがあるが、そもそも、そんなことがあるわけがない。仮に、彼女が本当に希を婚約者として意識していたとしても、小鳥遊家の頭脳とも呼ばれる長老会は決して許しはしないだろう。
だから、そんな話は最初からあり得ない。そして、それだけではなく、桜龍は希に恋人がいることを知っているし、桜龍もおそらく密かに心を寄せる相手がいるだろうことは、鈍感な希にもなんとはなしに察していた。
そんなことを考えながら、結局眠れずにいる希は、そっと裸足のままの足で毛足の長い絨毯に足を下ろした。
沢村の声が聞きたかった。
そうすれば眠りに就くことができるような気がしたからだ。
寝室の扉を開き、リビングへ続く廊下に歩を進める。
浴衣に羽織を羽織って、希は明かりが点いているリビングのドアノブに手をかけようとして、思わずその指先が止まった。
「今は、希さんには十分な休息が必要かと思います。誘拐され、警察でも随分長い時間拘束されていた様子です。加えて、証言の真偽を疑われていろいろな検査をされています」
声の主は、沢村の側近、中谷の舎弟だ。
確か医師免許を持っていて、専門は整形外科だったような気がする。
もちろん、多少は内科の知識もある。
「希さんは脳神経外科の医師ですから、相応の体力はお持ちかと思いますが、あれだけ異常な事態が続けば、身体的にはともかく、精神的に相当疲労がたまっているはずです」
「……そうだな」
沢村の声が聞こえた。
その声に、希は扉を挟んだ廊下でほっとして息をついた。
彼がそこにいる。それが希をひどく安堵させた。
「希さんを勤務先に戻すことは、医師として賛成できません」
「おまえの判断はもっともだ、平井。おまえの診断を信用しよう」
「差し出がましいことを、申し訳ありません」
「いや……、俺は専門家じゃないからな。それに、あいつは体力もないのに我慢強すぎる。少し強引にでもここにとどめたほうがいいだろう」
「……はい」
ふたりのやりとりを盗み聞きするような形になってしまった希は、話題が自分のことであるということに居心地の悪さを感じてドアノブに触れようとしていた手を引こうとしたその時だ。
「希」
沢村の声だ。
「入ってこい、聞いていたんだろう」
相変わらず、恐ろしく察しが良い。
それはなにも希に対してだけではない。全てにおいて、沢村は先の先の、さらにその先を読む。
「すみません……、わざと聞いていたわけじゃないんです」
扉を開き、おずおずと中に入ればグレーのスーツをきっちりと着こなした希と同世代の青年医師が立っていた。
「医師の不養生とはよく言います。希さん、今は充分お休みになられたほうが良いと思います」
平井恭一 。
彼とは何度か顔を合わせたことがある。
主に医学に関連した相談を、平井から持ちかけられることが多いからだ。
彫りの深い顔立ちと、二枚目俳優を思わせる整った容姿は、実は着やせしているだけで、医師でありながら極道という世界に身を置いている彼は、外見に似合わず武闘派だった。
「……――はい、でも」
希には仕事という使命があった。
小鳥遊の長老会から受けた命令だ。
希は桜龍を見守らなければならない。
「こっちに来い、希」
沢村に強い声で呼ばれて、ためらいがちに眼差しを向けると恋人は当然のように顎をしゃくる。
早くしろ、という彼の命令だ。
「……はい」
呼ばれるままに、引き寄せられるように沢村の腰をおろすソファに近づくと、長い腕を伸ばして希の手首を掴むとそのまま引き寄せる。
「どうした、眠れないのか?」
平井と話していた時とは全く異なる、優しく低い声で尋ねられて希は、引き寄せてくる腕になすすべもなく体を預けた。
「……眠ると、怖い夢を見るんです」
「そうか」
浅く眠りにつくたびに、その夢は繰り返す。
「例の廃工場のときの夢か?」
「……いえ」
そんな甘い恋人同士のやりとりに、平井恭一は一礼してから無言でリビングを出て行った。
「そうか……――」
希の言葉に沢村は彼の体を自分の膝枕に横たえて、柔らかな金色の髪を長い節の立った指で梳いてやる。事件に関係する話でなければ、沢村は希から無理に聞き出すつもりは毛頭なかった。
今までもそうだった。
夢の中で、翡翠と繰り返す彼を問い詰めなかったように。
そんなことは沢村にはどうでもいい。
「こうしていてやる」
そっとのびかかった希の金髪を指で梳いてやりながら、沢村は腕の中で目を閉じる希を見下ろした。
「はい……」
繰り返す夢。
幾度となく繰り返す。
まるでそれが希の犯した罪だとでも言うように。
非現実的な話など、沢村にしたところで意味はない。だから、希も口にしない。沢村にも、希にもどうすることもできはしない。そういう夢だ。
――……二条、あなたがわたしにそうしたいと言うなら、わたしはそれを受け入れる覚悟はできている。わたしには、もう何の力もない、ただの病人だ。それでも、こんなわたしを想ってくれるあなたに感謝しなければならない……。だけれども、二条。わたしとあなたが結んでしまった魂の絆は、未来永劫、どちらかの魂が消滅するまで消えることはないということも、わかっているのだろう?
