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茨の章 1 龍と火
無精ひげの小汚い相棒を自宅へ追い払ってから、ものの十分もたたない時だ。自分のデスクについてパソコンに向き合っていた桜龍の携帯電話が鳴った。
着信番号は登録されていないもので、記憶にもないものだ。
しかし、桜龍には確信があった。
「もしもし、どんなご用件ですか?」
どちら様ですか、ではなく。
問いかけた彼女に電話の向こうで相手はわずかに驚いた様子を桜龍は受け取った。しかし、そこは捜査一課の自分のデスクだ。表情を変えることもなく、そっとデスクの天板に手のひらをついて立ち上がった彼女はいつものように足音も立てることなく草履を履いた足を進めてちらりと肩越しに同僚の刑事たちが仕事をする様子を見やってから、廊下へと向かっていった。
「希さんのことですか?」
単刀直入に桜龍が告げると、電話の向こうの男は「そうだ」と簡潔に返す。
「……えぇ、そうですね。鯉華様の助言でしたら従っておくほうが無難だとは思いますが、わたくしはあなたが思うほど、重要なことを知る立場にあるわけではありません。むしろ、どちらかといえば希さんと同じように重大な出来事からは遠ざけられている立場ですので、あくまでわたくし個人の見解しか申し上げられませんが、それでもよろしいのですか?」
電話をかけてきた相手は賢正会の若頭――理事長、沢村俊明だった。
重大な出来事から遠ざけられている。
それは嘘ではない。
もっとも、それは希とは正反対の理由からではあったが。
そのときだ。
下から突き上げるような小さな揺れを感じた。高層階であるため、揺れそのものは建築物の特性上、大きく感じるが桜龍はその名前の通り、揺れそのものを大地を通して自身の体で感じ取る。おそらくせいぜい震度三程度だろう。
日本という大地は、オホーツクプレートと、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレートの四つのプレートのぶつかり合う場所である。地震が頻繁に発生するのは当たり前で、しかも活火山の半分以上は日本に存在していると言われ、環太平洋火山帯 の一部だ。それ故に、地震が頻発するのだ。
地震とはオカルト現象でもなんでもない。
自然の摂理だ。
恐らく古来の日本人も山の神の怒りと呼びながら、自然の摂理であることはわかっていたはずだ。しかし、科学的な解明する手段がない以上、神の怒りとして例える以外にはなかったのだろう。
いっそ、現代の人間よりもずっと現実的であったのではあるまいか。
桜龍はそう思う。
「”相手”も馬鹿ではありませんから、危機的状況の上で混乱している時に仕掛けてくる可能性が高いと思われます。そのときに、どのように対処するべきかとは、わたくしにはお教えして差し上げられません」
そんなときの対処法など、桜龍は小鳥遊の中枢から教えられていない。
だから知らないのだ。
地震はいつものように数秒でおさまったが、喉に魚の骨が引っかかったようなかすかな違和感を感じて、沢村の言葉を電話で聞きながら考え込んだ。
「……そうですね、もしもの時は大阪の陳内か、福岡の御薗 を頼ると良いと思います。陳内は小鳥遊にパイプを持っておりますし、御薗は和泉一族の穏健派にパイプを持っております」
小鳥遊鯉華は、常に希と桜龍に対して気遣いを見せてくれた。
けれども、割合としては希に対する気遣いの方が大きかったように思う。もちろん、年齢の分もあるだろう。子供の頃は、希に対して「無為の子」であるというだけで、あれほど小鳥遊の穏健派から気遣いを受けられる希に対して怒りさえ感じた。
それが幼稚な嫉妬だということは、今ではわかっている。
それでも、未だに、時折年上の従兄弟がひどく羨ましく感じることがあった。
希は男で、自由を手にするだけの無力さがあることが、桜龍に羨ましかった。
もしも自分が龍など背負って生まれてこなければ違った人生があったのかもしれない。そんなことを不意に考えることさえあった。
「おそらく、そのときはわたくしは希さんにも、あなたにも何のお役に立つことはできないと思いますので……」
受話口に呟いた彼女はそうして、短い挨拶をして通話を終えた。
陳内と御薗。
どちらも年季の入ったいわゆるやくざで、御薗のほうはさらに古い時代から和泉一族と強いつながりを持っていた。
小鳥遊希――。
彼はいつの頃からか桜龍にとって憧れの存在へと姿を変えていた。
同世代の宴席では体を小さくして、萎縮していた彼は、彼女の憧れだったのだ。
――わたくしは、あなたになりたい。
いつだろう。
蛍の舞う日本庭園を散策しながら、ふたりは並んで歩いて互いの境遇のことを語り合った。
互いに正反対と思われながら、実のところ、似たような立場にあること。
