ここ猪俣邸(いのまたてい)において唯一気に入っているのは、いつでも自由に入れる天然の露天風呂があることだった。仕事終わりの夕刻(ゆうどき)は混んでいるが、今は誰もいない。灯りが乏しくて不便ではあるが、個人的には仄暗い方が好きだった。 「…………」 　由羅は温泉に浸かりながら、目の前に広がっている景色を眺めた。今夜は月が明るい。星も美しく瞬(またた)いている。 　けれど、それだけだ。さんざめく星空を見ても、由羅の心は何一つ動かなかった。どんなに素晴らしい景色を見ても――春の桜も、夏の花火も、秋の紅葉も、冬の雪も、由羅の目には灰色にしか見えなかった。 　もちろん色は認識している。ただ由羅の感性が枯死(こし)してしまっただけのこと。十五になってすぐ故郷を追い出され、数多の男たちにかどわかされたり犯されたりして各地を転々としてきた。そんな生活がもう五、六年は続いている。 　ここ猪俣にいるのも経緯は同じだ。旅の途中で数ヶ月に一度の酩酊状態に陥り、熱っぽくて喘いでいたところを、たまたま通りかかった好文に拾われた。以来、えらく気に入られて邸の一角に囚われている。それから何ヶ月経ったのかは不明だ。 　あっという間ではあった。だが、由羅の心が凍りつくには十分すぎる年月だった。若く瑞々しかったはずの感性はたちまち死に絶え、世界は灰色に塗り潰された。 　寄ってくる男どもは皆、由羅の香りに惹かれているだけ。いつも閨(ねや)で肢体を弄ぶのみで、そこには一片の情愛もなかった。性の奴隷と言っても差し支えなかった。 　そんな生活を繰り返していたら、何もかもどうでもよくなってしまったのだ。 　いつか灰色の世界が再び鮮やかな色に染まらないかと願っているものの、由羅の心が枯れている以上それも難しい。 　自分はこのままずっと、灰色の醜い世界で生きていくしかないのだ……。 「っ……」 　不意に猛烈な吐き気がこみ上げてきて、由羅は手で口を押さえた。二、三度静かにえずき、深く息を吐いて呼吸を整える。 （これはやはり……） 　もう少し湯に浸かっていたかったが、そうも言っていられないようだ。もともと今夜出て行くつもりだったから、予定に狂いはないけれど。