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6 淀みに浮かぶ
にわかに、事件は猟奇性を増した。
捜査本部では、そう見解を示した。
「どう思う?」
管理官の遠野に問いかけられて桜龍は左右に首を振った。
「……わたくしには、”なにも”」
意味深長な返された言葉に、遠野弘康は片方の眉をつり上げる。
なにか言い足そうな瞳を受けて、それでも尚、小鳥遊桜龍は顔色ひとつ変えない。彼女は、完璧に自分という人間をコントロールする手段を心得ている。
たとえば、プロファイリングの才能に長けた者であっても、彼女の心情までを読み取ることは不可能だ。せいぜい性格くらいだろう。
「……そうか」
彼女の頭脳であれば、遠野と同じようにキャリア組として警察官僚の道を歩んでいるか、もしくは医者か、科学者、あるいは法曹界にでも入れたはずだ。だというのに、桜龍が自らノンキャリアの警察官としての道を選んだことが、遠野にはどうにも腑に落ちない。
「なにか?」
黙り込んだまま、じっと桜龍の異なる虹彩の瞳を見つめていた遠野に、桜龍は長い睫毛をしばたたかせる。
伝統的な着物と、袴がよく似合う大和撫子。
「俺は、この事件に別の人間が絡んでいるように思える」
「この事件、というのは、一連の、という意味ではなく?」
捜査をする以上、言葉は正確に選ぶ必要があった。
互いの誤解などあってはならない。そうしなければ冤罪を招きかねない。
「そうだ」
今回の、第一発見者が小鳥遊希医師の事件だ。
そう遠野弘康は続けると、桜龍の顔色をうかがうように再び彼女をじっと見つめる。
「よく、第一発見者が怪しいとは言いますが、希さん……、小鳥遊希は犯人とは恐らく縁もゆかりもないと思います」
「どうしてそう言える?」
「……理由のひとつは、彼が、賢正会理事長の愛人であること。賢正会の理事長の下部組織が今回の一件で小鳥遊希の行方がわからなくなった時点で動き出して、その居場所の特定のために奔走していたこと。そして、もうひとつ。確かに、本来であれば、気がついた時点で警察に通報することのほうが先決かと思いますが、”あんな異常な死体”を前にすれば、普通の人間なら恐慌状態に陥ったところで全くおかしくありません。小鳥遊家では、小鳥遊希にそうした現場には必要とされずに育っています。そうなれば、誘拐されたことを鑑みても、まずは最も自分が信頼する、心を通わせる相手に連絡をとってもなんの疑問もありません。その相手が、広域指定暴力団の理事長であり、自分が彼に連絡を取れば、彼に対して不用な疑いをかけられることまで計算していれば、小鳥遊希は最初から警察に通報していたはずです」
論理的な彼女の答えに、遠野は「ふむ」と呟いてから顎をしゃくる。
確かに、あの状況下にいたのは、関東でも屈指の暴力団の幹部と、そして大阪に拠点を持つ陳内会の幹部だった。
自分の行動が彼らに無用な疑惑を向けられると考えれば、正常な精神状態にあればとらない行動だろう。
「しかし、仮に、そこまで小鳥遊希が計算していたとしたら、どうする?」
「……疑惑の種などいくらでも出てきます。ここでつまらない仮定の話に花を咲かせていたところで無駄ではありませんか? 管理官」
ひどく冷たくも聞こえる声で桜龍が告げる。
そのことが遠野を軽く驚かせた。
先入観でしかなかったが、若い女刑事だからこそ、もっと血縁の情に流されると思っていた。
「わたくしがここで、小鳥遊希をかばったところでそれは彼に対する疑惑を助長するだけのことです。警察であれば、きちんと証拠固めをして、彼の容疑についてしぼりこんでいけば良いだけですから」
そこには身内の人間を気遣う穏やかさは微塵も感じられない。
この女はただ者ではない。
遠野は、不意にそんなことを思った。
「もっとも、彼を調べたら賢正会の悪事が出てきたってことのほうがあり得そうな気はしないでもありませんけれど」
「……それは」
確かに。
そこまで言いかけて遠野が口を噤む。
