ここは、真夜中の宿直の間。灯りの絞られた薄暗い部屋からボソボソと話し声が聞こえる。人影は二つ。 「蓮月、俺は忍ぶ恋に疲れてしまった。これ以上は耐えられない」 「左近衛中将……」 　二つの影が重なる。 「ウォホン、ウォホン」 　そうはさせないっ！　と、帝がワザとらしく咳をすると、影はすぐに離れた。 「これは、これは左近衛中将。今夜の宿直は免除で三条を見回るように命じましたよね？」 　冷静にと思うのに、帝の口調は責めるものになる。 　帝は、頭に血がのぼり、怒りを抑えることができなかった。 　蓮月の宿直が気になって、様子を見に来てみれば…… 　さすがに公務中にはないかと思っていた。それなのに信用を裏切って……いや、ヤツならやりかねないと思っていたからこそ、様子を見に来た。信用なんて全くない。 　予想を裏切らない展開に怒りがフツフツと体の中からわいてくる。それに…… 　左近衛中将。お前は、いつから蓮月のことを名前で呼んでいるんだ？ 許せないっ！！ その呼び名は(家族を除き)私だけが許されたものなのに！！ 「ちょうど見回りから戻ったところです。今後の見回りの計画について右近衛中将と相談をしていました」 　な、な、なんとっ！！どの口で、それを言うっ！！ 　今、蓮月のことを口説いていたではないかっ！しかと、耳にしたぞっ！！！ 　帝が、さらに咎める言葉を口にしようと息を吸い込んだとき、絶妙なタイミングで蓮月が遮った。 「恐れながら、宮中といえども主上お一人で夜歩きは危のうございます。寝所まで御供致します」 「許す」 　左近衛中将は残し、蓮月と二人で寝所に戻る。 　とりあえずの危機は脱した。だが、これで終わった訳ではない。手遅れになる前に、なんとかしなければ。 　帝は、こっそりと前を行く蓮月を観察した。 　興奮しているのか、頬が上気している。 　男だとわかっているのに、雄を誘う艶めかしい色香が漂う。 　ひょっとして、もう、左近衛中将の手に落ちてしまったのだろうか？ 　胸がズキンと痛む。 　誰にも穢されないようにと、何年もの間、大事に見守ってきた。それが知らないところで他の男に奪われてしまっていたら耐えられない。 「蓮月？　好きな人はいるの？」 　息をのむ気配がする。 　やはり、そうなのだろうか？ 「……お慕い申し上げている方はいらっしゃいます」 　蓮月がこちらを振り返り、真っ直ぐに見つめてきた。 　いつもは小鹿のような愛らしいつぶらな瞳が、なぜか今夜は食虫花が誘引のために発する強烈な匂いのように艶やかに潤んでいる。 　その瞳をもっと見たくて、頬を掌で包み顔を上向かせた。 　柔らかなしっとりとしたその感触に、なけなしの理性が砕け散る。 　誰にも渡したくない。それならば、いっそのこと。 「蓮月、お前のことを……」 　サクランボのような可愛らしい小振りな唇が真っ赤に熟れて、早く食べてと誘っている。催眠術にかかったかのように吸い寄せられる。自分のものと重ね合わせるまさにその瞬間、 「大変ですっ！　主上、物の怪が現れましたっ！」 　月に照らされた艶めかしい空気は、見事に霧散したのだった。 　　　　　◇　　◆　　◇ 　帝は、御簾の中で物思いにふけっていた。 　もちろん、昨夜の蓮月との事だ。 　蓮月に欲情していた。 　誰にも穢されないようにと大切に守ってきたはずなのに、よりにもよって自分が穢すところだった。 　あのとき、邪魔が入らなければ、どうなっていたのだろうか？ 「民は不安に感じますなぁ。このままでは治安が乱れてまうわ」 　御簾の向こうでは、陣定（じんのさだめ）という重要な政策を決める政務会議が行われていた。 　政務会議といっても、年寄りの雑談の延長のようなもの。 「物の怪については、左近衛中将と右近衛中将が頑張ってはるいうても、見回りを強化するくらいしかできへんし」 「根本的な解決にはなりまへん」 「何か、明るい話題があればいいねんけど」 「それこそ、今上さんに皇子が生まれはるくらいのビッグニュースじゃないとあきまへんわ」 「それ、いいんちゃう？」 「うちの二の姫はどないでっしゃろか？　ちょうど年頃もばっちりや」 　右大臣の言葉に、帝は我に返った。 　年寄りの世間話のはずが、知らないうちに、変な方向に話が進んでいる。 　慌てて、話しを遮る。 「待ってください。すでに萩壺女御もいますし、新しく女御を迎えるつもりはありません」 　東宮時代に迎えた萩壺女御は15歳年上の母親的存在。 　最初から男女の関係はなく当然子供もいなかった。 　そのため、前々から若い女御を迎えるという話は出ていた。 　右大臣の二の姫と言えば、蓮月の2歳上の姉だ。 　女御入内の話を否定したが、すでに後の祭り。 　帝は、舌打ちをした。 　 　しまった、謀られた。 　 　大抵の場合、ここで話題にするときには十分な根回しが済んでいる。 　父帝の時からの重鎮たちは狡猾な古狸で、こういった手腕には長けていた。 　年若い帝では、到底、太刀打ちできない。 　すでに決定したのも同然だった。