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5 レヴィヤタン
――……その身に龍を宿す。
たったそれだけのために、妬み深い強欲な者達からは桜龍自身のみならず小鳥遊鷲鷹の一家は羨まれ、妬み嫉み対象となった。もちろん、本人達にその自覚がなかったとしても、である。
それに比較して、希の一家は無為の子を輩出したことから、蔑みの目で見られていた。姉の火蓮はそれを気にも留めたことはなかったが、無為の子である希自身は、自分のために実家が疎ましく見られているという現実を受け止めきれずにいた。
まだ桜龍が高校生の頃だ。
同世代たちからなる宴席の場において、いつものように桜龍と希はふたりだけの会話を、会場になっていた料亭の縁側で楽しんでいた。
どちらも、対照的に特別であるために孤独な心を持っていたことから、共感したというのがおそらく現実だったのだろう。
そんなとき、唐突にふたりの前に現れた、希よりも二歳年長の銀色の髪の青年が、ほとんど暴力的とも言える勢いでふたりの会話に乱暴に割り込んできた。
「おい」
同世代の中でも、桜龍に近い場所にいつも座る攻撃的な能力を持つ親戚のひとりだった。桜龍の近くに座れるのは、誰も彼も、相応に強力な能力を持つ異能力者たちで、桜龍の兄たちも例外ではなかった。
「そんな役立たずと話し込んでないで、俺とも話をしないか? どうせ、この宴席は将来の夫婦を決める席なんだ」
そんなことを銀色の髪の青年は言った。
咄嗟に男としての本能から、思わず背後に小柄な少女をかばった希だったが、そんな非力な希の肩を押しのけて、青年は黒髪の美少女を抱き寄せる。
「え? あの……、わたくしは、そういった対象ではないとおじいさまたちから言いつけられています。ですから、他の方とお話をされたほうが有意義だと思うんです……」
戸惑いがちに桜龍が虹彩の異なる瞳をしばたたかせれば、男はにやりと口元を歪ませて彼女の髪に口づけた。
――孕ませちまえばこっちのもんだ。
ぼそりと。
本当に小さく聞こえたのは、希だけだったのかもしれない。
気が動転している桜龍は恋愛にも疎く、元々幼い頃から他者に心を寄せてはならないと育った彼女には男の意図が理解できない。
大股に歩き出した男は、薄暗い縁側に桜龍を連れ込んでいくのをただ見送ることしかできなかった希は、ふたりの姿が廊下の角を曲がったところで我に返ると慌てて踵を返した。自分の力ではとてもどうすることもできない状況だ。
「龍だかなんだか知らないが、それくらいのことでちやほやされてんのが気に入らないんだよ」
人の気配のない物置にでも使われていそうな部屋の壁にどかりと押しつけられて、桜龍は衝撃に思わず目をつむる。
身内の人間からそんな扱いを受けることなど考えてもいなかった無垢な少女は、驚きから上げた瞳で見たのは人間の欲にまみれた濁った瞳だ。
桜龍が一族の従兄弟姉妹たちの中で最も親しくしていた希の瞳はもっと美しく澄んだ青い色をしていた。
確かに、今、彼女の目の前にいいる男は銀色の髪に、長身で、薄い水色の瞳が印象的な見目の良い外見をしている。小鳥遊家の女たちからしてみれば将来の夫としては有望株のひとりだろう。
「……な、にを?」
少女の顎を引き上げた男が顔を下ろしてくる。
薄い水色の瞳に恐怖を感じて、桜龍は思わず後ろに後ずさったが背後は壁だ。逃げだそうにも男の強い力でそこに押しつけられていて身動きにひとつもできない。いや、武道をたしなんで言える彼女が冷静であれば抵抗のひとつもできたのかもしれないが、突然の男の暴挙に完全に頭が真っ白になっていた。
唇が触れあって、その感触に桜龍は思わず目をつむって体を強ばらせた。
――怖い。
ぬるりと舌が入り込んでこようとするのを、必死で顎に力を込めて口を閉ざしていると、にたりと笑った男は無遠慮に少女の身につけた着物の襟元から手を差し入れて、両下肢の間に自分の膝を差し入れて、彼女の抵抗を封じた。
「……っや、いやですっ!」
「心配するな、初めてだろ? 優しくしてやるから、俺に任せな」