相手は暴力団だ。いくらでも違法行為をしているだろうし、たたけば埃は出る。だが、今はそんなことにかかずらっている暇は遠野の率いる捜査班にはなかった。
「そこは、組対に任せよう」
掠れた声で言った年上の青年に、袴を身につけた少し変わった容姿の美女は相変わらず意味深にほほえんだ。
それでは、と話が終わったことを確認してから遠野の前で会釈をした桜龍は踵を返した。
遠ざかっていく女の後ろ姿を見送って、遠野は顎に手を当てたままで考え込む。元々、彼が率いている捜査は正常 な事件ではない。だが、今回の犠牲者にはどうにも一連の事件とは異なる「二つの意思」を感じてならない。
現場の一線で捜査をしている小鳥遊桜龍はそのことについては言及しなかった。彼女がなにを考えているのかわからない。
「……死に急いでいる?」
本来であれば、人並み以上の頭脳を持つ彼女が、女性にとっては充分危険とも言える第一線で犯罪者と対峙していること。
死に急ぐならば、その理由はなぜだろう。
小鳥遊桜龍――。
彼女がなにを考えているのか、それが全くわからなくて、そこで遠野弘康はとりあえず彼女のことで頭を悩ませることはやめることにした。
そんなことを考えている暇など、今の遠野には存在しなかった。
「なんだって? 管理官」
「今回の、矢崎博美の件で考えを聞かれました」
喫煙所でたばこを吸って待っていた相棒の高橋に問いかけられて、ようやく桜龍はにこりと笑った。
「そうか、それでおまえはなんて答えたんだ?」
「捜査を続けて、犯人を固めていけばいいだけだと答えました」
「全く反論の余地がないな」
肩をすくめた高橋の横に並ぶようにテーブルに寄りかかった彼女は、遠野には見せなかった柔らかな瞳を相棒に向ける。
「しっかしやることがえぐいよな」
思い出したのか、高橋はたばこをくわえたままでもごもごと呟いた。
酸に焼かれた女の体。
賢正会の理事長補佐、常磐幸哉が提出してきた矢崎博美の写真はナンバーワンホステスの座に君臨する美しい女の笑顔の写真だ。
それがあんな姿にされてしまったこと。
「……首がなかったのは、犯人の新しい手口だと思うか?」
今まで、一連の犯行を手がけたと思われる犯人は死体を損壊することはあっても、遺体の一部を切り離して持ち去るようなことはしなかった。
違和感を覚えるのはそこだ。
高橋の発言に、ちらりと桜龍が瞳だけを動かして無精ひげの男を見やる。
「どうでしょう。わたしは超能力者でもプロファイラーでもありませんから、そんなこと捜査してみなければわかりません」
「嘘つけ、多少はプロファイリングだってできるだろ」
じろりと男に見下ろされて、桜龍が細い指が印象的な手をそっと下から伸ばして、男の顔に近づける。何事かと身構えた高橋の、顎に生えているやや伸びた無精ひげをつまんで器用に引っ張ると、真剣な面持ちのままでこう言った。
「ここのところ、高橋さん、ずっと泊まり込みじゃないですか。一旦家に戻って身だしなみを整えてきたらどうですか?」
「おまえだって泊まり込みに近いだろ」
「わたしは休憩時間に帰ってちゃんと毎日身だしなみを整えてます」
きっぱりと言い切られて、高橋は面倒臭そうに大きなため息をつきながら、ぼさぼさに近い黒髪をかき回した。
「そうだなぁ……――」
その気があるのかないのか、わかりにくい返事を返した男を見やって帯に挟んだ懐中時計を手に取った。
「三時間もあれば、行って帰ってくるには十分じゃないですか?」
「なら、そうさせてもらうよ」
「それがいいです、上からの指示はわたしが聞いて、必要なら逐一メールしますから、気兼ねなく行ってきてください」
「わかったよ」
たばこを手にしたままで歩き出した高橋は、ふとその足を止めて桜龍を振り返る。
「……本当に、ひとりで突っ走るなよ」
「誰にものを言ってるんですか?」
むっとしたように言葉を返されて、高橋は苦笑した。
自分などよりもずっと優秀な頭脳を持つ彼女が、そんな先走った行動をするわけがない。今までもそうだったし、きっとこれからもそうだろう。
「……わたしは、こんなところで……――です」
