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第2話
「ただいま。風が強くなってきたよ」
クロエは新月亭のドアを開けるなり、中へ向かってそう言った。
新月亭は建物はこぢんまりとしているが、とても手入れが行き届いたきれいな宿屋である。入り口のドアにはセンスのいい可愛らしい看板が掲げられていて、やってくる旅びとを和ませている。
クロエの声におかみのミュカが出迎えてくれた。
「おかえり、クロエ。たくさん頼んで悪かったわね」
ミュカはネコ属の女性だ。とてもきれいなひとだが、年齢は不詳だ。誰に聞いてもわからないと言う。けれど、昔からルイニアの美人の名物おかみと評判である。
「ううん。途中でテダさんに会って、荷物を持つのを手伝ってくれたから。――ありがとう、テダさん」
クロエが後からやってきたテダのほうへ振り返って礼を言った。
「いいってことだ。お安いご用だよ」
テダは「ここに置くぞ」と持っていた買い物袋の数々をテーブルの上に置く。
「あら、テダさん。いらっしゃい。すまなかったわね」
「いや。たいしたことじゃない。それよりクロエに会ったおかげで嵐が来そうだとわかってよかったよ。それで部屋は空いてるかな?」
「ええ、今はまだ大丈夫。あと数時間もしたら雨が降ると思うから、早く来てもらってよかったわ。いつもの時間だときっと空いてなかったかもしれないね」
にっこり笑ってミュカが言う。テダはホッとしたようにクロエのほうへ目をやった。
「クロエに会えてラッキーだったな。宿を取りはぐれなくてすんだよ」
「そりゃよかった。雨が降ってからだとどこもいっぱいになっちゃうもんね」
「ああ。この前、ここがダメで仕方がなく飛行船乗り場近くにできた新しい宿に泊まったんだが、ひでえもんだった。高いわ、メシはまずいわ、壁はぺらっぺらの薄さで隣の部屋の物音がガンガン聞こえやがる。おかげでまったく休めなかった。ありゃぼったくりもいいとこだな」
「へえ、そうなんだ」
ふうん、とクロエが呟くように言うと、ミュカがしかめっ面をしていた。
「あそこはダメよ。組合にも入らないろくでもないところだからね。見てくればっかりで張りぼてみたいな建物だって話。まあ、この風で吹っ飛んでいくんじゃないの」
新興の競争相手に容赦のない冷たい言葉を吐き、ミュカはフン、と鼻を鳴らした。テダが泊まったという宿は近頃このあたりでも噂になるほど評判が悪いのだが、あろうことか宿の名前が《半月の宿》という名前で、この新月亭と似てなくもない。おかげでこの新月亭もときどきとばっちりをくって、クレームを入れられることがあるのだ。
そのせいでミュカは少々おかんむりだった。
「そんなにむきにならなくてもいいじゃない。いくらときどき間違われるからって」
クロエはクスクスと笑う。
「それが腹が立つっていうのよ。あんなとことうちと一緒にされたらたまったもんじゃないの。あーあ、まったく最近はろくでもない輩が多くて嫌んなるわ」
「そうだったのか。なに言ってんだ。あんなとこと、こことは大違いだ。新月亭くらいいい宿はねえよ。メシは旨いし、部屋は清潔だ。シーツはいつでもパリッとしていて、ベッドもふかふか。クロエみたいな可愛い子がいるし、なんといっても、おかみが美人。これに限る。俺を含めてこの宿がどんなに素晴らしいか常連はちゃあんとわかってる。だからよけいな心配するこたあねえ」
テダが褒めちぎるので、ミュカもいくらか気を取り直したらしい。
「まあ……そりゃそうなんだけど。うちがいい宿だってのは当然よ。本当にねえ、クロエはよく働いてくれるし」
「おかみさんはよっぽどクロエが可愛いと見える。まるで本当の親子みたいだな。……おっと、きょうだいか」
テダが慌てて言い直す。さすがに親子、というのは年齢が離れすぎかもしれないから、きょうだいと言い直したのだろうが、そのテダの慌てっぷりにクロエもつい噴き出しそうになった。
だが本当のところ、ミュカはいったい何歳なのだろう。親子ほど年齢が離れていると思うときもあるし、そうじゃないと思うときもある。ミュカに言わせれば「女にはわからない部分があるほうが魅力的なのよ」とのことだ。ただ、彼女はとても苦労をしてきたらしく、それだけにとても懐が深いひとだった。
「言い直しちゃ元も子もないわよ。ま、そういうところがテダさんのいいところね。ああ、そうそう。今日はね、蜂蜜酒のいいのが入ったのよ。どう? 後で一杯」
「ほお、そりゃあ楽しみだ。塩っ気のきいたもんと一緒に一杯やりたいねえ」
すっかり機嫌を直したミュカとテダとが和気藹々と話す横をクロエはすり抜け、厨房へと向かった。
「ギアン、なんか手伝うことある?」
クロエは厨房にいるクマ属の男、ギアンに声をかけた。
ギアンはこの新月亭の厨房を取り仕切っている料理人だ。
大きな体に似つかわしくないほど、繊細で旨い料理を作ってくれる。
クロエはこの新月亭が大好きだ。
美人おかみのミュカに、ギアンの用意する美味しい食事。そしてさっきテダも言っていたが、清潔なシーツがいつもピンと張った寝心地のいいベッド。気さくなおかみとの会話は楽しくて、旨い料理に舌鼓を打てるとあればリピーターが多いのも当たり前というところだろう。
現に、新月亭はいつも繁盛している。
街道筋の宿屋というと、正直花を売る商売のところもあるが、ここは一切そういうことはない。旅びとに快適な眠りと食事を供する誠実な宿屋だった。
実はクロエは少し特殊な事情を持っていた。
というのも、クロエは亜人というだけではなくミュカやギアンとは違う性質を持っているのである。
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