どちらがどちらを由とするかなど、隣の芝は青いというだけの問題だったのかもしれない。それでも、愛し合える相手に出会えたことのできた希を羨ましく思う。
桜龍だって聖人ではない。
ただ、生まれが特殊なだけの普通の人間だ。
嫉妬もすれば怒りもする。
「……――高橋さん」
ぽつりと桜龍はモバイルを胸に抱きしめたままで相棒の男の名前を呼んだ。
「なんだ?」
突然頭の上から振ってきた男の声に、桜龍は文字通り飛び上がって驚いた。
「……っ! た、高橋さん……っ?」
「おー、とっとと着替えて帰ってきた」
洗濯物がたまってしょーがねーな。
ぼやく男の声に、桜龍は咄嗟に引きつった顔を取り繕って、振り返る。
気配に気がつかなかったのは不覚の限りだ。
「どうしたよ」
「……な、なんでもありません! 予想よりも少し高橋さんが早かったからちょっとびっくりしただけです!」
ほとんどくってかかるような勢いの桜龍に、高橋はじろじろと頭の先からつま先まで彼女を見下ろして「ふーん」と気のない相づちを打った。
「そういや、さっき地震あったな。ここのところ多いよな」
「地震なんて四六時中で珍しくないじゃないですか」
「そりゃそうだけどもよ。まぁ、とりあえず、荷物、ロッカーに放り込んでくる」
自分から、遠ざかっていく背中にほっとする。
高橋が、良くも悪くもどこか鈍感な性質であることに安堵した。
小鳥遊家では同性愛はタブーではない。だから、希に宴席で好きな人がいることを告白されたときに、相談に乗ったのは同世代で最も親しかった桜龍だった。
「……好きな人ができたんです」
そう言った希と並んで歩きながら蛍に目をやっていた桜龍は、首を回して着流し姿の希を見上げた。
「あら、素敵なことですね。女性ですか? 男性ですか?」
そこで問題は大きく変わってくる。
「男性です」
希の答えを聞いてから桜龍はにこりと笑った。
「ですが……、その……」
口ごもる彼に小首をかしげた桜龍はじっと異なる色の虹彩で金髪碧眼の青年を見つめる。
「なにか問題でもあるのでしょうか……?」
「その人が、……その、暴力団の幹部で……。桜龍さんは、警察官志望なんですよね……」
「好きになった人が暴力団でも、好きなら好きで個人的な問題でしょう? わたくしが警察官を目指していてもなにも関係ありませんからご心配なさらないでください」
警察と暴力団。
犬猿の仲とも言って良いだろう。なによりも問題はその名の通り、違法性の強い組織だ。
「それに」
少女はぐっと背伸びをして、希の顔を下から覗き込むようにして顔を寄せた。
ふたりのこんな関係が、同世代の小鳥遊家の従兄弟姉妹たちに誤解を与えているとはふたりとも思ってもいない。
「好きになってしまったらその感情は止められないものだと聞きました。だから、仕方がないじゃないですか。わたくしが警察官を志していることと、希さんがその方を好きという気持ちには何の関係もございませんでしょう?」
「そうなんですが……」
「わたくしの将来を気遣っていただいているなら、それには及ばないと思います。たぶん」
年上だが、どこか頼りない彼を安心させるように言って、彼女は希の背中を押した。
そのとき、単純に希を羨んでいた自分がいなかったわけではない。けれども、そうせざるを得なかったのは、互いの立場が余りにも違ったためだ。
決して交わることのない、「無為の子」と「龍を負う娘」。
「好きになっても良いのでしょうか……?」
「希さんは、その方のことがとても好きになってしまったんでしょう? それなら仕方がないじゃないですか」
子供の頃から一族内で孤独だった希と、蝶よ花よとかわいがられて育った桜龍。
しかし、桜龍は物心ついた頃には取り決められていることに従わざるを得なかった。希が自らの運命に従わざるをえなかったように。
――……わたくしは、どなたにも心を寄せてはならない。
「良いか、桜龍。おまえは特別な子供だ。それ故に、決して、人を人として好いてはならん。もしも、桜龍が一族内の誰かを好いたとしても、我々はそれを許すことができん。だから、決して誰かの心を受け入れようなどと生涯思わぬように」
重々しい口調でそう言われ続けた。
どうしてですか、と尋ねた桜龍に、長老会は「どうしてもだ」とだけ答えた。
「良かったですね、その人を大切になさってくださいね」
暴力団の幹部を好きになってしまったと打ち明けた希に、桜龍は微笑して答えて希からは見えない方の手で拳を作った。
あなたになりたい……――。
言ってはいけない言葉だ。
希は自分が「無為の子」であることを恥じている。
だから、桜龍は口を噤んだ。
遠ざかっていく高橋和仁の後ろ姿を見送って、不意にかつての宴席での希との会話を思い出した。
希は男で、自分は女だ。
