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第9話
敵の出ないセーブポイントのようだった保健室から、覚悟を決めて廊下に出る。嫌すぎるけど、行動しないと進展もない。
昇降口はやはり開かない。1階の他の出口も回ってみようと歩き出した時、手首に冷たい感触がした。慌てて手を引っ込めて、咄嗟に顔を向け後悔した。何かいるに決まってる。
──もちろん居た。けれどそれは、覚悟したものと違った。あどけない顔をした小さな女の子。ニコニコと朗らかに笑っている。
「にーちゃん?」
妹と同じくらいの年頃で、妹と同じ呼び方をする。在るべき存在じゃないのは分かりきってる。それにしても邪気がなくて肩の力が抜ける。
「にーちゃん遊ぼ」
首をかしげて女の子がオレを見上げる。
「にーちゃん、遊ぼ?遊べない?」
自分が遊んでもらいたい時に、こんな言い方をするのを何度も聞いたことがある。
「ごめん遊べない」
「………汐見君?」
「じゃあこれ、あげるー」
小さな手が何かを握らせてくる。小さな石みたいな手触りだった。
「汐見君、どうかしたんですか!?」
先生に両肩を掴まれた。少女のすがたは消えている。
(先生にはあの子が見えてなかったのか……?)
「女の子がいて……なんか渡された」
「すぐに捨てなさい!」
その通りだった。オレは手を開こうとした。
『キャハハハハハハハハハハハ』
狂気に満ちた、甲高い笑い声がオレを襲う。
「──っ」
一瞬、目の前が暗くなり気が遠くなった。
「──君、汐見君」
気付くと肩を揺さぶられている。
「汐見君どうしたんですか」
「あれ、オレいま……」
「さあ行きましょう」
先生は俺の肩を掴んで何事も無かったように歩き出す。どこか不自然な気もしたが、早くこの場から立ち去った方が良いと考えているのかもしれない。
──掴まれた肩に痛みが走る。
「先生、強く掴みすぎ」
「離れられないように、でしょう」
聞いてもらえない。心配するにしても少し強引すぎる気がする。ぐいぐいと引っ張られるようにして保健室に入っていこうとする。──変だった。今はそんなところに用はない。
「ちょっと、どこ行くの?」
「二人きりになる場所ですが」
先生はオレを見もしない。
「……なに言ってんの……?出口は?」
嫌な考えが沸き起こるのを、そんな訳ないと必死で打ち消す。
「なぜ出て行くんです。君は僕と此処にいるんじゃないですか────死ぬまで。ずっと。」
宙を泳ぐ黒い瞳は、何も見ていない。
(違う!────これ……先生じゃない!)
絶望的な違和感に全身から血の気が引いた。
「出られませんよ。ずっと、死ぬまで。出られれなないい」
先生から高音で機械みたいな音がズレて聞こえてくる。
「──っ、う、わああぁぁっっ!!」
伸びてきた腕をかわし、無我夢中で走り出す。
(いつ?一瞬気を失った時?先生は──どうしちゃったんだよ!)
下はどこも行き止まりだ。階上 に逃げるしかなかった。
何がどうなってるのか、ぜんぜん分からない。
(オレ一人で、どうすれば、いいんだよ──先生はもう……戻んないの!?)
心細いなんてもんじゃない。どうにもならない。こんなところで一人になったら、オレなんか憑 り殺されるしかない。先生が居てくれたから、正気でいられただけなのに。
駆け上がる途中で階段に足を取られた。その拍子に両手を着き、気付かずに握っていた小石が飛び出した。身を起こすと、音楽室へ続く踊り場だ。さっきはここで先生が迎えに来てくれた。──手が届かないくらい昔のような気がする。
『キャハハハハハハハハハハハ』
またあの声が響き、小石から青くドス黒い炎が立ち昇る。燃え広がる炎に階下への道が塞がれた。その光景は絶望的だ。もう戻れない。
胸が詰まって、息が出来なくなる。悲しいのか怖いのか……いっそ笑いたくなってくる……感情が、ごちゃまぜに混ざっていた。
「──間宮先生────っ!」
オレは精一杯の大声を張り上げた。声が届くかなんて分からない。でも狂ってしまう前に──叫ばずにはいられなかった。
「汐見君!」
今度こそ都合の良い幻聴だろう。けれど、大きな影が炎の向こう側に立っている。見間違えようのないシルエット──。
「間宮先生ーっ」
「動かないで!」
そう言っておいて先生はこちらへ向かおうとする。
「──っ、ダメだよ!こっちに来たら先生、燃えちゃうって!」
「こんなものに実体はありません」
言葉通り、ものともせずに炎の中に足を踏み出す。呆然と見つめる目の前で、まるで見えてすらいないみたいに悠然と業火を抜け、オレが駆け寄ると強く抱きしめてくれた。先生の身体は燃えるどころか、髪の毛一本焦げていない。
