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【2】
大学でのその日の講義を終えた翼は、最寄駅である地下鉄の階段を下りながら、スマートフォンを片手にセイジの新作のチェックに余念がなかった。
まだ十八歳という若さでゲームでもスポーツでもなくAVが日常というのは少々問題があるような気がするが、それが恋焦がれる相手であれば仕方のないことだろう。
「最近、あんまり出てないんだよなぁ……」
液晶画面をスクロールしながらボソリと呟く。数ヶ月前に発売された彼の出演作品は相手が女性だったこともあり、翼はあまり興味を示さなかった。その理由はセイジが女性とカラんでいるのを見ていると無性に腹が立って仕方がなかったからだ。嫉妬にも似た感情が膨れ上がり、オナニーどころではなくなる。
相手が男性ならばネコ役の男優と自分をシンクロさせることが出来るため、安心して彼に委ねることが出来る。
「あ~あ。すっごいエロいやつ、出してくれないかな……」
無意識にそう呟いてから慌てて周囲を見回す。幸いホームには数人の乗客しかおらず、翼はホッと胸を撫で下ろした。
轟音を立てて快速電車が通過する。ホームに巻き上がる生温い風に顔を顰めながら、次に入線する電車の案内アナウンスを聞くでもなくぼんやりと足を止める。
ふと、壁際に置かれたベンチに腰掛ける男性に何気なく目を向けた。
黒いパーカーのフードを目深に被り、背中を丸めるようにして前屈みの姿勢で両手を組んでいる。
ボリュームのあるパーカーの裾から伸びた長い脚。何かにイラつくようにスニーカーの爪先を揺らしている。
翼はなぜか、その男性の方に近づいていた。意思とは関係なく動いてしまう足を止めることが出来なかった。
「――あの」
彼の傍らに立ち恐る恐る声をかけると、フードの下から鋭い眼差しが向けられる。ビクッと肩を震わせて一歩後ずさった翼だったが、その野性的なこげ茶色の瞳に既視感を覚え、もう一度勇気を振り絞って声を掛けた。
「あの……。人違いだったらごめんなさい。もしかして……セイジさんじゃないですか?」
いつも利用する地下鉄のホーム。何気なく目に留まったベンチに座る男性。日常ではよくあることであるにも関わらず、自分でも驚くほど思い切ったことを口にしているなぁと感じていた。
彼がセイジであるはずがない。この世の中に似ている人なんて腐るほど存在する。それなのに――。
「AV男優のセイジさん……ですよね?」
翼の中では根拠のない確証が出来上がっていた。映像の中でしか見たことのない彼……。
彼の近くに歩み寄った時に感じた甘くて優しい香り。セイジが愛用している香水とはまるで違う、生まれて初めて嗅いだ匂いだった。
「――あぁ?」
「あ、間違ってたら謝ります! ごめんなさいっ」
唸るような低い声で凄んだ男性に慌てて頭を下げた瞬間、コンクリートの床がぐらりと揺れた。
「え……?」
訳の分からない恐怖に襲われ、ギュッと目を閉じた翼はそのまま顔を上げた。
すぐそばに目深にフードを被ったままの端正な顔が見えた。綺麗に整えられた眉の下にある二重瞼の奥の瞳から目を逸らせない。
男性は面倒臭そうに大仰なため息を吐くと、背凭れに体を預けてそこに立つ翼を見上げた。
「お前……誰?」
「あ、えっと……。翼って言います」
「はぁ? 俺のこと知ってるのか?」
「あの……。ホントに、セイジ……さん、なんですか?」
「なんで、お前みたいなガキが俺の事知ってるんだよ……」
長い脚を組み、首をわずかに傾けながら挑むような視線を向ける彼に、翼は次第に息苦しさを覚えた。
酸素を取り込もうとしても肺がうまく動いてくれない。それどころか体が急激に火照り始めている。
「フ……ファン、なんです。中学の時から……ずっと憧れてて……はぁ……はっ、はっ」
