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第3話

 この世界にはアルファ、ベータ、オメガという三つの個体種が存在するのだが、クロエはその中でもオメガという特殊な種に属していた。  個体種にはそれぞれ独特の特徴がある。まずはアルファ。彼らは先天的に他の種よりも優れた能力を持っており、統率力も高いことから社会的地位が高い者も多い。そのためエリート層のほとんどはこのアルファが占めている。だが、全体の一割程度と少数しか存在しない限られた種である。  そしてベータ。これはこの世界の八割以上存在している個体種で、アルファほど突出した能力はないものの、優秀な者もいる。とはいえ概ねごくごく一般的な種であると言えよう。要するにこのベータという種が社会を形成している。  最後にオメガであるが、このオメガという種は数もアルファと同じかそれ以上に数の少ない種であり、特徴も他の種とはまったく異なっていた。  というのも、オメガは能力こそ他の種となんら遜色はないものの、女性のみならず男性であっても妊娠できるという特殊性を有している。また、月に数日から一週間程度発情期が存在して、主につがいを持たないアルファを強烈なフェロモンで引き寄せてしまう。それだけでなく、ときにはベータですら不用意に惹きつけることもあった。  男女関係なく子が産めるという特徴を持つ彼らは、かつてはアルファという優秀な種の存続のため、彼らに隷属していたという歴史があった。アルファ同士では容易に妊娠ができず出産率が低いのだが、オメガは発情期にアルファと性交すれば八割以上の確率で妊娠できる。アルファとオメガでは格段にアルファという種を産み出すことができるため、かつては繁殖を目的としたビジネスが行われてもいた。そういった歴史もあって、オメガは冷遇されている。  もうひとつオメガに特徴的な点を挙げると、彼らはとても美しい容姿を有しているということだ。オメガは生殖のために進化した種である、という説があるのも当然で、なにしろ魅惑的な容貌はやはり男女問わず様々な者たちを魅了する。フェロモンだけでなく麗しい外見というのはたいそう魅力的だ。  フェロモンは現在それを抑制する薬もあり、以前に比べると発情期をコントロールできるようになっているし、近年オメガに対する理解も格段に深まっていて他のベータなどと同様には扱われるようになっている。とはいえ、やはり遠巻きにされていることが多い。  ただ、オメガはベータと異なり、アルファと「つがう」ことができる。つがい、というのはアルファとオメガの間にのみ発生する繋がりである。アルファとアルファ、またアルファとベータでは婚姻関係は結ぶことはできるものの、つがいという強い絆で結ばれることはない。  一種の契約のようなものではあるが、それはなにより強い絆だった。  オメガであるクロエはとても美しく、魅力的な青年であるがときにはそれが弊害となることもある。ことに宿屋のような客商売では。  新月亭でも美貌のクロエにちょっかいをかけたり、狼藉を働こうとする不埒な者も訪れるが、ギアンは用心棒を兼ねていて、彼の大きな体とまた見てくれだけではない相当の腕前とで、そういう者も蹴散らしてしまう。  おかげでクロエはオメガといえど、ここで快適に暮らしていた。 「お、クロエ。帰ってきたのか。悪かったな。俺の手が離せなかったばっかりにひとりで買い物に行かせて」 「ううん。平気。途中でヤギのテダさんに会って荷物を持つのを手伝ってもらったし」 「そうか。そりゃよかった。……じゃ、悪いがそこのイモの皮むきを手伝ってくれないか。チーズをたっぷり入れて、パイ仕立てにしようと思っているんだ。好きだろ?」 「うん、大好き。ありがとう、ギアン」  にっこり笑ってクロエがギアンに礼を言う。喧嘩はたいそう強いが、ギアンは普段はおっとりとしていて、やさしい。ふかふかの毛皮の側にいるとほっとする。  自分に父親がいたらギアンのようなひとがいいな、とクロエはいつも思っていた。  クロエには身寄りがない。  両親の顔も知らずに育った。とはいえ、かつては祖父母と呼ぶひともいた。だがその彼らも二年前に亡くなってしまった。  こうして新月亭に厄介になっているのもそのためだ。  二年前、最後の身寄りをなくしたクロエはひとりこのルイニアに流れるようにやってきた。訳ありでひとりぼっちのオメガの少年など、本当ならならず者に売り飛ばされてもおかしくはなかった。だが運よくミュカに拾われたおかげで、こうして屋根のあるところで寝られ、食べるものにも困らないでいる。  おまけにおかみのミュカはまるで彼女の弟のように接してくれるし、ギアンもやさしくしてくれる。だからクロエにはなんの不満もない。  ミュカもギアンもいつまでもここにいたらいい、とは言ってくれるのだが……クロエには事情があって、長くこの土地に留まることはできない。いずれはここを離れなければならないのである。とはいえ、その時期はクロエにもわからなかった。それが明日なのか、それともずっと先なのか。  ただ、最近クロエはその時期が近づいているような気がしていた。 「あ、そうだ。ギアン、玄関の看板が少しガタついていたんだ。嵐が来る前に直しておいたほうがいいかも」 「わかった。飛んでいってからじゃ困るから、こっちの下ごしらえが終わったら修理してこよう。……風が強くなってきたな」  窓ガラスをカタカタと風が揺らしはじめている。  今日の嵐は特にひどそうだ。雨戸をきっちりと閉めたほうがいいかもしれない。 (やっぱり嫌な予感がする……)  このところ、胸のうちがざわざわとしている。ルイニアの嵐など日常茶飯事なのだが、嵐が近づくたびに気持ちが落ち着かなくなっていた。 (ここに来てからずっと、こんなことなかったのに……)  この二年の間、本当に穏やかに暮らしていた。なのに、最近は眠りも浅いし、情緒も不安定だ。発情期が近いのもあるだろうけれど、それだけではないと感じる。 (発情期に重ならなければいいんだけど……)  まったくこの発情期ときたら鬱陶しいことこの上ない。  ひと月に一度、これがやってくるせいで、一週間近くはろくになにもできなくなってしまう。ミュカたちにも迷惑をかけっぱなしだ。  本当は自分が新月亭にいることだけで迷惑がかかるから、出て行ったほうがいいと思っているくらいである。だがそうは思っても自分ひとりだけの問題ではないし、結局なんだかんだ言いつつ、ミュカたちの世話になってしまう。  ミュカもギアンも大好きなだけに、いつも心苦しく思う。  そして、今感じている《嫌な予感》が、どんな運命を指し示しているのか皆目わからないまま、クロエはただ溜息をつくことしかできなかった。

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