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右近衛中将の契り その2
「あんな奴に絶対に負けないっ!」
蓮月は、自室に帰ると手に持っていた檜扇をバシンと床に投げつけた。
思い出すだけでも、腹が煮えくり返る。
嘲笑交じりの宣戦布告をされた。
名門右大臣家の一人息子で一番の出世頭の右近衛中将の自分が、だ。
得体のしれない陰陽師ごときに。
本当は、違った。八つ当たりだ。
迫力に呑まれて、言い返すことができず、何も出来なかった自分に腹が立つ。
あまりに、器が違い過ぎた。
■ □ ■
「身の程知らずのあなたに、あのお方を渡すことはできません。身を引いてもらいます。例えどんな手をつかっても」
悪意の塊のような毒のある言葉とは裏腹に、この世のものとも思えない涼し気な微笑みを浮かべた男は、鈴を転がすような清く澄んだ声で部屋の奥に呼びかけた。
「主上? 右近衛中将の忠誠心は本物です。あなたの予想通り、見破られてしまいました。私の負けです」
その言葉に応じるて、部屋の入り口から帝が姿を現した。
悪戯が成功して喜ぶ童子のように、満面の笑みを浮かべている。
「白朱、言った通りだろう? 私の蓮月は、お前の術にも騙されはしないのだ。さて、賭けに勝ったからには約束を守ってもらうぞ」
蓮月のことはそっちのけで、帝は白朱と呼ばれたその男の耳元に何かを囁くと、二人は楽しそうに笑い声をあげた。
大好きな笑顔のはずが、何故か、その表情に胸がズキンとえぐられる。
男が、勝ち誇ったようにチラリと蓮月に視線を投げつけてきた。
「主上も困った人だ。こんな賭けの対象にされて、右近衛中将も気分を害されるでしょうに」
「白朱は生真面目すぎる。蓮月なら、こんなことでは怒りはしないよ。ねぇ?」
二人の親しげな様子に、蓮月の心はますます凍り付いた。
陰陽師は、帝とは御簾越しでの対面しか許されない。
陰陽師に限らず、貴族であっても、本来なら帝と直接対面することは許されない。
蓮月だけが、帝の特別だった。
そのポジションは、蓮月だけのものだったはずなのに。
「蓮月、ご苦労だった。宿直の途中だったのだろう? もう、戻ってもいいよ? それともこのままここに泊まる?」
能天気なその言葉に、蓮月の怒りは帝に対しても向けられた。
寝所に誘われたときは、天にも昇る思いだった。
やっと、決心してくれたのだと思った。
愛おしくて大好きな人のものになれるのだと、本当に嬉しかった。
心臓が爆発する程、ドキドキして、夜が待ちきれなかった。
それなのに自分のこの想いは、こんなバカバカしい、本当に下らない賭けの対象にされていたのだ。
帝にとっては、蓮月の存在なんて、どうでもいい存在だったのだ。
鼻がツーンとして、視界が滲む。
蓮月は、下唇を噛みしめて込み上げる涙をやり過ごすと、一目散に部屋を走り出た。
帝が慌てて自分の名を呼ぶ声が聞こえるが関係ない。
帝のバカ、バカ!
あの男の正体も知らずに、イチャついて!
蓮月は心の中で罵りながら、真っ暗な庭を闇雲に歩き回った。
宿直の間に戻るには、心が乱れすぎている。
気が付くと、清涼殿の池のほとりに来ていた。
ここは、帝のお気に入りの場所だ。
「おや? こんな所にスズメの子が」
薄月明りに照らされた水面に、人影がうつる。
「折角、鳥かごを開けているのだから、さっさと逃げればいいものを」
背後に立つ男は、艶を含んだ声で言葉を続ける。
「教えてあげましょう。帝の一番のお役目は何かわかりますか?」
幼子に噛んで含めるような言い方が、バカにしたように感じられて癇に障る。
「世継ぎをなすことです。世継ぎをなさなければ、無用な争いを生むことになります。愚かなスズメの子にはそれがわからないらしい」
「なっ!!」
「しかも、子をなすこともできないくせに、身を引くどころか、寵愛を受けようと必死だ。全く、愚かにもほどがある」
蓮月は、唇を噛みしめた。
そんなこと、言われなくてもわかっている。
だけど……、好きになってしまったのだから仕方がない。
幼き頃から思い続けているあの人の愛を手に入れたいと願うのは、そんなに非難されることなのだろうか?
「阻止をしてみせましょう。もし帝が男の体を御所望なら、私のこの体を差し出しても構わない。私の体は大変、具合がいいらしいから、帝も夢中になることでしょう」
蓮月が言い返そうと背後を振り返ると、男の姿は跡形もなく消えた後だった。
■ □ ■
「お前なんかに負けるものかっ! 絶対に契ってみせる。寵愛を受けまくってやる!」
愛らしいと褒められる小鹿のような目に闘志を滲ませながら、蓮月は初月に誓った。
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