「は? 中学って……お前いくつだよ?」
「十八……。大学……行って、ます」
嫌な汗が毛穴から噴き出している。自身を抱きしめるように腕を組んだ翼の異変に彼は気づき始めた。
「――ガキのおかずにされてるぐらいだ。俺も終わりだな……って、おい! お前……顔色悪いぞ」
「だ……大丈夫、です。握手……して、くだ……さい」
長年憧れてきた――いや恋焦がれてきたセイジを目の前にして緊張しているのだと思っていた。でも、たとえ初対面の相手であってもこれほど汗をかくことはないし、熱に浮かされたように体が火照ることなど一度もなかった。
(おかしい……)
そう思った瞬間、体が大きく傾くのを感じた。
「おいっ!」
咄嗟に翼の体を支えたのはセイジの力強い腕だった。大きな掌が翼の額に押し当てられた時、体が大きく跳ねた。
「んあぁぁっ」
足腰にまるで力が入らない。自力で立っていることが難しくなってきている。もしや重篤な病気を発症したのでは……と恐怖が翼を襲った。
初恋の人であるセイジにやっと会えたというのに、こんな状態になってしまうなんて。神様はどこまでも不公平で残酷だ。
「おいっ! お前……まさかっ」
セイジの腕に支えられながらベンチに腰を下ろした翼はしどけなく脚を投げ出し、大きな栗色の瞳を潤ませながら荒い息を繰り返している。
その体からは強烈な甘さを含んだ香りが発せられ、セイジは思わず目を見開いた。
「お前……Ωかっ! 抑制剤はどうした?」
「抑制剤って……なに?」
「発情を抑える薬に決まってんだろ! お前、知らないのか……っ」
気怠げに首を横に振る翼の唇が誘うように薄く開かれる。その隙間から覗いた赤い舌が渇いた唇をなぞった。
体にフィットしたシャツの胸元にぷっくりと硬くなった乳首がその形を露わにしている。翼が穿いているブラックジーンズの生地を押し上げるように膨らんだ股間は間違いなく勃起していた。
「マジかよ……。お前、発情期……初めてなのか?」
「発情……期? なに、それ……」
「学校で習わなかったか? Ω特有の……っく。ヤバい……この香り。よりによってこんな場所で初めて発情するとか。しかし、すごいフェロモンだな。今までこんな、すごい……ぐあ――っ!」
翼の背中に回していた腕を勢いよく引き抜く。その指先には鋭い爪が伸び始めていたからだ。
「マジか……。この俺がこいつのフェロモンに……グルルルッ」
端正な顔が一瞬にして青黒い長毛に覆われる。鼻先が長く突出し、剥き出しになった牙からは涎が滴った。
目深に被っていたフードを払いのけると、そこから弾けるように飛び出した耳が落ち着きなく動く。
ミシミシと骨格が変形する嫌な音が響き、それまで纏っていた筋肉も膨らんでいく。
ボリュームのある長い尻尾をバサリとベンチに叩きつけたセイジの股間はあり得ないほどに膨らんでいた。
「――ダメだ。こいつの香りに抗えない……。クソッ!」
本来の姿である二メートル近い狼獣人へと変化したセイジは派手に舌打ちすると、小さく喘ぎながら自身を見上げる翼の肩に鋭い爪を喰い込ませて長い舌を伸ばしながら顔を近づけた。
「はぁ……はぁ……ガルルルッ!」
低い呻き声を上げながらΩの放つフェロモンに劣情を煽られたセイジは、唇が触れる寸前でハッと息を呑んだ。
慌ててわずかに残った理性をかき集め己の欲望を必死に押えこむと、翼の体を横抱きにしてホームを走った。
地上に向かう階段を一気に駆け上がり、改札で「発情者だ!」と怒鳴りながら無理やりゲートを抜けると、人々が入り乱れるコンコースを物凄い速さで駆け抜けた。
「発情者よ!」
「おい、気をつけろっ」