死の床に伏した二条の七星は、切れ切れの息の間にそう言った。
「わかっております」
「英比古様は、きっとお許しくださらない。それでも、あなたは覚悟を決めているというのか?」
「はい」
――誰よりも大切な、彼を守るためにはそうするほかはない。
夢の中で希――二条は悲壮な覚悟を固めていた。
そこまで思い出して、希はきつく目を閉じるとそのまま沢村の腰に両腕を回してしがみついた。
大切なのは、「彼」なのか、沢村なのか。
希には時折わからなくなる。
そして「彼」と対面してしまうと、自分が自分でなくなることが怖くてたまらなかった。
「……大丈夫」
低くささやかれ、希は切なげに眉を寄せたままで沢村の腕の中で小さく頷いた。
沢村の腕の中で、彼の香りに包まれているとどこにいる時よりも安心できた。何の取り柄もない自分を、沢村は愛してくれる。
それがこの上もなくうれしい。
男の腕の中でまどろみの中へと引きずり込まれていっても、夢を見ることはない。暖かな強い腕が、そしてリアルに彼の存在を伝える体温と香りが希の心を落ち着かせた。
「当分、ここにいろ。警察に行くときも一緒に行ってやる」
「……――次は、僕だ、と」
「うん?」
「……あそこで」
言われたのだ。
「俺が守ってやるから心配いらない」
「……俊明さん」
まどろみの淵で希が呟いた。
「どうした」
「もしも、……僕の命が終わるとき、俊明さんの腕の中なら、僕はなにも怖くありません」
だからどうか、その手を離さないでほしい。
結ばれた魂の絆は決して途切れるものではなくても、ここにある沢村との心の絆は本物だ。
「俺が、おまえを死なせないから心配するな」
なにがあっても、悲しい思いなどさせはしない。
優しく希の頭をなでる沢村の指の心地よさに、希はそうしてゆっくりと浅い眠りの中へ落ちていく。広いソファに、ごろりと沢村が横になった気配がしたが、希はそのまま瞼を開かなかった。
「おまえがどんな運命を背負っていても、それは俺が一緒に背負ってやる。だから、ひとりで重たいと立ち尽くさなくても良い」
結局、その後、希が目を覚ましたのは翌日の昼もすっかり過ぎた頃だった。
しかも多忙なはずの沢村が昨晩と同じようにソファに横たわったまま、希を抱きしめたままでいた。
「……と、しあきさん?」
「あぁ、目が覚めたか」
言いながら、沢村は見上げるように顔を上げる希の額に口づけた。
「すみません、僕が起きないから、ずっと、このまま……?」
「たまにはこういうのも良い。別におまえが気にすることじゃない」
言ってから、体を起こそうとした希の背中を支えて沢村もソファに起き上がる。
「腹は減ってないか?」
「まだ、起きたばかりなので……、そんなには」
「そうか、なら、三時になったら、平城になにか軽い食事でも作らせよう。あいつはおまえの好みも多少はわかってるからな」
いつものように優しく笑いかけられて、希は少しだけ不安そうに青い瞳を曇らせる。
「……怒らないんですか?」
「高天のことか?」
「……――」
ダイレクトに言葉を返されて黙り込んだ希に、沢村は浴衣の裾の方から両足の間にいたずらな手を差し入れて、太ももの付け根を人差し指で強く探った。
「……んっ」
「それなら、おまえは俺がおまえを恋人にする前は、何人も愛人がいたことを怒るのか?」
「そ、そんなこと……」
「だろう? 俺は恋人の過去にいちいちこだわる男じゃない。くだらん心配はしなくてもいい」
さわり心地の良い肌の感触を手のひら全体で楽しんでから、甘い吐息をつきはじめた希の唇に触れるだけの口づけをしてやって、前髪の生え際や、耳の下、こめかみ、自分の顔の少し下にある希のありとあらゆるところにキスをしてから、意地の悪い微笑を浮かべて見せた。
「俺がその気になる前に、そういう顔は終わりにしておけ。それとも、俺に高天に嫉妬でもしてほしいのか? そうなったら、昨日に引き続いて、ベッドから離すわけにはいかなくなるが」
直裁的な、沢村の物言いに文字通り真っ赤になった希は思わず後ずさろうとするが、そんなことは希の腰を抱いた沢村が許すはずもない。
沢村のセックスは、平凡なそれではない。
快楽に導かれてしまえば、そこからは自分自身の意思で降りることもかなわない。
そんなセックスだ。
「おまえは感度が良い。それもそれで俺は構わないが、おまえはいつまた警察から呼び出しがあるかわからないからおまえは困るだろう?」
笑み含みの彼の声と、そして背中を思惑を感じさせるようになで上げる沢村の指先に、希はかすかに身をよじった。
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