悲鳴を上げた彼女の腕が、男の胸を押し返そうとして足掻いた瞬間に生暖かい舌がぬるりと入り込む。言葉と息づかいを封じ込め、言葉とは裏腹に強引に行為に及ぼうとまだ汚れも知らない少女の片足を自分の肘に抱え上げると、震えて固まったもう片方の足をやはり同様に肘に抱える。
硬い壁に背中を預けたまま、体は宙に浮くような体勢で固定されれば、高校生であればその先の行為など容易に想像できた。
「やっ、いや……っ! いやっ! お兄様、助けて、助けて……っ! やめて……っっ!」
前戯もろくにせず、男は少女の下着をずらしただけで、男の猛る性器を受け止めるようにできたそこへ押しつけてくる。
その気持ちの悪さに、桜龍は文字通り全身総毛立った。
「……――っ」
瞠目した瞳が、不安定な体勢のまま男を見上げる。
そっと再び降りてきた男の顔が、角度を変えて鼻をこすり合わせるように唇を触れあわせる。
呆然とした少女の口内に舌を滑り込ませ、熱く猛ったペニスがぐっと力強く押しつけられた時だ。突然、桜龍の体を固定していた男の体が、まともに吹き飛んで物置部屋の扉に勢いよくたたきつけられた。
「大丈夫か、桜龍!」
聞こえてきたのは長兄の藤火の声だ。
ふわりと優しく抱き留めてきた腕に、床に落ちることを覚悟した少女の鼻先をかすめたのは次兄の佳渦の香りだ。
香道をたしなむ佳渦の優しい香り。
「希君が僕たちを呼びに来てくれたんだよ」
「……に、兄様……――」
震える唇で、兄を呼ぶ妹の乱れた着物を佳渦はそっと直してやりながら、見かけによらない腕力で横抱きにするとそっと優しく頭を撫でる。
「病院に行くか?」
問いかけられて、桜龍は震えながらかろうじてかぶりを振った。
「だ、……じょぶ、です」
佳渦と桜龍がそんなやりとりを続ける間も、武闘派の藤火はぎらぎらと全身に青い炎をまとわせて、妹に乱暴を働こうとした従兄弟の首を締め上げた。
「どうする? これからも俺たちの妹に手をだすつもりなら、ここで俺の火でも飲ませてやろうか……?」
低く、ドスのきいた声で襟元を締め上げられて、自分よりも大柄な――小鳥遊家にあって最も強力な攻撃型の家系に生まれた若い男を見上げると、喉の奥からヒッと掠れた悲鳴を上げた。
どかどかと何度も殴る音が聞こえてくるが、兄たちに助けられた放心状態の桜龍には届いていないらしい。
「藤火兄さん、そいつ、僕と桜龍の分まできっちり殴り倒しておいてくれるかな?」
「承知した」
兄の答えを聞いた佳渦は、妹を抱きかかえたままゆっくりと歩き出す。
「……よ、佳渦さん。桜龍さんは……」
「君が僕たちに知らせてくれたおかげで助かったよ、ありがとう。希君」
兄の胸の中でしくしくと泣き出した少女の髪を何度も撫でながら、佳渦は怒りから無意識にごうと音を立てた。
それは、炎が旋風を巻き起こす音だ。
赤とも、青とも言える炎が佳渦の周りを渦巻いた。
「もう大丈夫だよ、桜龍」
*
「君の死は、わかっている……」
小鳥遊佳渦は、教室の後片付けをしてから座り直して気に入りの香を焚くと、香立ての前で端座する。
「いつか、君は僕らよりも先に逝くんだろう……、だから、それまで、僕らは君を守り、慈しんでやりたい……」
不意に思い出した過去の事件。
小鳥遊家の親戚に暴行を受けかかった彼女は、希が藤火と佳渦に慌てて知らせに来てくれたおかげで一難を逃れることができた。
桜龍は多くの小鳥遊家の同世代の男たちから事情も知らずに妻の候補として色目を送られていた。そのことを佳渦も、そして長兄の藤火も知らないわけではなかった。だから、充分に桜龍の身辺には気を配っていた。
無為の子と呼ばれる希と親しくしていても、それを気に病まなかったのはふたりが自分の立場をわきまえていたからだ。だから、桜龍と希がふたりきりでいても無用な心配はしていなかった。
希は、桜龍だけではなく、女性に対して乱暴を働くような男ではなかった。
今ではその希も誰よりも心を傾ける恋人を得たと耳にして、自分の身内のような気持ちで安堵したものだ。彼がいなければ、桜龍は高校生の身で分別のない男の子供を宿していたかもしれない。