周囲の声がセイジの耳に入ってくる。自身が生まれながらにしてΩであると自覚している者であれば、予期しない発情を抑えるための抑制剤の携帯は必須となってくる。人前での発情はマナー違反と言われる理由は、それに触発されたαが闇雲に性交を求め、望まない結婚や妊娠を招いてしまうためだ。
しかし、翼と名乗った彼はそれを知らなかった。義務教育を受けていれば必ずと言っていいほど『第三の性』についてのレクチャーが行われるはずだ。そうなると、その話を聞いていなかった、あるいは自身がΩであるということを知らされていなかったことになる。
マナー違反を犯した翼に向けられる世間の目は冷たい。まるでセイジが両親から蔑まれていた時と同じように感じ、居たたまれない気持ちになる。
「見るな……。見るんじゃねぇ!」
牙を剥き出して威嚇しながら地下鉄の駅を飛び出したセイジは、主要公共機関や商業ビルに設けられている『ラットステーション』と呼ばれる、予期せぬ状況で発情したΩを保護する場所を探した。
そこでなら一時的ではあるが周囲から隔離され、発情が治まるまで対処してもらえる。
ぐったりとしながらも熱い呼吸を繰り返す翼を見下ろしながら、その甘い匂いに気を取られないように必死に街を走り抜ける。狼獣人の足は人間が走る速度の比ではない。呼吸器官や体も獣と同じ構造ゆえに、高速で長距離を走ってもすぐに力尽きることはない。
「セイジ……。ねぇ、抱いて……」
「バカ言うな! お前みたいなガキ、俺の範疇じゃないんだよっ」
「ずっと好き……だった。俺……あなたのこと……」
「あ~っ! ちょっと黙ってろ! お前は発情してるんだぞ! うわ言みたいに俺を誘うのはやめろ! 今のお前の言葉を誰が信じるって言うんだよ」
そう叫んだセイジの言葉に、翼の栗色の瞳に薄らと影が差した。悲しげに揺れる瞳から大粒の涙が頬を伝い、それがセイジの青黒い体毛に零れ落ちた。
「――ガキの言う事……信じてくれない、の?」
「ガキとかそういう問題じゃねぇんだよ。発情期のΩはαの子種を貰うためならばどんなことでもする。お前はまだ分かんないだろうけど、今のお前は自分が思ってるより貪欲でイヤらしいんだぞ」
「イヤらしい俺は……嫌い?」
「そういうんじゃないって言ってんだろ! あぁ――もうっ! 俺だってギリギリなんだよっ。ちょっとでも気ぃ抜いたら、お前を……。だから、泣くなって! 俺の方が泣きたいくらいだ……」
翼を抱きかかえて走っている最中も、体の中で燃え上がった劣情はそう簡単には収まってはくれない。
あり得ないほど硬く大きく膨らんだ股間を揺らしながら、通り過ぎる人たちを巧みに避け、主要駅に隣接したビルの一階に『ラットステーション』の看板を見つけると反対側の歩道から横断歩道を全速力で渡った。
すれ違う人々の視線から翼を庇うようにして、セイジはゆっくりと開く自動ドアの前でもどかしげに地団太を踏んだ。
「さっさと開きやがれっ!」
ガラス扉の隙間をすり抜けるように体を滑らせたセイジは迷うことなく正面に設けられたカウンターへと向かった。
「発情者だ! 処置を頼むっ」
受付カウンターにいた数人のスタッフが鼻荒く叫んだセイジに驚き、皆その動きを止めた。
獣人は決して珍しくはない。現に、ここに来るまでに何人もの獣人とすれ違った。しかし、スタッフはセイジと彼の腕の中で荒い息を繰り返している翼を交互に見つめた。
「何をボーっとしてるんだよっ! 早くしろっ」
「あ……あの、その方との御関係は?」
「は? ついさっき会ったばかりだよ。名前は確か……翼。そう、翼って言ったっけな」
訝しげにセイジを見上げた女性スタッフが周囲を見回してから身を乗り出して問うた。
「あの……。貴方はα種の方ですよね? その方と――その、性交なさったのですか?」
セイジはイラつきながら近くにあったソファに翼を横たえると、カウンターに身を乗り出して女性スタッフの顔に濡れた黒い鼻先を突きつけた。