だから、そもそも一族外の異性に好意を寄せることなどあってはならない。
そんなことになれば、彼女の親戚であった「小鳥遊隼 」の二の舞になるだろう。葬儀では夫と思しき男が泣いていたのを幼心に覚えている。
彼は妻と、その妻に宿った命のふたつを同時に失ってしまったのだ。
それは小鳥遊の女の宿命だ。
「……わたくしは、希さんになりたかった」
それからものの五分で戻ってきた高橋と桜龍は管理官の遠野警視に呼び出されて、その机の前に並んで立っていた。
「例の廃工場だが、一応鑑識が入ってあらかた調べ尽くした。おまえたちはもう一度現場に行ってくれ。ありとあらゆるところを調べて見落とすな」
「はい」
返事をしたのは高橋だ。
桜龍はいつもバディで動くときは、高橋を立てる。
ふたりで主張し合ったところで、無駄な時間が過ぎていくだけだからだ。
「車輌使用の許可はいるか?」
「いりません、自分の車で行きます」
「よし、行ってこい」
「はい」
高橋と遠野の短く簡潔なやりとりを聞きながら、桜龍はそれまで漠然と考えていた事柄を頭の隅に追い払った。
考えたところで仕方がないものだ。
解決方法などなにもない。
「そういえば、誘拐されたという小鳥遊希のことだが、一過性の記憶喪失らしい。まだ犯人の顔は思い出せていないようだが、もし彼のほうからなにか情報が入るようならそっちは身内の小鳥遊に任せる」
「……わかりました」
桜龍は静かに応じて、捜査のために敬礼をしてから踵を返した高橋を追いかけるようにして半ば上の空で遠野に応じて会釈をすると歩き出した。
その瞳が、わずかに曇っていることに遠野は気がついて、口を開きかけたが言葉を発するにはタイミングを既に逸していて、扉の向こうにふたりが消えるところだった。
「あいつ、なにを悩んでいるんだ……」
あいつ、とはもちろん小鳥遊桜龍のことだ。
*
「記憶喪失って、どう思う?」
「……たぶん、嘘ではないと思いますよ。希さんは少し気の弱いところがありますから、あんなご遺体を見たら卒倒してもおかしくはないと思います」
「ま、刑事 だってあんなにひどい死体は滅多にお目にかかれないからな」
酸で体の半分を焼かれた女。
矢崎博美だったか。
賢正会の常磐幸哉が取り仕切るクラブの中でもずば抜けたナンバーワンホステスだ。
「あんなにお綺麗だったのに、残念でしたね」
「……そういや、りゅー、おまえさっき廊下で電話してたみたいだが、どうかしたのか?」
高橋は内容までは聞いていなかったらしい。
そのことになぜだかほっとして、桜龍は笑った。
「なんでもありませんよ。お母様が、今晩コロッケ弁当を作って持ってきてくれるというので、高橋さんの分も頼んでおきました」
「お、そりゃうまそーだな。おまえのところのお袋さん料理上手だもんな」
「わたしは全くですけどね」
「けど、お袋さんの料理の腕は兄ちゃんが受け継いでんだろ?」
とりとめもない会話。
メールで母親がコロッケ弁当を作ってくると送ってきたのは本当だ。だから、ついでに高橋の分も作ってくれるように返信メールで頼んだのだ。
「佳渦 兄様は、わたしよりずっとお料理に興味があるので、それで母から習ったみたいです。佳渦兄様のお料理はとってもおいしいんです。たまにわたしにもお弁当を作ってくれるので、高橋さんにもぜひ食べていただきたいので、今度機会があったら頼んでおきますね」
「いや、そんなことまでしてもらったら悪いだろ」
「いいんですよ、兄様の趣味みたいなものですから」
それはそう……――。
自分の人生に投げやりになってしまっていた思春期の頃に、心配した佳渦は妹を元気づけようといつも愛情たっぷりの弁当を、どんなに忙しいときでも手ずから作ってくれた。母親は忙しすぎて弁当を作る時間すらとれなかったときに、次兄の佳渦は睡眠時間を削ってでも桜龍の学校に持って行く弁当を作り続けた。
今思えば、受験生だった時も作り続けてくれていたが、佳渦は「気晴らしになるから気にすんなよ」と目の下に熊を作りながら言ったものだ。
「それに、……佳渦兄様のお料理、高橋さんにもぜひ食べてもらいたいんです」
白灰と藤色の瞳は、沼の底に引きずり込むような印象を漂わせる。
にこりとほほえんだ彼女に、思わず息を飲んだ高橋和仁は視線を無理矢理、助手席の桜龍から引きはがしてフロントガラスの向こうを凝視した。
「よしか、って珍しいな。どんな字なんだ?」
「人偏に土二つの佳に、渦と書きます」
「へぇー……、もう一人の兄さんは名前なんてんだ?」
「藤の火、と書いて藤火 と書きます。でも、藤火兄様はわたしと同じで料理はてんでダメですよ」
どんな意味を持つ名前なのだろう。
高橋はそう思ったが、結局面倒臭いので聞かずにいた。
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