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 あの地下鉄のホームでの発情から二週間が経っていた。  翼は『ラットステーション』で望んでも与えられない体の疼きに耐え、症状が治まった頃に病院への紹介状と数日分の抑制剤を手に自宅であるマンションに帰ることが出来た。  しかし、その日から彼の中でルーティンのように繰り返されていたセイジが出演しているAVを見ることをやめた。もちろん自慰も……。  壁に貼られたポスターを眺めてはため息を吐き、そして気が付くと泣いていた。  憧れであり、恋焦がれていたセイジに初めて会ったその日に、あんなアラレのない姿を見せてしまった自分が恥ずかしくて居たたまれなかったからだ。  何より自分がΩだったと初めて知った。それを知ったことで今までのことすべてが翼の中で腑に落ちた。  翼の両親は彼が幼い頃に離婚している。父親は翼が生まれてからずっと彼に冷たく当たっていた。時には虐待と思える行為もした。なぜ自分が父親に嫌われなければならないのか、幼い頭で必死に考えたが結論は出せなかった。 「この出来損ない!」  父親の口癖は今でも翼の胸をチクリと痛ませる。  独り暮らしを始めたマンションに帰った夜、母親にすべてを聞いた。  翼の父親はα種で、今は某省庁の官僚として国を支えている。母親はΩ種であり、二人の間には必然的にα種の子が授かるはずだった。しかし、遺伝子変異で生まれたのは母親と同じΩ種だった。  そのことが父親のプライドと血統を傷付け、母親と翼を罵倒し手を上げさせた。  そして、自らの出世のためにΩ種である翼の存在を明らかにすることなく母親と離婚し、絶縁した。  しかし、この世の中……いつどこからその関係が漏洩しマスコミが騒ぎ立てるか分からない。そこで彼は口止め料として毎月多額の養育費と生活費を二人に送金している。  これを貰っている以上は他人のフリ。父親は知り合いの母子家庭への援助という実に聞こえがいい理由で今の地位を確立している。現に、彼が進める政策の中にΩ種保護の推進事項が含まれている。  我が子を『出来損ない』という父親。翼は母親の愛情を一身に受けて育ってきたが、やはりトラウマは消えない。  Ωであることが『出来損ない』なのか。発情し、誰かれ構わず誘惑し子種を欲する浅ましい体を与えたのは、そう言い放った父親本人なのだ。  十八歳になったこの年までΩであることを知らされず、ひっそりと息を顰めるように暮らしてきた翼。  でも――それで、セイジへの想いが消えたわけではない。  あの力強い腕に抱かれ、獣人化した美しい毛並に包まれながら、翼はそれだけで達することが出来た。  彼から溢れ出すオスのフェロモンが翼の本能を掻き立て、腹の奥の方がキュッと締め付けられるように甘く疼いた。優れた能力を持つ獣人のα種の子種を欲して、翼の中の何かが壊れそうになった。  それなのに……。彼は自身のことを『ガキ』としか見てくれない。確かに十四歳も歳が離れていれば、自然とそういう風にしか見られないだろう。でも、彼は翼が心をときめかせたあの時と変わらぬ肉体と、甘く脳髄に響くような低音ボイス、そして歳を重ねるごとに落ち着きと渋さ、オスの色気をさらに纏っていた。 「セイジ……。もう一度、逢いたいよぉ」  ワガママだと言うことは重々承知している。あの日、偶然が引き起こしたハプニング。  機転を利かせて『ラットステーション』に運んでくれたことは一言では言い尽くせないほど感謝している。それを彼に伝えたくて、スタッフに連絡先を問い合わせたのだが「個人情報は教えられない」と冷たくあしらわれてしまった。なぜなら、彼と翼は何の接点もない赤の他人だからだ。  もしも翼とセイジが『番』と呼ばれる関係で、性交もあり首筋にその証である咬み痕があったとしたら、状況はまるで変わっていただろう。  まるで知らない者同士が初対面でいきなりそうなることはまずない――と、皆は言う。  だけど、世の中には『運命の番』というα種とΩ種が互いの魂で繋がった関係があると言われている。  それは体だけ、言葉だけの繋がりとは違う。もっと根底から想い合い、慈しみ合う最高の関係なのだと。  そういった相手に出逢ったΩはその人にしか発情しない。αもまた同じだ。  互いに結ばれた後も、発情期が訪れても他人には劣情を抱くことはないと聞く。  だが、そんな関係はあくまでも稀なケースであり、この世界で一体何組のカップルが『運命の番』であるといえよう。  鬱々とした日々――。  寝ても覚めてもセイジしかなかった翼の中にぽっかりと穴が開いてしまったような虚無感に苛まれていた。  大学からの帰り道、あの地下鉄のホームで無意識に彼の姿を探している自分がいる。  