「するわけないだろ! どこの誰かも分からないΩを抱くほど俺は困ってない! その証拠に、俺のココ――見れば分かるだろ?」
セイジが指し示した場所にスタッフの視線がゆっくりと向けられる。そこはチノパンの生地を目一杯に押し上げて膨らんでいた。獣人特有のその大きさに瞠目し息を呑んだスタッフにニヤリと笑って見せた。
「これで分かっただろ、お嬢さん?――ところで。コイツ……抑制剤も服用してない。どうやら初めての発情らしい。自分がこうなることを全く予期していなかったみたいだから、自身がΩ種であることを知らなかったんじゃないかな。正気に戻った時、上手く説明してやってくれよ」
カウンターでの騒ぎを聞きつけたスタッフがソファでぐったりとしている翼を部屋に運びこむ。それを目の端で確認しながらセイジは小さく息を吐いた。
「あの……。一応、貴方の連絡先とお名前を……」
クリップボードに挟まれた用紙をボールペンと一緒に差し出した彼女に、セイジは薄らと汗ばみ視界を遮るようにして落ちてきた青黒い髪を乱暴に掻き上げてから言った。
「――その前にさ。ちょっとトイレ貸してくれないかな?」
「え?」
「コレ――抜いてきたいから。このままじゃ気が狂いそうだ」
「え?――あ、はい」
セイジの言わんとしていることが理解できたのか、スタッフは顔を真っ赤にして小さく頷いた。
大きく膨らんだ股間はいつ暴発してもおかしくないほどに熱く疼いていた。仕事でもプライベートでもΩを抱いたことは数えきれないほどあったが、それぞれに望まない妊娠を避けるために抑制剤や避妊薬を服用し、発情期以外のタイミングでセイジと関係を持っていた。Ωとしてこの世界で生きていく最低限のルールを守った者ばかりとしか接触がなかったセイジは、今回に限っては正直なところかなり焦り困惑したことは否めない。
なにしろΩの発情を――しかも初めての発情を目の当たりにしたのは初めてだったからだ。
そう考えると、素人処女を相手にした時の方がどれほど楽だったかと思える。
まさか、公共の場所で彼のフェロモンに当てられてあっけなく獣人化してしまうことになるとは……。
便座に腰かけて、窮屈なスペースで自慰に勤しむ。目を閉じて集中してみるが先程の翼の潤んだ目が脳裏を掠め、その度に扱く手が止まる。
人間の何十倍という嗅覚をもつセイジの鼻孔に染みついた彼のフェロモン。甘ったるい香りが残るその場所に自然と意識が向いてしまう。
「クソッ! ガキじゃないか……」
独りごちて、小さく舌打ちを繰り返す。
その甘さを辿るたびに腰の奥がズクリと疼き、長大なペニスの先端からは透明の蜜が溢れ出した。
「この俺がなんで……。あんなガキをおかずに抜かなきゃいけないんだよ……」
そうは言ってみるが体は嘘を吐けない。駅で翼に襲い掛かろうとしたことは紛れもない事実だ。
Ωのフェロモンは理性を狂わせる――。まさにその通りで、百戦錬磨のAV男優であるセイジさえも抗うことが出来なかった。
赤黒く変色し、ドクドクと脈打つ茎を蜜が伝い、それを扱くとグチュグチュと卑猥な音を発する。
「はぁ、はぁ……。あぁ……イキ、そ。あ……気持ち、いい……っ」
顎を上向けて、天井の換気扇を見上げる。
あの時我に返らなければ彼の中に出されていたかもしれない大量の精子が低い呻き声と共に吹き上がる。
「ぐあ――っくぅ!」
射精と同時に獣人化していた体は元に戻り、人間とほぼ変わらない容姿になる。茎を掴んでいた手を濡らした白濁が糸を引きながらタイルの床に流れ落ちた。それを恍惚の表情で見つめた後で、セイジは肩をがっくりと落としながらトイレットペーパーを勢いよく引き出した。
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