「よ、かった──オレ、先生が、先生じゃなくなった、って思って……っ」
「君が無事で──良かった。朦朧とした君が、僕を突き飛ばして走り出してしまったので──」
おかしくなったのは先生じゃなく、オレだった──あの小石を受け取ったせいで、幻覚を見せられたのかもしれなかった。
ゴオォォォと激しい熱風がオレたちを襲う。ハッとして階段に目を向けた。ドロドロの触手みたいな青黒い炎が、包み込もうと伸びてくる。
実体が無いなんて信じられない。炎からは高温の熱を感じるし、吸い込む空気は肺を焼くほど痛い。少なくともオレは、コレに巻き込まれたら焼け死ぬに違いない。
「先生………もう……オレ無理だよ……こんなの」
どう考えても逃げられない。炎は天井まで這い登り、隙間なく覆い尽くしている。先生だけなら逃げられるかもしれない。オレは──この中に飛び込む勇気がない。せっかく先生が助けに来てくれたのに、絶望感しかなくて涙が溢れた。
先生が──全く意図の分からない行動に出た。
炎に向かって呆れたような視線を投げ、深いため息をつく。それから、まるで出来の悪い生徒に頭を悩ますように額に手を当て首を振り──胸を反らせて腕を組んだ。完全にお説教のポーズだ。
一連の動作の末、発せられたのは鬼のような怒気を帯びた一喝だった。
「いい加減にしなさい!!!幽霊でもなんでも構いませんが、これ以上のくだらない茶番はもう御免です。肉体も持たないくせして──僕らになんの干渉ができると思いますか。生きている者に勝る存在などありません!──笑えないんです。消えなさい。今すぐに!」
狂ったように猛り、黒味を増した炎がオレたちを取り囲む。
それよりも遥かに怒り心頭に見える先生に、怯んだ様子は一切ない。
「単純に言わないと分かりませんか──邪魔だ、失せろ」
炎も凍てつきそうなくらい、醒めた声で言い放つ。
それでもゾワゾワと節足動物のように伸びてきては、触れることが出来ずに引いていく、この世のバグ。
「早く!」
炎の威力は弱くなり、段々と小さくなりながらも執念深く触手を伸ばして弾かれ──やがて一度も触れること無く消えていった。
……先生にスピリチュアルは本当に通用しない……みたいだ。
事態は収まったが、これで消滅したとも思えない。先生は除霊師じゃない……はずだ。
「先生、無茶だよ。いくらチートでも相手はわけわかんないものなんだし」
「アレは生き物じゃないから平気です。尊い生命に害をなそうなど言語道断です」
(生き物じゃないから平気って普通逆じゃない……?)
「生物学の先生だからそう思うの………?」
「どうでしょうね」
先生は口元に手を当て横目でオレを見る。
「──そんなのは、建前ですけどね。ただの八つ当たりです。別にアレの生き死になんてどうでも良いんです」
「え?」
「君を怖がらせすぎる事が、それはもう非常に癪に障ったんです。強めに意趣返しが出来て、スッキリしました」
先生はカラカラと笑う。
(……絶対に先生を怒らせないようにしよう)
「君も君です。僕が傍についているのに、ずっと怯えて」
怒りゲージを下げるには、まだ八つ当たりの量が不足のようだった。
1階に戻ってみると昇降口は何事もなかったように開かれていた。変な音や嫌な気配も感じられない。もう旧校舎になんか近づかない。一刻も早く日常に帰りたかった。
『……キャハ……』
──足を踏み出した途端、激しい寒気に襲われた。頭で考える前にガクッと腰から崩れる。
「汐見君!?」
(気のせいだ、気のせいだ──聞こえない。何も聞こえてない!)
「汐見君、汐見君!」
(外に出ても無駄なのか?オレはもう、アレから逃げられない──?)
先生に抱き起こされる。服を掴んで先生の胸に顔を埋めても震えが止まらない。
(嫌だ、嫌だ、嫌──)
「汐見君──まだ君は怯えて……」
先生の手が顎を捉える。
強い力で顔を上げられ、ねっとりと唇を重ねられる。
ねぶられながら、離れていく。
「これでも、まだ怖い?」
誘惑するように思惑をたっぷり孕む声。髪の隙間から挑発的な瞳が覗いている。
オレの微かなうなずきを、違 う事なく正しく見抜いて──。
角度を変えて深く口付けられて、すぐにいやらしく水音があがる。オレを抱き締め、自由を奪い、強引なほどに絡めて、吸う。
「怖く、ないですよね?」
「──うん」
もう声が聞こえてくることはない。
あんなものは霞んで消えてしまう。こんな甘い衝撃に比べれば。
「今日は送ります。一緒に帰りましょう」
軽やかな音を立て、先生は髪にキスを落とした。
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