所属している事務所『RED企画』に押しかけてもいいのだが、そんなことをしたらセイジに迷惑をかけることになる。  もう一度あのモフモフの中に顔を埋めたい。そして強く抱きしめて欲しい。  その想いは日に日に強く、ただ増していくばかりだった。  ***** 「――セイジさん、もういい加減にしてもらえませんか? 今月に入ってスタジオのレンタル料金だけで赤字ですよ。貴方の才能を否定するわけじゃありませんけど、プロなら勃たせてナンボでしょ? それが出来ないっていうんなら、真剣に考えた方がいいんじゃないですか?」  それまでざわついていたスタジオが、水を打ったように静まり返る。  目の前で腕を組んだまま大仰にため息を吐く監督からすっと目を逸らしたセイジは、バスローブを羽織ったまま何も言わずに背を向けた。 「図星さされて逃げるんですか? AV界のプリンスが憐れなものですね。――あと三十分待ちます。それでダメなら今日はバラします」  容赦なく突きつけられる現実。セイジは静かにスタジオを出ると、扉に背を預けたまま何度も前髪をかきあげた。 「クソッ! 言いたいことばかり言いやがって……。散々ゴマ擦って近づいてきたのはお前の方じゃねぇか……」  今までに何回も彼の作品には出演している。AV界では名の知れた監督ではあるが、今のセイジにはただの嫌味な男にしか見えなかった。  薄暗い廊下を歩きながら、全く兆すことがなくなってしまった自身のペニスをバスローブの上からそっと撫でる。  そこにはだらりと力なく垂れ下がるだけの情けないモノがあるだけだった。  少し前から変調には悩まされていた。しかし、翼に出逢ってからその変調はより顕著なものへと変わった。  一日何本もの収録をこなしてきた自慢の剛直が全く役に立たなくなってしまったのだ。  EDを疑い病院にも行ったが異常はないと断言された。もしも身体的要因がなければ、残るは心理的要因のみと診断され、ここのところの仕事でのストレスが原因なのでは……と高野と相談して出演依頼をいくつかキャンセルした。しかし、どれだけ体を休ませても一向に復活する兆しがない。  地下鉄のホームで発情した翼のフェロモンに当てられた時のような、自身でも狂いそうなほどの劣情を感じられないのだ。共に出演するパートナーが悪いと言っているわけではない。何度か顔を合わせ、初対面の相手ではないにも関わらず体は性的に興奮することはなかった。  そして――ついに引導を渡された。三十分という猶予を与えられたところで、セイジのペニスが勃起する可能性は低い。そうなれば今日の撮影は中止。もしかしたら、この企画さえも立ち消えになるか、代役としてもっと若い男優を引っ張ってくるかのどちらかだ。  人気絶頂期にはセイジの顔色を窺っては高級クラブを貸切ったりギャラを奮発したり、何かにつけて出演依頼をしてきた監督ではあったが、彼が低迷期になった途端その掌はあっさりと返された。  仕舞いには「引退しろ」とまで……。  セイジは薄々気付いていた。決して口に出すことはなかったが、心の奥底で燻り続けている何かに振り回されていることを。  それは自身でも認めたくないと思うものであったが、否定しようとするたびに胸が苦しくなりどうしようもなくなる。  控室に入りソファに深く腰掛けると、殺風景な天井を仰いだまま目を閉じた。  やり場のない怒り、そして不安。  行き場を失ったセイジは、欲しい玩具を手に入れることが出来ずに地団太を踏み続けている子供と一緒だ。  前に進むことも出来ない。まして過去の栄光を取り戻すことも出来ずにいる。  いつも以上に落ち込んでいるセイジを見かねて、あとを追うように高野が控室に入ってきた。 「セイジ、本当にどうしちゃったんだよ。最近のお前、何かおかしい……」 「お前も、そう思う? 俺も――そう思ってる」 「え?」  ソファの肘掛けに長い脚を乗せてごろりと横になったセイジは、高野に背を向けたままポツリ、ポツリと話し始めた。それはまるで独り言のようで、それを聞いていた高野は黙ったまま傍らのパイプ椅子を引き寄せて座った。 「――地下鉄のホーム。どこの誰かも知らない俺のファンだって大学生が目の前でいきなり発情したんだよ。彼は自分がΩだってことを知らなかった。それだけじゃない。抑制剤の存在すらも……。初めての発情ってやつに偶然居合わせちまったんだけど、そのフェロモンが強烈でさぁ。俺、人目も憚らず獣人化してそいつを犯そうとした……」  驚いて息を呑んだまま顔を上げた高野の気配に気付いてか、セイジはククッと喉の奥で自嘲気味に笑った。 「――安心しろ。俺は罪を犯してはいない。咄嗟に彼を抱きかかえて『ラットステーション』に駆け込んだ。その間さ……「俺を抱いて」って強請るんだよ。