じっと過去と、そして現在に思いをはせる佳渦は、畳の上で自分のモバイルが振動する音に気がついて我に返った。
画面に映し出された相手の名前は、佳渦と藤火が愛してやまない妹からだ。メールの着信を伝える画像は、妹が花のような満面の笑みを浮かべている写真だ。
あの事件から、桜龍はいっそう武道の鍛錬に励むようになり、そして護身用の暗器も手放さなくなった。
恐らく、組み手をすれば兄ふたりをしのぐだろう強さを持っている。
佳渦自身はそもそもそれほど武術の鍛錬を藤火や桜龍ほど積んでいないというのもある。長兄の藤火は最愛の妹相手に本気を出せるはずもないだろうから、良いところ、互角が精一杯だろう。
彼女は、あの宴席での事件からそれほど強くなった。
「佳渦兄様。今度、同僚の方に佳渦兄様のお料理を振る舞って差し上げたいので、お弁当を二人分作ってきていただけませんか? いつでも構いません」
柔らかな、妹のメールに自然と口元がほころんだ。
あの事件からしばらくは宴席を拒むほど、彼女は兄たちと父親以外の男を怖がるようになった。その妹が、警察官という男ばかりの職場に飛び込んでいったこと。
それは恐怖を克服したということなのだろう。
そう思えばこそ、佳渦は優しい笑みをこぼさずにはいられなかった。
「同僚、というのは男だろう? 少し多めに詰めた方がいいね。わかったよ」
メールを返して佳渦は、焚いた香をそのままにして立ち上がった。
東京都心にあってそれなりに珍しい純和風建築だ。
そこは佳渦の自宅であり、香道の教室を開いてもいる。
時に、兄が訪ねてくることもあるが、今のところふたりとも独身を貫いていた。
桜龍と名付けられた、最愛の妹。彼女のことが心配でならなくて、他の女性に対して心を開く暇などないに等しかったからだ。
もっとも、小鳥遊の男が独身でいたところで、小鳥遊家がつぶれるわけでもない。
簡単に言えば、彼らの父である小鳥遊鷲鷹の家柄が途絶えるだけの話だった。それは些細な問題だ。
そういえば、そろそろ兄が訪れる時間だ。
佳渦が考えを巡らせたタイミングを見計らったように、聞き慣れた車のエンジンの音が聞こえてきて、佳渦はクスリと声もなく笑った。
まるで藤火と佳渦はつながってでもいるかのようだ。
ほどなくして、来客を告げるドアフォンの音が鳴る。そのときには佳渦は自宅の玄関のたたきにおりてカラリと横開きの扉を開いた。
「どうぞ、上がってください。教室もさっき終わったところです」
「佳渦」
「はい?」
「桜龍は”まだ”無事か?」
「桜龍と行動している刑事さんは、どうやらちゃんとした倫理観をお持ちの方のようですよ」
問いかけた兄に、弟が応じると、頭ひとつ分上背の大きな兄は、そっと佳渦の顎を引き上げて抱き寄せる。
「心配が顔に出てるぞ」
「……それは」
藤火に言われて口ごもる。
兄に言わせると、佳渦は考えていることが顔に出るタイプらしい。
「桜龍は、今まで何事もなく生きてこれました。もう、二六歳です。これからもなにもないという保証はない。もしかしたら、その”時”が迫りつつあるのかと思うと……、心配で」
「……――俺もだ」
桜龍が心配だった。
なによりも、今、桜龍の周りで起こる事件のことを考えると何があるのかとさえ考えてしまう。
「大丈夫だ、佳渦」
兄の節の立った指が佳渦の背中を抱いた。
父親の鷲鷹も藤火と佳渦の関係は知らない。もちろん、妹さえも、だ。
「大丈夫、佳渦。桜龍は俺たちの妹だ」
「兄さん……」
触れるだけの口づけを受けて、佳渦はもっと深い口づけをねだるように自分よりも高い場所にある兄の頭を抱き寄せて指をその髪に絡ませた。
――怖い。
桜龍を失う、という予定調和。
それが恐ろしくてたまらない。
藤火と同じほど――もしくはそれ以上に佳渦は桜龍を溺愛していた。それが、佳渦を時折こうしてひどく不安定にさせた。
佳渦の不安を満たしてくれるのは兄の藤火だけだった。
「……大丈夫」
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