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第2話

 その時ちょうどタイミングよく、店の前の通りにチリンチリン、と自転車のベルの音が響いた。 「とおちゃーくっ」  若い女性の声がして、子供たちのはしゃぐ声が続く。窓際の客が「お、噂をすれば」と通りを覗いた。 「ユウちゃん、たぁいまっ」  数秒ののちに店のドアが開いて、幼い子供が顔を覗かせた。優吾の息子、水野幸多である。幼稚園から帰ってきたのだ。 「おかえり、幸多」  顔が自然にほころぶ。ハニーブラウンの髪がピンピンと四方八方に跳ねて、まるでアヒルの子みたいだ。明るい琥珀色の瞳が、きらきらと煌いていた。  いつも店に入る時、四肢をやたらと張って仁王立ちするのが可愛くて、人目を憚らず写真を撮りたい衝動に駆られる。  ドアに近づいて小さな身体を掬い上げると、ぽわぽわと幸多の髪が優吾の頬をくすぐった。お日様と汗の匂いがする。 「加奈(かな)ちゃん、芹ちゃん、ありがとう。毎日悪いね」  幸多を送り届けてくれた、加奈と芹奈(せりな)の母娘に礼を言う。いつも幼稚園のお迎えは祖母がしてくれるのだが、今は旅行中なので、加奈が代わってくれていた。 「悪くなんかないよ。どうせ帰る道なんだから」  祖母に似た、威勢のいい口調で言う。加奈は優吾の従姉だ。同じくこの下町生まれで、洋菓子店を営む優吾の同級生と結婚して、今も近所に住んでいる。娘の芹奈は幸多より一つ年上で、同じ幼稚園に通っている。 「あ、加奈ちゃん。お菓子の仕入れの数なんだけど。明日から十日ほど、いつものように増やしてもらえないかな」  颯爽と立ち去ろうとする加奈を、幸多を抱えたまま呼び止める。 『珈琲みずの』で出すスイーツは、優吾の同級生で加奈の夫、谷口が作っている。洋菓子店の二代目で、谷口自身は高校を出て有名なパティスリーで修業をしている。  洋菓子店は初代の父がまだまだ采配を振るっているが、『珈琲みずの』に卸すケーキだけは、谷口のオリジナルだった。優吾が喫茶店を継ぐと決まった時、谷口に提案したのだ。  ケーキが二種類とプリンの三種類。種類は少ないが、評判はいい。最近では、このケーキやプリンを目当てに来る客も増えていた。 「もちろん、いいよ。旦那も今朝、そろそろかなって言ってたから。まいどっ」  毎月、決まった頃になるとスイーツの仕入れが少量増える。少量増えても大した儲けにはならないし、場合によっては手間が増えるだけだろう。なのにその理由を詮索せず、いつも快く応じてくれるのがありがたい。 「ありがとう。よろしくお願いします」  丁寧に頭を下げると、「こちらこそ」と軽快に笑って加奈と芹奈は帰っていった。 「さて。じゃあ、ばあばのところに行こうか」  優吾に抱えられ、芹奈に小さな手を振っていた幸多は、その提案にきゅっと眉を引き上げ「や……」と難しい顔を作った。 「お店いく」  じたばたと身をよじる。腕から下ろすと、すたすたと歩きだした。優吾はため息をついて店のドアを開ける。中では常連客が、相好を崩して幸多を迎えた。 「おかえり、こうちゃん」 「たぁいまー!」  大人たちが次々に「こうちゃん」と呼びかけるので、幸多はたちまちパアァッと顔を輝かせた。  店に出るとこうして、いろいろな人が名前を呼んで構ってくれるので、嬉しくて仕方がないらしい。  家に帰れば優吾の母がいるし、優吾もなるべく幸多との時間を作るようにしている。そこまで寂しい思いをさせていないつもりだが、しかし、赤ん坊の頃からたくさんの人に囲まれて育ったせいか、賑やかな空気を感じると、つとそちらに吸い寄せられるようだ。 (まったく、誰に似たんだか)  小さな息子の背中を追いかけつつ、胸の内でつぶやく。  あの人も、賑やかな場所が好きだった。人通りの多い真昼の公園で昼寝をするのが好きだったっけ。落ち着かないのではないかと尋ねたら、人の声や気配がするほうが落ち着くのだと。  他愛もないエピソードだ。それでも、幸多のもう一方の親の話を、優吾は滅多に口にはしない。話せないことが多すぎるからだ。  優吾は幸多の父親で、母親は幸多を産んですぐに亡くなった。優吾は幸多が生まれる一年ほど前にアメリカに渡り、幸多の母親と出会って子供をもうけた。  母親が出産と同時に亡くなり、さらに優吾は完治の難しい病気を発症したため、幼い息子を連れて実家に戻ってきた。アメリカ人実業家の秘書という仕事を辞め、男手一つで子供を育てるために――。  これは、表向きの優吾と幸多のプロフィールだ。これらの話はほとんどすべて偽りであることは、優吾の祖母と母、それに三つ年上の姉しか知らない。  そもそも優吾は、アメリカに渡航すらしていない。ずっと国内にいたのだが、幸多のはっきりした目鼻立ちと明るい色の髪と瞳が、偽のプロフィールに説得力を持たせていた。  優吾が難病を患い、生まれたばかりで母を亡くしたという話を不憫に思ってか、常連客や近所の人たちはみんな、幸多に母親という言葉を向けない。  その気遣いがありがたく、それに申し訳なかった。  真実は、口にはできない。時代が変わって、優吾の持つ特殊な体質がもっと世に知られれば、打ち明けられるかもしれないが、そんな時代がくる保証もなかった。  幸多が大きくなって、果たして本当のことを言えるのか、自信もない。  どうして言えるだろう。言ったところで、誰が信じるだろう?  幸多の父親は優吾ではない。優吾こそが幸多の母親だなどという、奇妙な真実を。

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