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第5話

 そして結局、その苛立ちは黒豹に向く。 「なんで小学三年生にそんなアドバイスされなきゃなんないわけ? 結婚? 出産? 子育て? はんっ! 僕にそんなことできると思ってんのか!」 風呂上がりのリビングルームでパイル地のショートパンツからまだ湿っている白くて丸いしっぽとほっそりとした脚を出し、ターバンで垂れ耳の水分を吸い取りながら缶チューハイをグビグビ飲む。 「はいはい」 「はいはいってどういうこと? それはさぁ、僕が結婚に向いてないって言いたいの? 家事とか出産とか子育てとかできない奴って思ってるってこと?」  同じく風呂上がりの黒豹はTシャツにハーフパンツ姿で床にあぐらをかき、ローテーブルの上に置いたノートパソコンを打つ手を止めて、水滴がついたハーフリムの眼鏡越しにウサギを見た。 「少なくとも炊飯器と食洗機と風呂の湯沸かしのボタンを押す、生協から届いた食材を冷蔵庫に入れる以外の家事は壊滅的だろうが。てめぇのパンツくらい、てめぇで洗え!」 「やればできるもん。やらないだけで。黒豹のほうが先に洗って干してくれてるだけじゃん」 黒豹は静かに息を吸って、吐いて、何も言わずに缶ビールを飲んだ。 「お前の出産や育児はお前のペースで決めればいいだろう。結婚だって自分のタイミングで決めればいい。他人にとやかく言われる筋合いはない。少なくとも俺は当面結婚しなくていい。今だって明日の抄読会の準備が終わってないのにこんな愚痴に付き合わされて。これがうるせえと怒鳴り飛ばすこともできない情の移ったつがいだの小さくて泣きわめく子どもだのが相手になったら、俺はマジでストレス溜め込みすぎて死ぬ」 「アルファのくせに、ストレス耐性なさすぎ」 「てめぇ、オメガのくせにって言われるのはこれだけ文句言うくせに、なんでそうやってすぐアルファのくせにとか言い出すんだよ、俺と六年も一緒に暮らしてて、アルファにどんな幻想抱いてんだ?!」 「さすがに六年も一緒に暮らしてたら、エロオヤジだという以外の認識はないけどねー。大学入学と同時に物件探しした挙げ句、突き指して診察してくれた整形外科のお医者さんのお家で暮らすって決まったときは、ちょーっとドキドキしちゃったけどー。一発目の屁音を聞いた瞬間に現実を知ったからもう全然平気!」 「屁をこいて何が悪い。腸がきちんと動いている証拠だ。屁が出なくて口から便臭がしたらイレウス疑ったほうがいいぞ」 黒豹の長いしっぽを持ち上げ、空気を切り裂くような爆音を轟かせると、ノックアウトされて床に倒れるウサギに向かって顔を突き出した。 「とりあえず俺に今日中にこのジャーナルを読ませろ! そして三分以内のパワポにまとめさせろ!」  ノートパソコンに向かい、次々に論文を読み捨てていく黒豹の背中に寄り掛かって、ウサギは楽譜を何冊も広げる。  同じ作曲家の同じ曲の楽譜だが、出版社が違っている。 「相変わらず楽譜だけ見て。そんなの何が面白いんだ?」 「校訂。表現に関する指示や指使いの違いを見るんだ。作曲者に近い人が校訂してるほうが信頼度は高いけど、現代の校訂も新解釈で悪くない。指使いによって音は変わるけど、自分の手の大きさに合うかどうかっていう問題もあるから、正解は一つじゃない。それを見比べて探っていく」 互いの背中には呼吸する膨らみと体温だけが伝わって、夜は更けていく。

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