途中は高橋が歩き出したせいで自ら立てた足音にかき消されたのか聞き取ることができなかった。
「……あ?」
「なんでもありません、早く着替えてきてください」
こんなところで……。
彼女はなにを言ったのだろう。
高橋はそう思いながら、駐車場に泊めたきりの自分の車にイグニッションキーを差し込んだ。
時折、彼女は高橋にはとても理解の及ばないことを言う。
普段は普通の人間と全く代わり映えのしない彼女だが、時折、彼女が何者なのか知りたくなることがあった。
それはそう――。
賢正会理事長の恋人が小鳥遊希だと知ったときもそうだった。
彼女の家系――「小鳥遊」にはおそらくなにかが隠されているはずだ。そして、桜龍はそれが捜査には必用のないことと判断しているのか、小鳥遊家に隠されたなにかを語ろうとはしなかった。
「……死ぬなよ」
桜龍……。
相棒の名前を口の中で呟いて、高橋はステアリングを握った。
*
「俊明さん……」
おずおずと自分の恋人に語りかけたのは希だ。
普段と同じ装いに戻った彼は、質の良く、上品な着流し姿だ。
「どうした?」
「僕、仕事に行かなければいけないんですが……」
「なにもこんな時に、わざわざ仕事なんて行かなくても良いと、おまえの親父さんが言ってたぞ」
「……え?」
確かに希の両親は、ヤクザと息子が付き合っていることは知っている。しかし、小鳥遊の長老会の命令に背いてまで、「仕事」にかかわらなくても良いと言ったというのは、希自身にも意外すぎて、思わず、きょとんとした表情で小首をかしげた。
「おまえが危険な目にあうと俺の寿命の方が縮む、まだあの一件から一週間もたってない。少しはここでおとなしくしていてくれ」
優しい声色でささやかれ、長い腕を伸ばした沢村が希の手首をそっと掴んで引き寄せる。
「……でも」
「でももかかしもない」
頼む。
耳元でささやかれて、希は引き寄せてその胸に抱き込んでくる男に身を任せる。
「おまえは俺にとって必用なんだ。おまえが消息を絶ったと聞かされたとき、どんな気持ちになったと思ってる」
抱きしめられると安心した。
目を閉じると、酸で焼かれた女の亡骸を思い出したが、それでも、沢村の臭いをリアルに感じていると、ここは安全な場所なのだ、と再確認させられる。
「ここに、いればいいんですか?」
ためらいがちに希が尋ねた。
彼がその手を離すまで、ここにいればいいのか、と、希が問いかける。
「そうだ」
「……わかりました」
ここにいればいい。
そう愛する者に言われてほっとする。
家にいても、仕事場にいても、安心する時間などなかった。
確かに、そうとは見えなくても、希の精神は事件から未だに立ち直れていない。普通の人間が見るには充分ショッキングな代物だ。
かすかに震える希の肩を抱いて、沢村は今後のことについてじっと考え込んだ。
希にはボディガードをつけるとして、それだけではまだ足りないような気がする。しかし、ある意味、現実的な世界で生きている沢村にとっては、どうすれば良いのかわからない部分も多かった。
簡単に考えれば、小鳥遊鯉華に聞けば良いのかもしれないが、そんな問題でもないような気がする。
「小鳥遊の人間とつきあいをするなら、相応のリスクがあると考えたほうがいい。うちの組は昔からの付き合いだからその手のごたごたには多少慣れてるが、おまえのところはそういうわけでもないだろ?」
陳内会の結城はそう言っていた。
そもそも「その手のごたごた」とやらがいったいなんなのか、その肝心な部分を結城ははぐらかした。なにより、結城は「お友達」でもなんでもない。どちらかといえば、しのぎを削る者同士、敵対している関係にある。
それ故に、結城は小鳥遊のことを詳しく話す気になどならないだろう。
単に沢村が困惑しているのを面白がっているだけだ。
とりあえず、動向がわかるまではおとなしくしているべきだろう。
時には忍耐強く待つことも必用なのだ。
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