発情したΩなんて自我がないのと一緒だろ? だから最初のうちははぐらかしてたけど……。アイツ、泣いたんだよ。俺のこと「好き」って言った後に「ガキの言う事は信じられない?」って……。そしたらさ、なんていうんだろ……体が熱くて堪らなくなって、理性も気を抜いたら簡単にぶっ飛びそうなくらいになって。撮影の時には考えられないくらいアソコが硬くなって――コイツを抱きたいって思った。アイツ、俺とおんなじ匂いがした……」  セイジは肩を揺らして突然笑い始めると、ゆっくりと体を起して高野の方を見つめた。  乱れたバスローブの合わせ目からは、先程までの情けない様相とはまるで異なる長大なペニスが下腹につかんばかりに勃ち上がっていた。 「――情けない話だろ? アイツの事思い出すたびにこうなっちゃうんだもんな……。どうして本番で勃たないんだろ」  小馬鹿にするように自身のペニスを指先で弾くと、透明の蜜を滴らせて大きく揺れた。  高野は今まで数え切れないほど目にしてきたセイジのペニスからすっと視線を逸らして、小さくため息をついた。 「セイジ……」 「なぁ――」  言いかけた彼の言葉を遮るようにしてセイジがそれまで以上に低い声で囁いた。  その艶のある声音に高野はわずかに視線を上げた。 「『運命の番』って信じるか? あれって都市伝説みたいに言われてるけどさ……。俺、ちょっとだけ信じてみたくなった」  そう言ってゆっくりと体を起こしたセイジは、長く伸びた爪を唇に押し当ててニヤリと笑った。  白い牙を剥き出してすっと目を細めたセイジから発せられる強烈なオスの色気に高野は目を瞠った。 「偶然って、時には不思議な出会いを引き寄せる。この世界……何百億っていう人が存在する中でさ、その人に――たった一人の人に出会う確立って天文学的な数字だよな。でも、俺はそいつに出逢ったかもしれない。三十過ぎのオッサンがこんな夢物語みたいなこと口にするようじゃ、もう終わりだよな……」  グシャリと乱暴に前髪をかきあげて、テーブルに置かれていたミネラルウォーターのボトルを力任せに掴むと、それを一気に流し込む。  空になったボトルをグシャッと音を立てて握り潰した時、それまで黙っていた高野の薄い唇がゆっくりと弧を描いた。  普段は気弱そうに見えるその相貌が、まだ売れっ子AV男優だった時の艶を垣間見せる。 「――じますよ」 「え?」 「セイジが言う『運命の番』の存在、信じますよ……」 「高野……」 「だって――俺がそうだったから。そうなったらもう男優なんてやっていられない。だから潔く引退した……」 「マジ……か」 「仕方ないだろ……。他のヤツじゃ勃たないんだから……」  人気絶頂期にいきなりAV界を去った彼。その真相は都市伝説と言われている『運命の番』に出逢ったから。  高野の引退の真相は誰にも明かされることはなかった。かくいうセイジさえも知らなかったし、おそらく何かの事情があっての事だろうと聞くことも憚れた。 「――本当に偶然だった。素人ナンパ企画で街を歩く男の子に声をかけただけ。たったそれだけのことだった……」 「じゃあ、お前の嫁って……まさか」 「ええ。その時の彼ですよ。Ω種の可愛い妻です」  にっこりと目を細めて笑った高野に、セイジは全身の力が抜けたような気がした。そして、前屈みの体を反動をつけて起こすと、襟足に纏わりつく黒髪をわずかに揺らしながら声を上げて笑った。 「マジかよー! それ、初耳!」 「誰にも言ってないから……。ここだけの話にしておいてくれよ」 「OK、OK! そうと決まったら、こんなところに長居は無用だなっ」 「あとの始末は俺が請け負います」  眼鏡のブリッジを指先で押し上げた高野は首を左右に倒してコキッと小気味よい音を響かせると、それ以上何もいう事なく控室を出て行った。  セイジは勢いよく立ち上がるとボリュームのある尻尾をブンッと一振りし、バスローブから覗く凶暴なペニスをひと撫でした。 「今日の相手がお前じゃないのが悔しいけどな……。予行練習にはちょうどいい」  目を閉じて翼の体から溢れ出すあの甘い香りを思い浮かべる。たったそれだけで勃ち上がったセイジのペニスがビクンと大きく跳ねた。 「レジェンドとして、もうちょっとだけ仕事させてくれ……」  耳の奥でまだ残っている翼の艶めかしい息遣いと喘ぎ声が鼓膜を震わせる。その瞬間、セイジの体がミシミシと軋んだ音を立てて獣人化した。青黒い長毛に覆われた筋肉質の体に長く伸びた鼻先、そしてペニスを掴んでいるのは硬い肉球。  赤く長い舌でペロリと口元をひと舐めすると、セイジはバスローブを肩に羽織ったままスタジオへと向かった。

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